第4話 再訪
その葉書が僕の元に届いたのは、前の安アパートを引き払い今のマンションに引っ越してしばらく経った頃だった。
元々は前のアパート宛てに出されたらしい葉書は「転送」の印とともにマンションのポストに入っていて、文書面にはこう書かれていた。
『パテスリー ラ・ネージュ開店のお知らせ』
このたび、故郷の○○町に、小さな洋菓子店を開店することになりました。
地元のフルーツと乳製品を使った美味しいケーキやスイーツを取り揃えて、皆様のご来店をお待ちしています。
パテスリー ラ・ネージュ スタッフ一同
◆◆県□□郡○○町大字▲▲1952番 電話:####-####-####
葉書はおそらく大量に刷られたものの一枚のようで、これ以外には個人名などは一切書かれていない。
最初はなぜこの葉書が僕に届いたのかわからなかった。
しかし書かれている住所をみているうちに、水が染み出すように僕の脳裏に微かな記憶の断片が甦ってくる。
「◆◆県□□郡○○町……」
それは、昔一度だけ訪れた紗英の故郷だった。
僕の記憶にある限りでは、その町の出身者であり、かつ僕の前のアパートの住所を知っているのはおそらくただ一人だけだ。
では、この葉書を出したのは――。
「紗英……か?」
不意に、胸を締めつけられるような息苦しさを感じた。
それはずっと心の奥底に
十年前、僕は大切に想っていたはずの人を僕のわがままと未熟さゆえに失ってしまった。
最後のホームの光景が脳裏に浮かぶ。
あの時、僕には紗英の手を取る強さも引き留める勇気もなく、ただその背中を見送ることしかできなかった。
僕はもう一度葉書に視線を走らせる。
しかし、書かれた文面からはそれ以上紗英に繋がる情報を読み取ることは出来なかった。
それにしても、差出人が紗英だとしたら、どうして僕にこの葉書を送ってきたのだろう。紗英とこの「パテスリー ラ・ネージュ」という店の関係性もよくわからないし、そもそも気軽に行けるような場所でもない。
僕は葉書を前にして首を傾げた。
ただ、疑問は消えないもののその時はそれ以上の追求をすることはしなかった。
時折葉書のことを思い出すことはあったが、結局は日々の仕事に追われて時間だけが過ぎていった。
その機会は、葉書が届いてから一年あまりが過ぎたころ不意に訪れた。
いくつかの仕事が一段落し、次の仕事へと取りかかるまでに二日ほどの余裕ができたのだ。
思いがけず出来た時間に何の予定も持ち合わせていなかった僕は、デスクの引き出しにしまっていた葉書を取り出すと最低限の手荷物だけを持ってそのまま旅にでた。
行き先は◆◆県□□郡○○町。
僕に葉書を送ってきたのは誰なのか。
それが紗英でも別の人物だったとしても、一度甦ってしまったこの記憶には自分なりの決着をつけたいとずっと思っていた。
これは、十年前に自らの手で途切れさせた物語の結末を見届けにいく旅だった。
※※※
荒涼とした山あいの風景の中を歩き続けて30分余り経った。
冷たい北からの風にさらされて、鼻はもげるかと思うほどに痺れている。
僕の前方には、ようやく人家の建ち並ぶ集落が近づいて来ていた。
十年前は紗英の家族に車で迎えに来てもらったはずだから、集落そのものへの記憶は薄いがどことなく見覚えのある風景に思えた。
「あそこかな……」
僕がこの地を訪れるにあたって、事前に調べたのは葉書に書かれた住所へ行くための交通手段だけで、それ以外のことはあえて何も調べなかった。
お店のことも調べようと思えば何か情報はあったのかもしれないが、それは僕が自分の目で確かめる必要があることだと思った。
ただ、そんな決意も集落の中に入ると少しばかり自信がなくなってくる。
集落の中の建物はどれも大きく古い民家ばかりで、パテスリーはおろか商店のひとつもありそうな気配はない。
僕はもう一度葉書を取り出した。
葉書には店の外観の写真が小さく印刷されている。
規模はそれほど大きくはなさそうだが、瀟洒な洋風の建物はこの集落の景観とは明らかに異なる雰囲気を醸し出していた。
場所が合っているのか不安に思いながら、それでも先に進むと建ち並ぶ民家の先に、白い看板のようなものが見えてきた。
微かに「ラ・ネージュ」の文字が見てとれる。
「よかった。ここで合ってた」
僕は歩く速度を上げた。
※※※
パテスリー ラ・ネージュは、集落の中ほどに存在していた。
周囲からぽっかりと開けたその一画は十台以上は停められそうな駐車場になっており、今は数台の自動車が停まっていた。
駐車場の奥まったところには、葉書の写真と同じ建物が建っている。
僕は葉書をポケットに戻すと、ひとつ息を吸って店の入口へ向かった。
「いらっしゃいませー」
木製のドアを開けると、元気な若い女性の声がした。
ショーケースの向こうで先客の応対をしていたその女性は、僕の方をチラリと見て小さく会釈をすると、再び先客の方へ向き直った。
その女性は紗英ではなかった。
――さて、どうしたものだろうか。
先客がいる間の猶予はできたが、正直何のプランも持たずに中に入ってしまった。
あの客が帰ったら、次は僕に声をかけてくるだろう。
その時、何を言えばいいのか。
思いきって紗英のことを聞いてみるか。
しかしもし彼女が紗英のことを知らなかったら、僕の旅の目的はあっさりとここで終わることになる。
どうにも決めきれずにショーケースをみているフリをしているうちに、どうやら先ほどの客は買い物を終えてしまったようだった。
「ありがとうございましたー」
客を送り出す女性の声が響く。
今、店内の客は僕しかいない。
当然のごとく、女性は僕に声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
「え、えーと、ですね」
僕はポケットの中の葉書を強く握った。
もう、言うしかない。
「あのですね。実は――」
そう言いかけた時だった。不意にショーケースの奥のスペースにあるドアが開いた。
「
ドアから現れたのは、真っ白なコックコートを身に付け、髪をきちんと結い上げた女性だった。
女性は店内に僕がいたのに気づき、慌てて小さく頭を下げる。
「いらっしゃいませ。ただ今本日のタルトが出来上がりましたので、よかったらご賞味くだ、さい――」
僕の顔を見た女性の言葉が止まる。
「……圭、吾?」
「紗英、か?」
僕はぎこちなく笑いながら手を上げた。
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