第五章 Hope
第52話 VS アダム(前編)
「これやば! マジでめちゃウマじゃん!」
「お母さんがたくさん作ってくれたから」
嬉しそうに笑う舞鶴。
「なるほどね。じゃあ、おかわりを……」
ミモが手を伸ばすが、そこでモアに止められた。
「もうっ、ミモちゃんいけませんよ。舞鶴ちゃんのおかずが無くなっちゃいます!」
「えー? じゃあモア様があーんしてくれたらやめまーす!」
モアは一瞬自分のサンドイッチを見るが、すぐに顔を赤くして首を振った。
「いいんですモア様。もっと食べていいよミモ」
「まじぃ? 舞鶴様、神ィ!」
母の手料理が褒められるのは嬉しかったし、何よりも自分が美味しいと思ってるものを美味しいと言ってくれるのは嬉しいから。
でもだからって、四つも食べるのは食べすぎだと思う。いけないと思う。
舞鶴が涙目になっていると、弁当箱の空いてるスペースに卵焼きが置かれた。
「おかず、あげるね」
「ありがとぉ、奈々実ぃ」
舞鶴は奈々実が作った卵焼きをパクリと食べた。
少し甘くて、だしの香りがして、とても美味しかった。
放課後、舞鶴と奈々実とミモはカラオケに寄ってたくさん歌った。声が掠れるほど歌った。
疲れたら甘いジュースを飲んで、クラスの男子ランキングで盛り上がった。
ミモがタンバリンを滅茶苦茶に叩いたり、マラカスを必死にシャカシャカ振る姿がとても面白くて、奈々実と二人で腹がよじれるくらい笑った。
奈々実と二人でデュエットした。
とっても楽しかった。
「あ」
帰り道、舞鶴はタピオカミルクティーの屋台を見つけて足を止めた。
「どうしたの?」
「うん。あの……、あれ、飲んだことない」
「マジ?」
「うん。もう、遅いかな……?」
「まぁ」
屋台には誰も並んでない。
ミモは何かを言おうとしたが、それよりも早く奈々実が舞鶴の手をとって走り出した。
「飲もう! たくさん飲もうよ!」
「……!!」
舞鶴は、笑った。
「うんっ!」
『Ultimate Magical Ascension』
僅かに違う音声が流れた。
「アァアアアアアアアアアアア!」
「……ふふっ、ふふははははは!」
社長室は狭いから、走ればすぐに目の前にまでやってくる。
二人は全速力で走っていたから、もうそこにいる。
奈々実は、アダムは、腕を伸ばした。
拳が交差する。それはお互いの胸に突き刺さると、衝撃を発生させる。
書類が散り、棚が倒れる。
アダムは踏みとどまり、痛みがある場所を払う。
一方で奈々実はうまくブレーキをかけることができず、よろけたままで扉の前にもたれかかった。
その腹部に足が入ったのはすぐのことだった。
扉を突き破って奈々実は廊下に倒れる。
顔が掴まれた。アダムの右手を、奈々実は両手で抑えるが足裏は簡単に地面から離れた。
そこで衝撃が走る。アダムは奈々実の顔を近くにあった作業室を仕切るガラスに突っ込むと、そのまま大きく右に投げ飛ばす。
窓ガラスを破りながら倒れた奈々実。
顔が痛い。血が出てる。しかし破片は突き刺さっていない。防御力は上昇していた。
「簡単だ!」
奈々実の声だった。
「それは、すっごく簡単なことだったんだ! マジで!」『MOTHMAN』
立ち上がりざま、背後にいたモスマンから剣を受け取る。
奈々実はそれを持って走り出すと、問答無用で切りかかっていく。
しかし振り下ろそうが、斜めに払おうが、突きを繰り出そうが、アダムには当たらない。全てヒラリと回避されてしまう。
踏み込んで大きく前に出ながら剣を振り下ろした。それも回避され、積まれていた段ボールの中に突っ込んでしまう。
『簡単? 何が?』
アダムが来る。
奈々実は魔法のステッキを取り出すと、虹色の光弾を連射した。
突然の飛び道具に、数発は体で受けたが、アダムはすぐに掌でそれを叩き落とすようにしていく。
叩かれた光弾は地面に落ちるのではなく、『バクン!』と音を立てて、アダムの掌に吸い込まれた。
奈々実は立ち上がると剣を持ってアダムへ突っ込んでいく。
きっと、きっと、ただ闇に目が慣れすぎただけだ。
だから光の中にいれば、きっと。
「笑ってる顔が見たかっただけなんだ!」
突き出した剣。そこでボリッと音がした。
剣が折れた。いや折れているというよりは、まるで食い破られたような痕だった。
アダムは指を曲げ、ひっかくようなジェスチャーを取る。
バクンと音がした。
奈々実が右手を見たのは、熱を感じたからだ。
手首から上が食い破られていた。
「いがぁぁぃいいあぁぁあああ!」
痛みが来た。手が無くなった。
すぐに傷を抑えるが、血が止まる様子はなく、もはや意味があるのかどうか。
「助けを呼んでくれ!」
反射的に出た言葉だった。
「今ならまだ救急車を呼べば――!」
アダムは虚空をひっかいた。
舞鶴の左手から、ポーンと、指が何本も飛んだ。
「お、オレの指がァァ! はっ、はひっ! はひひ! ぎゃがぁあ! いでぇえええあぁああぐっぎいぎぎぎぃぃ!!」
それはヒロインのあげる声ではなかった。
そこで凄まじい衝撃を感じて、きりもみ状に回転して転倒した。
アダムが踵で奈々実の頬を蹴ったからだ。
「ほげぇえぁぁッ」
顔の骨が折れた!
