第5話 横顔
そのパテシエの女性は、紛れもなく紗英だった。
ただ、僕の記憶の中ではどちらかと言えばおおらかでふわっとした雰囲気だった紗英が、今はどこか凛とした空気を纏った女性に変わっていた。
「どうして、ここに?」
紗英が困惑したように尋ねる。
「ああ、ええと……そう、これが届いたから」
僕は強く握りすぎて少しよれてしまった葉書をポケットから取り出した。
「開店のお祝いにでも、と思って……」
半分は嘘ではない。本当に紗英からの葉書だった場合を想定して、念のためにバッグの中には「開店御祝」の
不意に、紗英が吹き出した。
「それ、もう1年前に出したやつ」
「あ、ああ、ごめん。ちょっとその頃は忙しくて……」
「はいはい、存じてますよ」
その時、先ほど紗英が「由佳ちゃん」と呼んだ若い女性が興味深々といった顔で僕達のほうを窺っていることに気がついた。
「あのー、紗英さん、その方は……?」
「え? あー、この人はねえ、大学時代の……うん、知り合い」
「へえー、そうなんですかー」
由佳ちゃんは、「まだありますよね」という期待に満ちた目でこちらを見ている。
「この人ね、脚本家をやってるの。ほら、去年由佳ちゃんが面白いって勧めてくれた深夜の連ドラがあったでしょ。ええと、タイトルは――」
「
「あ、それね。その脚本書いてたのが、この人」
「ええっ! ホントですか!? すごいです! 私あのドラマ大好きだったんです!」
由佳ちゃんは、飛び跳ねるように喜んでいる。
「それは、どうも、ありがとうございます……」
こんなにも喜んでもらえるのは僕にとっても嬉しいことではあるが、あまり接したことのない反応に照れの方が先に立ってしまう。
――それにしても、紗英は僕の作品のことを知っていてくれたんだ。
紗英を見ると、僕が言いたいことがわかったのか「まあね」とでも言うように小さく頷いた。
しかし、すぐに何かを思い出したように由佳ちゃんに向き直る。
「そうだ。由佳ちゃん、とりあえず今出てるもの以外は完売の表示を出しておいてね。あとは平行して閉める準備をしましょう」
「はい、紗英さん」
由佳ちゃんが作業に取りかかると、紗英がショーケースを出て僕のそばまでやってきた。
「ごめんね、今からちょっとバタバタするから」
「何かあるのか?」
「今日は臨時にお店を早く閉めるの」
「それは悪い時に来ちゃったな」
「ううん、それはいいんだけど。……圭吾、ちょっとそこで待ってて。せっかくだからうちのケーキを食べてみてよ」
紗英が指差したのは、店の一角にある小さなテーブルと椅子だった。
「え? いいのか、忙しい時に」
紗英はきびすを返すと背中越しに「いいからいいから」と言いながらショーケースの方に戻っていった。
言われたとおりに椅子に座っていると、紗英がコーヒーとケーキを載せた皿を持ってやってきた。
「はい、スフレ。確か好きだったよね」
皿の上には焼き色の美しい卵色のケーキが載っている。
「すごく美味しそうだ。これも紗英が?」
「もちろん、私はこのお店のオーナー・パティシエだから」
「そうだったのか……それじゃまずは頂くとするよ」
「うん、じゃあ後でね」
そう言うと紗英は再びショーケースの方に戻っていった。
由佳ちゃんと2人でテキパキと片付け作業をする紗英を見ながら、僕は皿のケーキを口に含む。
――あ、美味しい。
そのケーキは甘すぎず程よい弾力があって、口から喉へスッと入っていくまろやかさがあった。
これを紗英が作ったのか。
不意に、学生の時に紗英がホットケーキを焼いてくれたことを思い出した。
たしかダマが多くて、生っぽいところと焦げ付いたところが混在したお世辞にも美味しいとは言えないシロモノだったような……。
変われば変わるものなんだな。
ケーキを口に運びながら、ついニヤける僕を一瞬紗英が怪訝な顔で見ていた。
※※※
店のドアのカギが掛かっているのを確認した紗英が、駐車場で話をしていた僕と由佳ちゃんのところに戻ってきた。
コックコートから今は白い厚手のタートルネックのセーターに着替えている。
「それじゃ由佳ちゃん、明日は悪いけど臨時のお休みということでお願い」
「はい、わかりました。……圭吾さん、また新しいドラマ楽しみにしてますね! それじゃまた」
由佳ちゃんは僕達に一礼すると赤い軽自動車に乗り込み走り去っていった。
「……それで、これから予定はあるの?」
「いや、何も」
「どこかでお茶でもする? 久しぶりでもあるし」
「そうだな、そうしようか」
「じゃあ乗って。少し走ったところに最近できた古民家カフェがあるの」
紗英が駐車場の片隅にある白い軽自動車を指差した。
僕が助手席に乗り込むと、紗英は慣れた手つきで一度バックで向きを変えて走り始めた。
「免許取ったんだ?」
「それはそうよ。この辺じゃ車がなかったら生活できないもの」
ハンドルを手に軽快に車を走らせる紗英の横顔は、僕が初めて見る姿だった。
――やっぱり、変われば変わるものなんだな。
僕は改めて十年という時間の流れを意識せざるを得なかった。
車は集落を抜けて、山林を縫うように続く道路を走り続けた。
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