第6話 時を経て
古民家カフェは山あいの道路を五分ほど走った先にあった。
店内に入ると、黒く燻された太い梁と店の真ん中で炭火が赤々と燃える囲炉裏が目に入る。
靴のまま上がれるように改装された板の間に案内されると、僕達は囲炉裏のそばのテーブルについた。
十脚ほど並んだテーブルには、今は僕達の他に二組の客がいた。
注文を聞かれて迷っていると、紗英が「本日のお薦めブレンド」を頼んだので僕も同じものにする。
「さてと――」
何かを心に決めたように小さく頷いて紗英が口を開く。
「元気だった?」
「ああ、なんとか。……そっちは?」
「おかげさまで」
「そうか、よかった。ええと……」
「十年ぶりだね」
「そう……だな。卒業式以来かな」
「仕事は順調?」
「それもなんとか。……あ、まだあんまり言えないけど、来季もまたドラマやれることになったんだ。……そっちも、順調?」
「うん、こっちもまあまあ軌道に乗ってきた、って感じかな」
「そう、それはよかった……」
ぎこちなく始まった会話はすぐに止まってしまった。
十年ぶりに会った恋人――いや、元恋人か?
考えてみれば、僕と紗英に流れたこの十年という月日には、一秒たりとも重なる部分が存在しない。
あの卒業式の駅のホームでの別れが、記憶の中の最後の光景だ。
大学時代、関係が上手くいかなくなる前までは紗英と話す内容に悩んだことなんてなかったはずだが、今は世間話程度の話題にさえ詰まるようになってしまった。
「それで、どうなの?」
不意に紗英が会話を再開する。
「え? どうって……何のこと?」
「結婚とかしてるの?」
「いや、全然。なんとか生活していけるようになったのなんてこの一、二年くらいだし、そんな余裕も気持ちもなかったよ。……で、そっちは?」
言った後で僕は慌てて紗英の手に視線を落とす。
そういえば、不意打ちのような再会に頭がついていかず、そんなことには全く目がいってなかった。
しかし僕の考えを察知していたのか、紗英は既にテーブルの下に手を下ろしていた。
「どっちだと思う?」
試すように紗英が笑う。
どっちだ……。
なんとかこの一時間くらいの記憶を探ろうとするが、紗英の指の映像は浮かんでこない。
それならもう、こう答えるしかない。
「してない」
微かな願望のようなものを込めてそう答えた。
無言のまま、紗英がテーブルに両手を戻す。
「当たり。私も修行とお店を開くのに追われてそれどころじゃなかった……ってとこかな」
「そう、そうだったんだ」
僕はどこかホッとしたような、ばつが悪いような気持ちで紗英の表情を窺う。
紗英は何事もないように運ばれてきたコーヒーを口に含んだ。
再び、無言の時間が流れる。
「あ、そういえば、これ」
話のきっかけを必死に探していた僕は、唐突にバッグの中身を思い出してそれを取り出した。
「えーと……開店おめでとうございます」
紗英の前に「開店御祝」と書かれた熨斗袋を差し出した。
「あ、これはご丁寧に」
紗英が熨斗袋を手にぺこりと頭を下げる。
それからしばらくは耐えていたが、僕達はどちらからともなく吹き出してしまった。
「はー、なんだろ。緊張した」
「ほんとね。圭吾、ガチガチなんだもの」
朗らかに笑う紗英を見て、ようやく僕の知っている紗英と再会した気がした。
「でもまあ、正直、意外だったよ」
「何が?」
「紗英とパティシエという組み合わせが」
「え、どういうことよ」
「いや、昔ダマだらけのホットケーキを作ってた人でも、パティシエになれるんだな、と思って」
「あ、さっきニヤニヤしてたのはやっぱりその事だったのね」
紗英が不興の表情を浮かべる。
「はは、悪い悪い。でも、さっきのケーキは美味しかったよ。本当に」
「そう、ならよかった」
表情を戻した紗英が再びコーヒーを口に含む。
「でも、確か卒業する時は地元の会社の事務職に就職したんじゃなかったか?」
「したよ。三年ぐらいはそこで働いてた」
「へえ、じゃあどういう経緯でこの方向へ?」
「んん? そんな事聞きたいの?」
「ああ、ごめん。何だろう、職業病みたいなものかな。つい物語の種になりそうなものを探してしまうんだ」
「ふーん」
そんなに面白いことなんてないわよ、そう言って紗英は小さく息をついた。
「私のお父さん、覚えてる?」
「あ、あぁ、もちろん」