奈々実は傷を抑えようとして気づいた。
左手もなくなってる! 食べられちゃった!
『僕だって……』
アダムが指を鳴らす。
普段は見えないが、見せてあげることだってできる。
空間に色がつくと、和久井の前に巨大な頭部が現れた。
ハエが竜の仮面をかぶったようなデザインのそれは、アダムと契約した魔王候補『ベルゼブブ』のものである。
特徴的なのは、下顎がないことだ。
アダムが指を広げると、シンクロするようにベルゼブブの歯が開いた。
アダムが腕を上げると、ベルゼブブの顔が浮き上がる。
「ま、ま――ッ!」
待ってくれ。
奈々実がそれを言い終わる前に、アダムは虚空をひっかくように腕を振り下ろす。
その動きに合わせてベルゼブブの顔が降ってきた。
奈々実は這うように後ろへ下がっているが間に合わない。伸ばしていた右脚が牙に巻き込まれた。
バクン! と音がして、太腿から下が骨ごと食い破られる。
「ギャァアアアアアアアアアアアア!!」
激痛に叫んだ。だからと言って頬の痛みも、手首の痛みも消えてくれない。
アダムはそれでも容赦なく手を動かし続ける。
ベルゼブブは二つの前歯の隙間に奈々実の左足を挟むと、そのまま浮き上がって天井に当たるくらいで停止する。
奈々実は宙づりになりながら、真っ青になって泣いている。
「た、頼む! 無理だ! もう無理だ! 助けてくれ!」
アダムは無言だった。左掌の下部を、右掌の下部に重ねる。
ベルゼブブに下顎が生まれた。どうやら右手が上顎を、左手が下顎を司るようだ。
「おい、おいぃ! 聞いてんのかよ!!」
奈々実が叫んだが、アダムは返事の代わりに両手を動かした。
ベルゼブブが一気に奈々実の体を腰のあたりまで口の中に入れ、軽く咀嚼を始める。
甘噛みじゃない。噛み切らない程度に味わうのだ。
「死ぬ! 死ぬぅっぅうあぁあ!」
グチャグチャと音が聞こえる。
奈々実はすさまじい激痛に叫び、やがて血が混じった吐しゃ物を口からまき散らす。
ショック死したのか、白目をむいて動かなくなった。
するとベルゼブブは食べるペースを上げて、バクバク奈々実を食っていく。
歯の隙間から奈々実の顔が見える。それがポロリと取れて、床に落ちた。
アダムは奈々実の髪を掴んで持ち上げると、舌打ちをこぼした。
『こんなものかよ』
頭を投げた。ベルゼブブがバクリとキャッチした。
「……終わってねぇ」
『!』
「まだ、まだな……ッッ!」
声がして急ぎ振り返ると、そこには奈々実が立って呼吸を荒げていた。
傷はない。可愛らしい魔法少女のドレスは綺麗だった。
とはいえ顔は真っ青で、足はブルブルと震えていたが。
『うーん、どういう。からくりだ?』
「舞鶴は妄想の存在だ。だから……、死ぬことはねぇ」
『なーるほどねぇ』
つまり、和久井は不死身である。
が、しかし、それは永遠に戦い続けることができるというわけではない。
疲弊すれば融合が解除されて変身が解ける筈だ。
であれば肉体的に、あるいは精神的に追い詰めれば終わりがやってくる
『そもそも痛みは本物の筈だ。お前が心が壊れるぞ』
「……上等だ。おお、上等だ。終わらせてみろ。終わらせてみろよ!!」
終わるわけにはいかなかった。もしも変身が解除されてしまえば死ぬよりも最悪なことが起きる。
「モアさまぁー! 神! 神!」
「ちょ、ちょっと、ミモちゃん。恥ずかしいよ」
モアがご馳走してくれたので、みんなでお礼を言う。
ミモは、モアをギュっと抱きしめると、大きな胸に顔を埋めた。
モアは初めは真っ赤になって恥ずかしそうにしていたが、やがてミモの背に手をまわしてキュッと抱きしめた。
「え!?」
予想外のリアクションにミモは思わず顔を上げる。
「え!? 違うの?」
モアはますます恥ずかしくなって赤くなった。
気まずくなっている二人を見て舞鶴は視線を奈々実に移した。
「ん? どうしたの? 舞鶴ちゃん」
「う、ううん! なんでもない! 秘密っ!」
すると奈々実は肩を舞鶴の肩にぴっとりとくっつけた。
「まねっこ、しちゃおっか!」
「奈々実ちゃん……! うんっ!」
舞鶴は真っ赤になって微笑んだ。
「ほげえええええええええええええええええ!」
文字にしてみると、アホみたいな声を出したのだと思う。
しかし本人はそんなことを気にしている余裕などなかった。
チュパカブラがくれた銃を撃って、注射器を連射していく中で、アダムは真正面から突っ込んできた。
迫る注射器を回避し、近づいた時、アダムの肩に一本刺さった。
やったと喜んだのも束の間、アダムは注射器を引き抜いて加速した。
肩を掴まれた。次の瞬間、アダムは持っていた注射器を奈々実の右目に突き刺した。
そしてあの声が出た。
反射的に目は瞑ったが、そんなのは関係ない。針は瞼ごと眼球を貫いている。
「ぎゃああああああ! イデェエエェエエエ!」
奈々実は悲鳴を上げながらステッキから虹の光線を発射するが、片目で合わせた照準ではアダムの姿は捉えられない。
