第7話 また明日

 素っ気ない内装のホテルの部屋で、僕はベッドに転がってぼんやりと天井を見ていた。

 日帰りの旅のつもりで仕事をする予定も無かったから、普段使っているノートPCは置いてきてしまっていた。

 いつもはせわしなく書くことばかりしていたせいか、この手持ち無沙汰な時間はどうにも耐え難いほど長く感じる。

 スマホに手を伸ばしかけて、ふとさっきの紗英の言葉が甦った。


 そうか、番号変わってなかったんだ。

 なんで一度もかけてみようと思わなかったんだろう。

 ……いや、そう思うのは今が多少マシになったからだ。

 ほんの二年前までは何の希望もなく辛うじて生きてるような状態だったじゃないか。

 そんな時に電話なんかしても、何も話せることなんてなかっただろう。

 そもそもこんなことになったのは、あの頃の僕が不甲斐なかったからで……。

 快活な紗英との会話を経た後だからだろうか。

 僕の中に再び悔恨の情のようなものが甦ってくる。


 ――もう、遅いのかな。


 不意に奥底から湧き出た言葉に驚き、僕は首を振った。


 今さら何を考えてるんだ。

 久しぶりに紗英と会って言葉を交わしたぐらいで、これまでのことを取り戻したような気になってるんじゃない。

 紗英だってそんなつもりで僕を引き留めたんじゃないだろう。

 たぶん。いや、きっとそうだ。


 ※※※


 紗英から電話が来たのは夜の七時前だった。

 二十分ほどしてやってきた紗英の車に乗り、たどり着いたのはカジュアルな雰囲気のイタリアンレストランだった。

 紗英は結っていた髪をほどき、今はまっすぐな黒髪を肩まで下ろしている。


「ここの料理、けっこう美味しいのよ」

 そう言いながらメニューを眺めていた紗英が僕の方をチラッと窺う。

「ワインもいっちゃう?」

「車はどうするんだよ」

「フフッ、都会より唯一田舎が発達してるのが『運転代行業』よ」

「そういうことなら……飲むか」


 紗英が選んだ料理とワインがテーブルに並び、僕たちはグラスを軽く合わせる。

「それじゃ、改めて十年振りの再会に……て感じ?」

「ああ。ずっと連絡しなくて悪かったよ」

 紗英が一瞬目を瞬かせた。

「ん? どうかしたか」

「ううん、なんでもない」

 そのままワインを口に含む。

「ふー、美味しい」

 紗英のグラスの中身は既に半分ほどになっていた。

「そんなにお酒強かったか?」

「生きてればいろいろあるでしょ。飲めるようになったのよ」

「それもそうか……変われば変わるもんだな」

「そうよ、変わったの。圭吾だってそうでしょ?」

「僕は……どうなんだろう。変わったようにみえるか?」

「うーん、ちょっとオッサンぽくなった」

「おい」

 紗英は声を上げて笑うと再びグラスを口に掲げて飲み干した。


 ――これは、頑張らないと付いていけなさそうだ……。


「そういえば、聞きそびれてたことがあるんだけど」

「ん? なに」

「開店の葉書をくれたのって、何か理由があったのかな、と思って」

「あー。んー、ええとね、お店の開店が迫っていた頃に、とにかく知ってる人には案内を送ろうと思って古いケータイとかも引っ張り出してデータ作ってたの。あ、もっともやってくれたのはそういうのが得意な由佳ちゃんだったんだけどね」

 紗英はワイングラスを見つめながら言葉を続ける。

「一応私もチェックはしたつもりだったんだけど、バタバタし過ぎて、見落としちゃったんじゃないかな……」

「なるほどな。そういうことなら、納得かな」

 僕はどこか気が抜けたような曖昧な返事をした。

「じゃあ、圭吾はどうしてここへ来たの?」

 今度は紗英が訊き返してくる。

「僕? 僕は……そうだな。上手く言えないんだけど、たぶん結末を知りたかったんだと思う」

「結末ぅ? 何よそれ」

「なぜ届いたのかわからない一枚の葉書があって、それを追いかけて行ったらその先にはいったいどんな物語があって、そして最後にどんな結末を知ることができるのか……そんなところだよ」

「それは、さっきも言ってた職業病ってやつ?」

「まあ、それもあるかも……」

 紗英は焦点がやや怪しくなってきた目で僕を見つめる。

「えーと、じゃあ圭吾は、あの葉書を出したのが私だとは知らないでここに来たわけ?」

「もちろん、住所からその可能性は考えてたよ。ただ、何かの間違いかも知れないし、確証があった訳じゃない。でも……」

「でも?」

「……いや、なんでもない」

 僕はひとつ嘘をついた。

 確証がないままこの地に来たのは間違いない。

 ただ、もし手紙の差出人が紗英なのだとしたら、僕が本当に知りたかったことは葉書を出した理由ではなく、十年前に途切れたままになっていた僕と紗英の「その後の物語」の結末だった。

 例えばそれは、今は結婚して幸せにしているとか、そんなものでもよかったのだ。


「嘘」


 紗英がポツリと呟く。

「えっ?」

 心の内を覗かれた気がして、僕は心臓を掴まれたように言葉を失う。


 ――まさか、悟られた?


