最終話 春を待つために
翌朝は頭痛とともに目を覚ました。
ホテルのこじんまりしたレストランでパンとコーヒーだけの朝食を済ませ、荷物をまとめて待っていると約束の八時きっかりに紗英の車が駐車場に現れた。
「おはよう。昨日はちょっと飲みすぎちゃったね」
黒のワンピースにコートを纏った紗英は、ばつが悪そうに笑う。
「あれでちょっとで済むのか。……凄いな」
僕は半ば感心しながら車に乗り込んだ。
「それで、どこまで送っていけばいい?」
走り出した車の中で、前方を向いたまま紗英が訊ねる。
「そうだな……。○○駅までお願いできるか?」
「え? あそこ!? もっと大きな駅まで行ったほうがいいんじゃない?」
「いや、そこでいいんだ」
「……わかった」
駅に向かう車中はあまり言葉を交わすこともなく静かに時間は過ぎていき、やがて車は駅に到着した。
「ありがとう」
お礼を述べた僕に、紗英は「ホームまで見送るよ」と言って車を降りる。
そのまま、駅のホームに向かって二人で歩き出した。
誰もいない小さな駅のホームは、身体の芯まで染み込むような冷たい空気に包まれていた。
見上げれば、鉛のような濃い灰色の雲が立ち込める空と、四方から圧迫するように迫る黒々とした山々、そして、駅舎の周りには茶色く枯れて折り重なった草ばかりの荒涼とした風景――。
思えば僕にとっての長い物語はこの場所で始まり、今再びこの場所で結末を迎えようとしている。
「寂しい風景だと思うでしょう?」
紗英が僕の隣でぽつりと呟いた。
「え? うん、……まぁそうだな」
「でもね、信じられないかもしれないけど、もうすぐここはとても美しい場所に変わるんだよ」
「ここが?」
改めて辺りを見渡してみるが、この色が消えたような世界が美しく変わる想像がつかない。
「昔ここに来た時に、雪が降ったの覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」
「あの時はすぐに止んじゃったけど、本格的な冬が訪れるとここは一面が雪で覆われて、真っ白な世界に変わるのよ」
「そうなんだ……」
相づちを打ったものの、僕には実感が湧いてこない。
「……雪はね、何かつらいことも、悲しいことも、この寂しい景色ごと真っ白なベールの下に覆い隠してくれてる気がするの」
何かを夢想するような眼差しで紗英がつぶやいた。
「雪が?」
「うん。だから、私は雪が好き。もちろん生活するには大変なことも多いけど、雪はこの景色をとびきり美しい世界に変えてくれる。そして、その下にいろんなことを一度眠らせることで、もう一度春を待とうって気持ちになれるような気がするのよ」
この薄暗く陰鬱な景色が、美しい純白の世界に……。
想像してみるが、やっぱりあまり上手く思い描けない。
それでも紗英の言っていることは解るような気がした。
「……なんだか、僕も見てみたくなったよ。その景色を」
一瞬、紗英が驚いたように僕を見る。
そして、逡巡するようにまた目をそらした。
「見にくれば、いいんじゃない」
小さく、だが確かな声でそう呟いた。
「えっ?」
「あー、でも売れっ子の脚本家さんにはそんな暇ないよね! ウソ、気にしないで」
紗英は慌てて打ち消すように両手を振る。
「それは嫌味かよ。ようやく食っていけるぐらいにはなっただけだ」
僕は覚悟を決めると、大きく息を吸って紗英に向き直った。
――まだ、僕に結末を書き換えることは出来るのだろうか。
「紗英。また、連絡してもいいか?」
「……そう言って、十年も音沙汰がなかったヤツを知ってる」
僕の言葉に、紗英は横を向いたまま応える。
「うっ……、それは……ほんとに、悪かった。ごめん!」
地面に頭をつける勢いで謝る僕の背中に、紗英が吹き出す声が聞こえた。
「冗談よ、わかってる。あの時はきっと二人とも大人になりきれてなかったんじゃないかな。たぶん、これは圭吾にも私にも必要な時間だったんだと思う。……なんだかずいぶん時間かかっちゃったけどね」
顔を上げた僕が見たのは柔らかく微笑む紗英だった。
「でも、今度は十年も待たないから」
「そ、それはもちろん――」
いつの間にか、僕達は声を出して笑っていた。
小さな駅のホームで微笑む紗英。
それはずいぶんと懐かしい光景で、まるで全ての時が戻ってきたような――。
「……雪の匂いがする」
不意に、僕の口から自分でも思いがけない言葉がでた。
「え? 突然、どうしたの?」
紗英も何度か大きく息を吸い込む。
「……ほんとだ。すごいね、圭吾いつの間にそんなこと覚えたの?」
「覚えたんじゃないよ。……思い出したんだ。あの日と同じ匂いがしたから」
僕達は空を見上げた。
濃い鉛色の空から、ひとつぶの小さな白い結晶が舞降りてきた。
それを合図にしたように、次々と白い粒が数を増して視界を覆っていく。
「魔法、みたいだね」
「ああ……」
その時、遠くで警笛が響き列車が速度を落としながら近づいてくるのが見えた。
「もう、時間か」
「うん……」
伝えたいことはまだたくさんあるのに、列車は淀みなくホームに進入してくる。
やがて列車が停止すると、僕の横でドアが開いた。
「必ず……必ず、またここに来るから」
「わかった……待ってる」
発車寸前の車内に乗り込むと同時に、背後でドアが閉じる。
真っ白に結露したドアの窓を手で拭うと、小さく手を振る紗英が見えた。
その姿は、動き出した列車に巻き上げられた雪にかき消されてすぐに見えなくなった。
僕は空席だらけのシートのひとつに身を沈める。
――もう一度春を待つために、か。
ふと窓の外に目を向けると、荒涼とした大地はうっすらと白く変わっていた。
了
雪下出麦 -ゆきわたりてむぎいづる- 椰子草 奈那史 @yashikusa
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