『融合の浸食が姿をまるごと変えるほど全身に及んでいるから、一瞬焦ったけど、杞憂だったな』
すぐに鳩尾にアダムの蹴りが入った。
『嘘に嘘を重ねるからそうなる。融合している舞鶴はお前の言いなりかもしれないが、お前を見ていない!』
奈々実は倒れ、そこでなんとか注射器を引き抜く。
目が痛い。開けることができない。そうしていると羽音が聞こえた。
「ひぁ! ヒィアアア!」
小さなハエの大群だ。このハエも竜の仮面を被っている。
奈々実は必死に腕や体を振ってハエを払おうとするが、耳の穴や開けてしまった口、眼球や皮膚の食い破って体内に侵入していく。
「う――ッ! ぐぶっ! ぶぅうんッッ」
奈々実は目を見開いて痙攣している。
声が出せない。声帯をむさぼられたからだ。
奈々実の体が薄くなっていく。骨や、肉、内臓が内側から食われていく。
減っていく奈々実。
やがて皮だけになり、その皮もムシャムシャと食べられた。
すべてを食われて、奈々実が消え去る。
飛びたつハエたち。
しかし赤い光が迸ると、火炎放射が飛んできてハエたちを焼き殺していく。
着地したのは綺麗な体の奈々実だ。カーバンクルを使ってハエの群れを焼き尽くすと、そのままカーバンクルを分離させてアダムへ向かわせる。
アダムは腕を振るうが、カラクリは理解できている。
カーバンクルは高速で飛び回り、見えない牙を回避しながら、炎を発射してアダムを攻撃していった。
『チッ!』
アダムがカーバンクルを見失った。
そして痛み。足首にカーバンクルが噛みついている。
しかも熱い。足から煙があがってきて、苦痛に顔を歪めながら足を振るうが、なかなかカーバンクルは引き剥がれない。
すると奈々実が走ってきた。
ドレス、女の子の顔、体、『魔法少女』を身に纏って、和久井はアダムを殴り殺そうとする。
虹色の光る拳がアダムの頬を打つ。
しかしアダムは死ななかった。
次はアダムの拳が奈々実の鼻を折る。
奈々実は両手でアダムの耳を掴んだ。引きちぎってやるつもりだが、アダムは苦痛に顔を歪めるだけだった。
「うごぉぉッ」
アダムの膝が奈々実の腹に入る。
飛んできた追撃のハイキックを受けて奈々実は床の上に倒れた。
感触が変だ。すぐに立ち上がろうとして、滑って固い床にぶつかった。
オイルが引いてある。周りが黒い。
ベルゼブブが硬質化して変形していた。その形は中華鍋にそっくりだった。
「がぁぁあぁああぁああ!」
煙が上がる。一瞬で鍋の中が高温になって、皮膚が焼けただれる。
こんな激痛が存在していたのか。
一秒が永遠に感じられるほどの苦痛の中、奈々実はショックで気絶した。
あっという間にかわいらしい魔法少女焼きが完成した。ベルゼブブは焼死体をバクリと一口で平らげる。
「ズァアアアア!」
光が迸り、奈々実はアダムの背にしがみつく。
「ひゃはははは! へへへ! びいいぃぃぃ!」
恐怖でおかしくなっている。
奈々実はおしっこを漏らしながら、フラッシュバックで嘔吐した。
気づけばアダムの姿が消えていた。
奈々実はステッキで光弾を連射し、辺りを破壊していく。
「ごぉぉお!」
ベルゼブブが降ってきた。奈々実は押しつぶされ、床を粉砕して下の階に落ちる。
「ああああああああ!」『NESSIE』
ベルゼブブが水流で吹き飛ばされる。
奈々実は大きく首を振って意識を覚醒させ、上の穴から降ってきたアダムに向かって水を発射した。
しかし向こうは掌を前に出して前進していく。
小さな魔法陣はゴクゴクと音を立てて水を吸い込んでいった。
距離が、詰まった。
奈々実はステッキを投げてアダムと掴み合う。
『まだ! あの女を守るつもりか!』
「あ、あぁぁあたりめぇだろ! ばばばばばバカかテメェ殺すぞぞぞぞ!」
『どうして!!』
絡ませた指、お互いは力を込め、競り合う。
フリーになったのは頭だ。奇しくも同時に前に出し、額を打ち付けあう。
「泣いてただろうが!!」
その時、アダムは奈々実の瞳の奥に世界を見た。
彼女が思い描く、幸せな光景。
目が覚めたら両親がいて、朝ご飯を食べて。
行ってきます。行ってらっしゃい。マンションの前には奈々実がいた。
くだらないことを話しながら、学校に向かう。
学校に近くに来たらミモが合流する。
学校で優しいモア様にいろいろなことを教えてもらって、放課後は寄り道して帰る。
暇なら誰かの家に遊びに行って、よくわからないことで大笑いする。
「あのね、これね、この前みんなで行った水族館のお土産――」
他の人間がどうかはしらないが、少なくともそれが舞鶴にとっては幸せだった。
不安はない。
怖くはない。
「私の大切な後輩に何か用か?」
「い、いえ……」
イゼに睨まれて、意地悪な男子たちがそそくさと逃げていく。
「何かあったら言うのだぞ」
「はいっ! ありがとうございます!」
舞鶴は次の日、助けてくれたお礼にとイゼと、彼女の大切な人であるアイを誘って喫茶店にやって来た。
もちろん隣には奈々実も一緒だ!