僕の脳裏に十年前の険悪な夜がよぎった。
「亡くなったの、七年前。心臓の発作で、急に、もう呆気なく」
「そうだったんだ……今更だけど、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。……それじゃうちの実家が何してたかは覚えてる?」
「えーと、たしか……お菓子屋さん?」
かつて紗英の家を訪ねた時には、たくさんのお菓子を勧められた気がする。
「正確には和菓子屋ね。ウチは兄も弟も別な仕事に就いていて家業を継ぐ気はなかったの。だから、もうお店は父で終わりってことになりかけたんだけど」
紗英が記憶を辿るように宙に視線を巡らせる。
「私は田舎に帰ってきて会社で三年くらい働いてたけど、特に目標とか夢とかがあるわけでもなく、なんとなくそのうち結婚したり子供が出来たりするのかな、って思ってた。でもね……何か、見つけてみたくなったのよ」
「見つける?」
「そう、流れてくるのを待つのじゃなく、自分から手を伸ばして掴み取る何か」
そう言った紗英の目は、僕が知らなかった凛とした力強さが戻っていた。
「ん? でも、和菓子屋は継がなかったんだろ」
「ああ、それはね、残念だけど和菓子ってやっぱり進物とかが多くて、こういう人も減り続けてるところでやっていくのは難しいと思ったの。だから、車で来れる若い人やネットでの販売を考えて、洋菓子をやってみようと思ったのよ。あ、でも、もちろんうちのことも忘れたわけじゃないよ、うちの屋号、覚えてないと思うけど『雪乃屋』っていうの。私のお店の名前はそこから来てるのよ。『ラ・ネージュ』ってフランス語で雪って意味……」
語り終えた紗英が少し照れたような表情を浮かべた。
「ほら、脚本家センセイの気を引くような話じゃなかったでしょ」
「いや、そんなことは、ないよ」
そう言いながら、僕は戸惑っていた。
僕の記憶の中の紗英と、今、目の前にいる紗英との差異はやはり簡単には整合出来そうにない。
それでも、僕はその動揺を悟られないよう極力無難な言葉を選んで答える。
「そうだったんだ。……にしても、一から始めるのは大変だっただろ?」
「うん、そりゃまあねって――あっ、いけない」
紗英は腕時計を見ると一瞬考え込むような仕草を見せる。
「どうかしたのか?」
「これからね、実家に戻って明日のお父さんの七回忌の準備と打ち合わせをしなきゃいけないの。今日お店を早く閉めて明日お休みにしたのはそのためなのよ」
「ああ、それは間の悪い時に来ちゃって悪かったな」
「ううん、そんな事ないけど。こっちこそゴメンね」
こうして、十年振りの紗英との再会は呆気なく時間切れになった。
僕はお店にタクシーを呼んでもらおうと思ったが、紗英が送って行くと強く主張したため、その言葉に甘えることになった。
走り出した車中に、再び沈黙の時間が流れる。
「ねえ、圭吾はこのまま東京に帰るの?」
前方を見つめたまま黙って運転していた紗英が口を開いた。
「まぁ、一応ここに来た目的は果たしたし、観光とかする予定もないし……」
少し間をおいて紗英が呟いた。
「今日は泊まっていかない?」
「え?」
思いがけない紗英の言葉に、一瞬鼓動が高まる。
「あ、変な意味じゃないよ。ほら、せっかく会ったんだからもう少し話とか、したくない?」
「ああ、それはもちろん……そうしたいけど。法事の準備とかあるんだろ?」
「それは夕方まででなんとかなるから、夜は大丈夫」
「紗英がいいなら、僕は構わないけど」
「うん。じゃあそうしよ」
紗英は頷くと車の進路を変えた。
いくつかの丘陵地を抜けると前方が急に開け、車は広い道路へ合流する。
先ほどまでの荒涼とした風景が一変して、沿道には東京でも見たことのあるファミリーレストラン等が建ち並んでいた。
「五年くらい前にこのバイパスが出来てから、ずいぶん変わったのよ」
そんな話をしながら紗英は車をビジネスホテルの敷地へと進めた。
車を降りた僕に車内から紗英が声をかける。
「番号変わってない?」
紗英が左手に握ったスマホを軽く振る。
「ああ、一緒だよ」
「私も同じだから。それじゃ後で連絡するね」
走り去っていく紗英の車を見送った後、僕はホテルのフロントに向かった。
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