「圭吾に葉書を出したこと、覚えてなかったって言うのは嘘」


 ――ああ、そっちのことか……。


「え? そうなのか。それじゃなぜ?」

「私、お父さんが死んでパティシエになろうと決めてから、知っていたお店のオーナーにお願いしてそこで修行させてもらったの。けっこう大変だったのよ。なんてったってホットケーキも上手く焼けないぐらいだったんだから」

 紗英が飲み干して空になったグラスを僕に突き出す。

 僕が少しだけ残っていたワインを注ぐと、紗英は近くのウェイターにすかさず二本目のボトルを注文した。

「お、おい大丈夫なのか、紗英」

 しかし、紗英はそれには答えずに再び話を続けた。

「何度も辞めようかと思いながら、五年間頑張ってみた。そしたらね、オーナーが『もう独りでもやってみたら』って言ってくれたの。それから、自分のお店を開くための準備を始めたわ。ちょうどその頃よ。由佳ちゃんに教えられて圭吾が脚本を書いたドラマを知ったのは」

 その時、テーブルに運ばれてきたワインを紗英が問答無用で僕のグラスに注ぐ。

「正直に言えば、少し嬉しかった。ああ、圭吾はちゃんとたどり着いたんだって……」

 そのまま少しの間沈黙した後、紗英が再び口を開いた。

「何かをやり遂げるって大変だよね」

「……まぁ、そうだな」

「あの頃……圭吾が作品を書くのに夢中になってるの、本当は寂しかった。もっと私のこと見てほしかったし、私達のことも考えてほしかった。卒業した後は、正直嫌いになった時もあったよ。……でもね。後になってから思うようになったの。私がパティシエになるのに必死だったように、あの時は圭吾もきっと同じように必死だったんだなって」

 紗英は勢いをつけるかのように自分のグラスにワインを注ぐと、一口飲んだ後に呟いた。

「だから、どこかで圭吾に伝えたかったのかな。『私も頑張ってやり遂げたよ』って」

「紗英……」

「でもまぁ、もう卒業して八年くらい経ってたからまさか届くとも思ってなかったんだけど、宛先不明で戻って来なかったんだよね、あの葉書。だから、もしかしたらって思ってた」


 紗英は語り終えると、窓の外へ視線を移した。


 ※※※


 四本目のワインを頼もうとする紗英をさすがに止めて、僕達はレストランの外へと出た。

 北の地の染み込むような冷たい夜気は、ワインで火照った頬には心地よく思える。

 頼んでいた運転代行の車はすぐにやってきた。

 自分の車のキーを預け、車に乗り込もうとしていた紗英が不意に立ち止まってフラフラと僕の元へ戻ってくる。


「圭吾ぉ! 明日の朝ぁ、送っていくからあ」

 呂律の回らない口調で紗英が声を上げる。

「え、え? 大丈夫なのか、その酔っ払い方で。そもそも明日は法事なんだろ」

「それはぁ、十一時からだから大丈夫。八時に迎えに行くから、ちゃんと起きてなさいよお」

「あ、ああ……」

 それだけ言うと満足したのか紗英は再び車の方に戻っていった。

 車に乗り込む前に、もう一度振り返った紗英が微笑む。


「じゃあ、また明日ね」


 その言葉に、僕の中の記憶がとめどもなく溢れ出した。

 あの頃、何度も聞いた言葉。

 当たり前のようにあった紗英との時間。

 いくつもの紗英の姿、言葉が僕の中に甦っていた。

 もう、紗英の口から聞くことなど二度とないと思っていたその言葉に、僕の感情は大きく揺れ動いた。


 ――紗英!


 思わず駆け出して紗英を引き留めたくなる衝動を、僕は奇跡的な自制心でなんとか踏みとどまると、小さく紗英に手を振る。

 遠ざかっていく車を見ながら、僕はもう一度冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。


 紗英。

 僕達はお互いにずいぶんと遠い道を歩いてきたみたいだ。

 あの頃描いていた未来とはだいぶ違うところに来てしまったけれど、君は君の場所を見つけて、僕は僕の場所で生きていこうとしている。

 それを知ることができただけでも、この旅をしてよかったのかな。

 そして、これで最後になるかもしれないけど、君と「また明日」を過ごすことができるなんて。


 僕は目を閉じた。

 まぶたの奥に浮かんだ光景がある。

 そうだ。僕が自ら求めてきたこの物語の結末を迎えるのは、あの場所こそが相応しい。

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