「室町さんと、イゼさんは、どうしてお付き合いすることになったんですか?」
「えぇ? あ、あうあぅ! そ、それはねぇ、えっとねぇ」
真っ赤になってオロオロとしているアイが面白いのか、イゼがフッと笑った。
「室町は、寂しい時にいつも傍にいてくれたのだ」
「そうなんですか」
「一番大切な人だ。だから離したくなかった。ずっと傍にいてほしかった」
「その気持ち、わかるかも……」
舞鶴はチラリと奈々実を見る。幸せそうにアイスを食べていた。
「えへへ、がんばってねぇ。アイにできることがあったらなんでもするよ?」
アイにそう囁かれて、勇気が湧いた。
でも、奈々実は親友。それとも、友達とは少し違う大切?
それはまだ、いまいちわからない。
「でも、ずっとこの時間が続けばいいなって思う。ずっと、この幸せな時間が続いてほしい……」
舞鶴は寝る前に呟いた。
わがっだ……!
一瞬、汚い声が聞こえたような気がして舞鶴はびっくりした。
でもそれはきっと夢なんだ。だって次の瞬間には朝になっていた。
お父さんが起こしにきてくれた。今度の日曜は家族で映画を見に行こうっていう約束。
「えへへ」
楽しみで笑った。事実、とても楽しかった。映画が終わった後はレストランで美味しいご飯を食べた。
そんなこんなで夏休みだ!
みんなで一緒に遊園地にやってきた。
ミモ、モア、イゼ、アイ、奈々実。そして――
「もう! 早く行こうです!」
「だぞだぞ! 時間がもったいないぞ!」
「そうだね。もったいないよね!」
奈々実は笑って、舞鶴の手を取ってゲートへダッシュした。
みんな楽しそうだった。
みんな、幸せそうに笑っていた。
市江も、苺も。
『くだらない嘘を見せるな! 反吐が出る!!』
アダムが奈々実の隣を走り抜ける。
腹の横、魔法少女のドレスが破れて素肌が露出した。
おっぱいも出た。
和久井的には嬉しい。そういう本を読んだこともある。
しかしおかしい。あの時見た光景とは、まるで違う。
「待ってくれ!」
奈々実は倒れて、血まみれの手を前に出した。
「で、出てるぅッ!」
アダムは無視して奈々実へ近づいてくる。
「出てるって! 腸が出てるってェエエエエエ!!」
アダムは奈々実の顎を蹴って黙らせると、腹にできた傷の中に腕を突っ込んだ。
零れていた小腸を鷲掴みにして引っ張る。
ロープのように引きずり出される内臓。奈々実は嘔吐しながら痙攣する。
「あぎおぎぃぃぉおおおおおええええ!!」
泡を吹いた。しかしアダムはまだ止まらない。
倒れた奈々実に馬乗りになって、わき腹に爪を立てた。
耳を貫く汚い絶叫。すさまじい痛みに奈々実が叫んだ。
「頼むもうやめてェエエエエエ!」
声が出せたのはここまでだった。
激痛で言葉が詰まる。アダムは奈々実の肋骨の隙間に指を入れていた。
そして噛む。ちぎり取る。アダムは抜いたあばら骨を、奈々実の右目に突き刺した。
眼底を破壊して、骨は脳に達する。アダム再び力を込め、次々にあばらをむしり取っていった。
『たすけてください。おねがいします。なんでもしますから許してください』
奈々実の左目がそう語っている気がした。
アダムは奈々実の顎を掴んで引きちぎって握りつぶしながら捨てる。
下顎にあった歯がすべてバラバラになり、コーンのように散らばった。ベルゼブブがその落ちた一粒を細長い手で拾い、食べた。
ボリン! と音がして、奈々実の歯をおいしく頂く。
するとちぎられた奈々実の頭部が飛んできた。ベルゼブブはそれをキャッチすると、耳の部分を噛みちぎる。
『!』
ベルゼブブの体が爆発する。
床に倒れると、それを奈々実が踏みつけて、その勢いで飛び上がった。
振り下ろすステッキ。アダムは腕で受け止める。
「あぁぁぁあああ! おあぁぁああ!」
奈々実は足をブルブルと震わせて失禁しながら号泣して過呼吸になっていた。
度重なる激痛と死で、既に精神が限界を迎えているのだろう。
『BIG・FOOT』
奈々実は号泣しながらも、ステッキに巨大な足のエネルギーオーラを纏わせて突き出した。
巨大な足裏がアダムを狙うが、そこでアダムが両手を広げて前に出す。
倒れていたベルゼブブが一瞬で消滅し、アダムの前に巨大化したベルゼブブの頭部が口を開いて現れる。
向かってきた足を口に入れて――
『噛みちぎる!』
そう言って力込めるが、太い足はなかなか切れない。
奈々実は押し込んでやろうと前に踏み込もうとするが、そこで横から走ってくるアダムを見た。
「あ! あ……!」
どうしていいかわからずに固まっていると、アダムが飛んだ。
ドロップキック。両足蹴りで奈々実は背中から床に倒れ、思い切り頭を打ち付けた。
「あッ、ぐッ!」
星が散る。そしてすぐに激痛。
意識を取り戻すと、ステッキを持っていた右腕が無くなっていた。
魔法が途切れ、ビッグフットの足が消えてしまう。
そこでベルゼブブがワープで奈々実の頭上にやってきた。
『降参しろ! 和久井! そうすればもう傷つけない!』
「は、はいぃ! もう降参しますゥッ!」
奈々実は涙を流し、何度も頷いた。
その時、ベルゼブブの複眼が光る。尻の部分にはいくつもの刃が見えた。それが高速回転を始めた。
これはミキサーであり、おろし金であり、つまり対象をグチャグチャにするものだ。
「やめてくれるんじゃなかったの!?」
『僕に歯向かった罰だ! 最後に一度死ねッ!』
ベルゼブブは尻を向けてゆっくり下行してくる。
奈々実は必死に逃げようとしたが、脚をアダムに踏みつけられて動けない。
刃が高速回転する音が間近に迫った。反射的に止めようとして伸ばした左手が巻き込まれていく。
刃がたくさんついた尻は、骨などなかったかのようにスムーズにすり潰していった。
「ほあぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあ! ああああっ! ほえぇえあぁあああああぁぁ!」
尻が肘に到達する前に奈々実は気を失った。
ショック死の寸前、走馬灯のようにして『夢』を観る。
そこで幸せそうに笑う舞鶴を見つけた。
「あれ?」
「どうしたの? 舞鶴ちゃん」
モアが訪ねる。
「なッ、奈々実がいなくなったんです!」
今、目の前を歩いていた奈々実が消えた。
「さっきまでそこでクッキーを焼いてたのに!」
誰もが黙った。
心配になった舞鶴はオロオロと混乱しながら辺りを見回す。
ミモが持っていた携帯。レシピサイトにある広告が無音の動画を再生していた。
「奈々実!」
その映像の中で、舞鶴が嬉しそうに笑っていた。
彼女はトワイライトカイザーが発射した超小型ドローンが生み出した幻を信じた。
『舞鶴ちゃん。あのね――』
「ううん、いいの。奈々実! 何も言わなくていいよ! 貴女はきっと幻かもしれないけど、それでもいいの! こうして私の前に来てくれて、奈々実の声と、奈々実の優しい微笑みで会話をしてくれるというのなら幻でも何でもいい!」
『じゃあ受け入れて。今から眠くなるけど気にせずに眠って。そしたらずっと一緒だよ』
舞鶴は大きく頷いて目を閉じた。
虹色の光が体の中に入る。ティクスの力が彼女に幸せな夢を与える。
目覚めることはない。永遠に幸せな夢を見続ける。
けれども和久井が力を貸せと言えば、イマジンツールを使う。
そう設定した。
その動画がリピート再生された。
最初は無音だったのに、今は微かな声が聞こえそうになっている。
ダメだ。そしたら舞鶴が気づく。ミモのスマホをのぞき込むかもしれない。そしたらカラクリがバレてしまう。
だからまだ折れるわけにはいかない。
夢のシナリオを決めるメインライターが折れそうになっているからこんなことが起きるのだ。
融合を解除するわけにはいかない。だってそれが彼女のためなんだから。
それは死ぬよりも、もっといけないことだ。
「うっぁぁっぁああぁああ!」
気合を入れるために叫んだ。
光の中から綺麗な体の奈々実が出てくる。
「もうやめなよ!」
一連の戦いがフィーネの空に浮かぶモニタに映っていた。
何度も傷つく和久井を見てミモが叫んだ。
あまりにおぞましい光景に、モアやアイは真っ青になって目を逸らしている。
「いいのか! 友なんだろ? ヤツは!」
イゼが光悟の肩を掴んだ。だが光悟の表情は変わっていない。
『なあ光悟、お前ってさ、なんでもできるのか?』
あの時、和久井は考えていることを打ち明けた。
アダムがやったことと同じだ。何も知らない舞鶴を作って小さな世界に閉じ込める。辛いことを全て忘れて、奈々実の幻と永遠に暮らす。
その上でイマジンツールを使うことのできる状態。
光悟はできると答えた。舞鶴を夢の世界で過ごさせることを提案した。
「ティクスってなんでもできるんだな。マジで」
「悪夢を見せる敵や、夢の中で殺そうとする敵がいるからな」
「すげぇな。はは……、じゃあ頼むわ」
「でも和久井、どうしてイマジンツールを使えるかなんて聞くんだ?」
「決まってんだろ」
決まっているらしい。
「オレがアダムを倒す」
すまん光悟。たぶんオレは死ぬ。
こんなことを言ってみたはいいが度胸はないし、お前ほど愛しても愛されてもいないんだろうから勝てない。そうすると負けて殺されて死ぬ。
相手が本物になっていなくても、たぶん心がポッキリ折れるだろうから、やっぱり死ぬ。オレの死ぬってことはそういうことだ。知らんけど。
でも考えてみれば、だ。
あの思い出すのもクソな過去、オレはとっくに死んでた。
あとはただ、ダラダラと生きるまでの暇つぶしをしてただけだろう。きっとゾンビのように。
でも舞鶴を助けるこの一瞬だけは、生きていた時に戻れる筈なんだ。
お前と一緒に、くだらない正義の味方ごっこをしていたあの、一瞬に。
「わかった」
光悟はそう口にするだけだった。
あまりにもアッサリだったので思わず和久井は聞いてしまった。
「いいのかよ!? オレが死んじまうかもしんねぇんだぞ!」
「お前は以前、俺のわがままに付き合ってくれた。まだ、そのお礼をしてなかったからな」
その時、和久井は思い出した。
廃墟に向かう時のことだ。まさかパピに尾行されているだなんて思いもしなかった。
なぜならば和久井には一切の全てが目に入っていなかったからだ。
和久井は最初は歩いていたが途中から走った。舞鶴がいるあの廃墟まで。
いろいろなものが邪魔をした。物理的な意味で、精神的な意味で。
マイルドヤンキーが文句を言いにきた。
うるせぇ! 肩がくらいぶつかったくらいでなんだ! 死ね!
どけクソ共! お前らはオレ様の人生には何の関係も――
あるかもしれないけど! 少なくともそれは「今」じゃない!
イゼも、アイも、ミモも、モアも、違うんだ。どこまで行ってもお前らの話じゃない。
これは、オレと、アイツだけの、話なんだ!
頼む。舞鶴! 行かないでくれ!
オレも連れてってくれ!
『ぐッッ!』
アダムの首にカーバンクルが噛みついた。
おびただしいほどの血が流れてくる。
アダムはすぐにカーバンクルを掴んで、そこで一瞬停止した。
彼が何を思ったのかは知らない。
まあ、だいたいなんとなく予想はつくが、それでもやっぱりどうしてカーバンクルを壊せなかったのかは、彼だけにしかわからない。
しかしそのおかげで隙ができた。
復活した奈々実はイエティを変形させたハンマーをフルスイングしてみる。
感触があった。アダムの体が面白いように吹っ飛んで何枚もの壁を破壊していった。
『なぜだ……』
壁の穴の向こうでアダムが立ち上がるのが見えた。
『なんでだ!! なんで! お前はそこまでして! あぁあ! クソ!』
「オレにできることは、アイツを生かすことだ! オレは馬鹿だからアイツを諭すことはできない! アイツを苦しめてるものはなんだ? わからないんだ! でも、それでも命を守るくらいならッ!」
ずっと昔、光悟や月神たちと一緒に見たお涙頂戴のドキュメント。
みんながそれぞれの顔でそれを見ている中、和久井はパピの顔を思い出した。
なんで思い出せなかったのかというと、忘れていなかったんじゃない。
わからなかったからだ。
パピの表情がよくわからなかった。
光悟みたいに素直に受け止めている様子じゃないし、かといって月神やルナのように達観しているわけでもなく、一番近いと思っていた自分のようにバカにしたり下に見ているわけじゃない。
でも今なら、あの表情の意味がわかる。
パピは知ろうとしていたんだ。
これが命なんだと。これが生きるということと、死ぬということ。命を――、魂を与えられたものに待ち受ける宿命なのだと。
そんな難しいこと、昔の意地悪な悪女だったら絶対に考えない。
でも現にパピは受け止めて、知ろうとして、学ぼうとして、悲しんで、そういういろんな感情を抱いていた。
それはどうして? 決まっている。パピが生きのびたからだ。
「生きてれば! アイツみたいに、少しだけ変われる筈なんだ! 舞鶴も!」
『自分の世界じゃないのに! 生きていけっていうのか!』
「ああ! そうだ! 地球で生きていれば! 何かが変わる!」
アイツさえよければ、オレはそれでいい。
醜くても、アイツが笑ってくれればそれでいいんだ。
オレは、少なくとも、オレだけは。
「オレにできることはッ、アイツの中にある奈々実の墓を粉々に砕くことだけだ!!」
『それが奈々実になるってことなのかよ! 奈々実の幻を与え続けるってことなのか? それが変わるってことなのかよッ!』
「やり方があってるかどうかは知らん! でも、あいつがまともになるには、とりあえず生きてなきゃダメなんだ! 死んだら人は変われねぇだろ!」
『生きろだと? 勝手に生み出しておいて、勝手なこと言ってんじゃねェエエッッ!』
アダムの隣にベルゼブブが出現する。
既に誰かから消化して奪っていたのだろう。黒い雷が凝縮されたエネルギー弾が発射されて奈々実に直撃する。
悲鳴が上がった。バチバチと黒い電撃が迸り、奈々実の四肢が瞬く間に壊死していく。
「ズオオオオオオオオオオオオオオ!」
しかし奈々実は叫んだ。体から虹色の光が拡散して黒い電撃がはじけ飛んだ。
壊死も治っていくが、エネルギーを消費したのか両膝をついてゼェゼェと息を荒げる。
一発受けただけでこれでは話にならない。アダムはすぐに二発目のチャージに入る。
「なんか」
『ッ』
何を言う? アダムは続きを待った。
「学校の授業で見たテレビさ……、若いやつが癌になっちまうドキュメンタリーみたいなのやってたんだよ」
『は?』
「男だか女だったか、もうそれすら覚えてないわ。へへへ、ははは、知らねぇヤツがどこでいつ死のうがどうでもいいもんな」
『何を言っている?』
「しかもそいつ確か恋人いたんだぜ。なんだよ、オレよか全然充実してやがるじゃねぇかってな。まったく、ムカついちまうぜ。お前もそう思うだろ」
アダムは目を細める。
何が言いたいのか本気でわからない。
「でも、いっこだけ、今でも覚えてる。そいつ泣いてた」
奈々実の表情を見た瞬間、アダムの顔も変わった。
「……泣いてたんだよ」
奈々実も泣いていた。アダムにはその涙の意味がわからなかった。
「そら泣くわな。そいつら、泣くわ。そら……」
その涙は、全ての人に向けられていた。
そんなことができるのは神か、聖人君子だけだと決まっているのに。
「死ぬのは当たり前で仕方ないことだ。でも、悲しいんだよ。寂しいんだよ。たぶんそれは若ければ若いだけ」
『お前が何を言いたいのか、僕にはわからない』
「オレにもわかんねぇよ。カス人間だからな。でも、泣いてたんだよ! それだけはわかんだよ!」
舞鶴も若い。とても、若い。
そういう子が苦しいのは、なんだかやっぱり辛い筈だ。たぶん。
「舞鶴は死にたいって言いやがった!」
『しま――ッ!』
「でもな! 望んで死にたい人間なんて一人もいるわけねーだろォがァッッ!」
奈々実がステッキを振るうと、虹色の巨大な光球が放たれる。
完全に油断していた。アダムが気づいた時には、それが直撃していた。
すさまじい衝撃で視界が反転する。気づいた時には床に激突していた。
アダムの前に、過去が広がった。
記憶にある。自分と同じ顔をしたフィギュアたち。
地球という知っているようで、全く違う星。
アダムはアルクスの手によって巨大化した後、一度ファミレスに立ち寄った。
そこでは少しのお金でいろいろ美味しいものが食べられるらしい。
アダムの前世にもレストランはあったが、そこに行けるのはお金を持っているものだけだ。
そうなるとアダムは行ったことがない。
ましてや彼にとってはパンのひとかけらとて涙が溢れるほどのご馳走だったろう。あの時のアダムはわずかな食糧が手に入っても、すべて弟や妹に分け与えていた。
そこは貧乏人しかいないので、スリで手に入ったお金も雀の涙ほどのものだった。
アダムが食べていたのはそこらへんに落ちていたハエのたかった残飯か、それはまだいいほうで虫とか草とか紙とか、ネズミを口に入れて飢えをしのいだこともあった。
でもアダムはそれでよかった。
彼の自己犠牲のおかげで、弟と妹はかろうじて同年齢の標準体重をわずかに下回るくらいだった。
『すみません。あの……』
アダムは地球のファミレスで、やる気がなさそうなバイトに聞いた。
『オートミールは、ありますか?』
はい? と、首を傾げられた。
ないならいいですとアダムはチーズインハンバーグを注文した。
メニューを再度確認してみても、やっぱりオートミールはどこにもなかった。
オートミールはアダムが記憶する家族みんなで食べた一番のごちそうだった。
やがて運ばれてきたセットを、アダムは一心不乱に口へ運んだ。
まだハートが浸透していなかったからか、口に入れることはできたが、味は感じなかった。
貧しいくせに考えもなしに性欲に従った結果、自分たちを捨てたクッソタレな親共がいなければ何かが変わっていたのだろうか?
わからない。
あの時のある日、アダムは気を失って倒れた。
内戦が起こったらしく、この頃、手に入る食糧はより減っていった。
食料を高額で売りさばいていたマリブの親父は怒りを買って殺された。
でもそれが原因で飯を売る場所がなくなって、みんなより酷い飢えに悩まされる。間抜けな話だ。
アダムは老人に、この地区の人間は見捨てられたのだと聞いた。
しかもほかの地区は、自分たちを絶対に受け入れてはくれないらしい。
この腐った土地で過ごしてきた人間は悪い病気を持っていると信じているからだ。
実際、そうだったし。
夜、いい匂いがしたのでアダムは目を覚ました。
一瞬、天国かと思ったが、そこは自分たちが住んでいた汚い地下だった。
けれどもいつもと違うのは自分の前に焼いた肉、つまりステーキが置かれていたことだ。食べていいよ。弟がそういった。
アダムの中で何かが崩れ、アダムは無我夢中で肉を口に入れた。
美味しかった。目から涙が溢れた。
けれども量は少しだったので、アダムはおかわりがほしいと言った。
すると、弟が言う。
明日も肉があるから、用意してあるから、それを焼いて食べて。
じゃあ、おやすみ。お兄ちゃん。倒れるくらい僕らのためにいつもありがとう。
次の日、アダムが目を覚ますと、弟は自ら命を絶っていた。
横にあった妹の死体を見てアダムは理解した。
あのステーキは妹だったのだ。
アダムは悩み、そして決めた。
弟を、食おう。
生きるためだ。自分を愛してくれた二人のためにも。
『!』
カチャーン! と、音がした。
もういらない! もう食べない! ファミレスでは癇癪を起こす子供がハンバーグをひっくり返した。
子供の父親がすぐに店員を呼んで言う。
これ捨てといて、と。
『………』
アダムは町を歩いた。
寿司屋には、たくさんの車が止まっていた。
ラーメン屋には長い行列があった。
道端に飲みかけのペットボトルが捨ててあった。
アダムは思い出した。自分と同じ顔をしたたくさんの人形。
あの中、全てに、弟たちの血が流れている。
どんな気持ちで食ったと思ってる。
それが、誰かの描いたシナリオだと? どんな気持ちで……、どんな気持ちで――ッッ!
『ウォオオオオオッッ!』
アダムは叫び、走り、奈々実に突っ込んでいく。
殺す。殺しきる。そう決めた時だ。
ふと、思ってしまった。
(僕はなぜ、こんなことをしているんだ?)
箱に入っている自分を見た時、変わらなければならないと思った。
今までの自分ではダメだ。幻想の中の自分を再現したところで何になる。
本物になるには新しい自分にならなければならない。自分を作った過去は全てフェイクだ。
弟も妹も、ましてや両親も、あの冒険と闘いの日々も存在などしていない。
(なんでこんなことをしなくちゃならないんだ!)
だから名前を変えた。
だから人を傷つけたとしても新しい世界を求めようとした。
なのになぜ今、こんな虚しさが取り巻いている?
どうして自分は変わることができないんだ!
「何してんだテメェエ!」
『ぐッッ!』
奈々実が棒立ちのアダムを殴った。
『何がわかる! お前なんかにッッ!』
アダムは能力を発動しなかった。ベルゼブブの力ではなく、己の力で殴り殺そうと思ったからだ。
だから奈々実も余裕が生まれる。じゃあコッチもアダムを殴り殺してやろうとなってくる。
分泌されるエネルギー。かつてない感覚は高揚感か、それとも焦燥感か。
「――ァ」
アダムの拳が顎に入って、気を失う。奈々実はそう思ったが――
諦めないで!
誰が叫んでる? オレか、それともかつてのオレか。
あるいは、だれかなのか。
でも確かなのは、まだその言葉が聞こえるということだ。
『ぐごっぁア!』
奈々実の拳もまた、アダムの頬に抉り刺さった。
拳を交差させたまま、二人は停止する。
「オレがあの頃ッ、見たアニメは――ッ!」
『ッ?』
「なんか良い感じの雰囲気で、良い感じの音楽が流れる中で、良い感じにヒロインが死んで良い感じに世界になって終わったよ!」
奈々実はもう一方の拳を振って、アダムの頬を打つ。
「ガチで神すぎてヤバイ!」
もう一度振って、裏拳で頬を打つ。
「掲示板に書いてあったからオレもそう思った! 実際、そう思えるだけの世界があった! 切なくて愛しくて尊いよな! あの子の笑顔を見送るオレたちの無力感はいつもオレたちみたいなもんが現実で抱えてるもんだから素晴らしいよな! あの一瞬のトキメキにオレたちの希望と絶望が混じりあって最高にエモいよなァアッッ!」
アダムの腹を殴ろうとした時、逆にハイキックで顔を蹴られた。
一瞬意識が飛んだが、奈々実は踏みとどまって、拳に光を集めた。
「で、も、ち、が、う」
『さっきから何をゴチャゴチャと――』
アダムが衝撃に呻いた。
腰の入った奈々実のパンチが顎に入ったからだ。
『ゴォッッ』
「本当はあの子を助けたかった! そうだろ! オレッ!」
アダムが顔を上げると拳が飛んできた。
衝撃でのけぞる。すぐに顔を戻すと、奈々実の拳がそこにあって、顔が別の方向を向く。視線を戻さなければ! アダムがそう思った時、額を殴られた。
「オレたちがやりたかったのは泣きそうな顔で笑ってるあの子の心情を分析してブツクサ語るんじゃなくてこの手であの手を掴んで今すぐ逃げ出して誰もいないところまで走って走って逃げてそれで海を見てそれでもやっぱり寂しいけどって呟くあの子の口をひょうきんな話で笑わせて言葉を遮断して二人ならば生きていけるとかなんとか偉そうにたれてそれでもやっぱりその子を狙うクソみたいな世界から命を懸けてあの子を守ろうとすることだったんじゃねーのかよーッ!」
奈々実はただひたすらにアダムを殴った。
「エロゲもギャルゲーもラノベもそうだ! 流行りだった! あの子も! あの子もッ! あの子も死んだァア!! 誰の影響下は知らねぇけど、多くのクリエイターたちがそこにクリエイティブな刺激がどうのこうのとうんたらかんたらァ!」
アダムも奈々実を殴ろうとしたが、それよりも早く奈々実の拳がアダムに届いた。
アダムがよろけたところに、奈々実は追撃で頭突きを食らわしてやった。
「人生の厳しさ? 襲い掛かるリアル? 愛しさと儚さと? 無力感が生み出す僕らのセンチメンタルでノスタルジックなってうるせぇうるせェうるせぇええええええええええええええええええええええええええええええええええッッ!」
肘を曲げて振り下ろした腕を、アダムは腕で受け止める。
交差する腕と腕の向こうにお互いは鬼気迫った顔を近づけ合う。
「オレも納得してたし楽しんでた。でも心のどこかで思ってただろ。あの子の手を引くべきだったって! 違う。もっと究極的。オレが助けたかったんだ! だからセーブとロードを繰り返してぇえッ! なんかないかなんかないかなんかねぇのかよーッ! そうだ! そうだよなオレ! じゃあ今ッ! あの時の願いが叶うんじゃねーの!?」
叫ぶ必要は全くなかっただろうが、それでも腹の底から叫んだ。
「たとえ!」
『ぐッ、ぉぉ……ッ!』
アダムは手を伸ばした。現れるハエの群れ。それが奈々実の右腕に纏わりつく。
奈々実の顔が醜く歪んだ。だが――
「それがァあ!」
それでも、奈々実は止まらなかった。
「罪だったとしてもォオッ!!」
黒い霧から白い腕が伸びた。
骨だけになった握りこぶしが、アダムの頬に直撃する。
「ボロクソに酷評されようがオレが見たかったのはそれなんだ! だからオレがそれをすることになんの不思議もねぇ! じゃあテメェはどうなんだ! どうなんだどうなんだどうなんだァアア! いつまでくだらない言い訳をゴチャゴチャゴチャゴチャ並べやがって! いつまでも自分ってキャラに引きずられやがって! なんなんだお前はァッ!」
ハエの群れが奈々実の全身を食い破っていく。しかし奈々実は止まらなかった。ボトリといろんな臓器を体からこぼしながら、自分の腸を踏んで滑りそうになりながらも、眼球も、子宮をハエに食い破られたが、それでもまだ足と声帯は残っていたから止まれねぇ。
「いい加減かっこつけてんじゃねーッッ!!」
肘から上はもうなくなっていたが、かまわなかった。
奈々実が伸ばした上腕骨の先端が、アダムの鼻を粉々に砕いた。
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