第43話 愛ゆえに
「お茶あげる」
ルナ、飲む。
「安い味」
「チッッ!」
一瞬、手が出そうになったが、ミモはグッとこらえた。
ここはアポロンの家のリビング。いつも賑やかな場所だが、今は子供たちの声は聞こえてこない。みんな近くの公園で遊んでいるからだ。
「はやーい!」
『もちろんです。速ければ速いほど、いろいろな場所に駆け付けることができますからね!』
ライガーが子供たちを乗せて公園の周りを走り回ってる。
「たかーい!」
『ワイが本気出したら宇宙まで飛んでいけまっせぇ!』
ジャッキーが子供たちを連れて空をゆっくりと飛んでいる。
「すごーい!」
『ほんまに子供はかわらしなぁ』
バトルモードに変わったスパーダが、両手を広げて、そこに子供たちがしがみついてぶら下がっている。
「かわいー」
『……照れるでござるな』
女の子たちは柴丸に興味津々で、交代で抱っこをしていた。
あれだけパラノイアが出現しても、今、子供たちに怪我一つないのはライガーたちが活躍してくれたからだ。ミモはそれに感謝した。
だから光悟たちを信頼し、家に招いたのだ。
ベッドに寝かせたモアも、そのうち目覚めるということなのでひとまずは安心だ。
ちなみに、シャルトはケースの中で眠っていた。
毛並みが荒れたり汚れたりするのが嫌らしく、外に出たがらない性格らしい。
隣にはもう一つぬいぐるみが入るスペースがあるが、ここに柴丸が入るわけだ。
「それにしても、柴丸を公園に行かせてもよかったのかしら? 子供たちが引っ張ったりして傷つけるようなことがあったら……」
「ちょっとアンタ、うちのチビたちマジでナメないでよ。人のものを傷つけるように教育なんてしてねーわッ!」
「あーらま生意気な女ね。ズタボロにしてさしあげようかしら」
「……いけないぞルナ。ズタボロにするなんて他人に言っちゃいけない」
光悟はルナを引っ込めると、フォローにまわる。
「ここの子供たちは偉いんだな」
「うん。モア様がどーとくってのを教えてるからね。みんなモア様がマジで大好きだから、ちゃんと教えてられた通りにしてるってかんじ?」
光悟が周りを見ると、たくさんの写真が飾ってあった。
「柔らかな笑顔だ。少なからず、かつては心に傷を負っただろうに。ミモとモアがいたから、こんな素敵な笑顔を浮かべられるようになったんだろうな」
「え? あ、そうかな? へへ、マジでサンキューね」
ミモはニコニコしていたが、光悟は無表情だった。月神も、ルナも。
「ところでお前ら、なんなんだよ、その恰好は」
和久井が光悟たちを指さす。
黒いスーツ、黒い手袋、スパイ映画にでも出るつもりかと。
「エクリプススーツ。エクリプスってのは、これのことさ」
月神は腕時計を見せる。
ルナと光悟の腕にもあるが、前回の事件でもマリオンハートの吸収や検知に使用していたものに、さらなる機能を追加した最新型らしい。
スーツもその機能の一つだった。
たとえば光悟なら、ティクスと融合して変身した際に右腕の見た目が変わる。
それは敵に視覚的な情報を与えることになるし、人ごみの中では目立ってしまう。
だから変化を隠すために作られたのが、黒いスーツ状のバリアだった。
「現在着ている服と同じにできるといいんだが、あいにく開発が間に合ってなくてね。一応、テストで使っていたルナデザインというものがあるんだけれど――」
ルナがエクリプスを操作すると、黒いスーツが一瞬でパーカーになるが、いたるところにハートがあって、中に月神の顔が貼り付けてある。
「ダっっっ!」
ついつい漏れた声。
ルナが睨みつけると、ミモは目を逸らして動かなくなる。
アイラブお兄様パーカーというらしいが、こんな激痛パーカーを三人で着るよりかは黒いスーツでいこうと。
「すげぇな。どういう技術なんだ?」
「ラビリスの内部をプログラム化し、ネットワークを介して干渉することで影響を及ぼしている。ラビリスっていうのは、マリオンハートが入ったものが物語だった場合に構成される世界のことだ。以前、おれたちが入っていたオンユアサイドの中や、今おれたちがいるココがそうだ」
ラビリス。
神話において、一度入ったら二度と出てこられないという迷宮・『ラビュリントス』からとったらしい。
「前回のラビリスは、あくまでもゲームのディスクとPCを介して作られた世界だった。その端末をハッキングして、特殊なプログラムを打ち込むことで、ラビリス内に大きな影響を及ぼしていた」
ヴォイスは光悟たちがラビリスに入ったらその世界観に合うように服を用意してくれたし、日曜日の魔術師やルナの義兄という役職や、居場所も与えてくれた。
それと同じようなことを月神たちが行って、自分たちのビジュアルを変更しているのだ。
流石に、『居場所』までを用意するほどのハッキングは行えないが、服を変えるくらいはできるのだという。
「ハッキングか。ってことはココにもヴォイスみたいなやつがいるのか」
「まあ、この規模だからね。世界にハートが入っていないと形成するのは難しい」
問題は何にハートが入ったのか、だ。
たとえば本や台本などを媒介にしてラビリスが生まれた場合は、直接ハートが入った道具そのものにコンタクトを取らなければならないが、インターネットを介することができる場合は、遠隔でラビリス内に侵入できるようになっている。
今回、月神たちは月神グループからラビリスにやって来たので、ある程度予測はできているという。
「端末はPC、そこに舞鶴が出ていたアニメ、ナナミプリズムのDVDを入れたんじゃないか。ってね」
「いや、でもオレ――ッ、なんも思い出せねぇんだ。なんで入ってんのかとか、アニメの内容とかも」
「そうなるように仕組まれたんだ」
「だったらそうだ! 一回、このラビリスから出ればいいんじゃね? そうすれば干渉も消えるだろ?」
「残念だけど難しいね。さっき調べたけれど、出られなくなってるんだ」
「……マジ? やべぇんじゃねぇの?」
「かもね。でも、そういうルールなんだから仕方ない。おれたちは死ねば戻ると思うけど、和久井くんはどうかな? キミがどこからココに入ったのかわからない以上、リスクを負うことはやめたほうがいい」
ましてや月神たちも戻ってこれるかはわからない。
既に支配者には異物として認識されている筈だ。
ここを出てしまえば入り口を完全にロックされてしまう危険性がある。そうなるととても時間がかかって面倒だ。
「とりあえず今は目の前にある事件を解決していったほうがいい。そうすれば向こうから何かしらの接触してくるかもしれないしね」
ヴォイスとの戦いで舞鶴にもマリオンハートが入っていた。
ということもあって月神たちは舞鶴のことを少し調べていた。
アニメ・ナナミプリズムは分割制度をとっている。ワンクールでは物語が完結しておらず、後半はまだ放送されていないため
和久井も必死に記憶を辿ろうとするが、何も思い浮かんでこない。
「ねえねえ、さっきから何のこと、話してんの?」
そこで視線が、ミモに集中する。
「真並くん。説明してやりな」
光悟は頷いて、光線銃を取り出す。
「お、おいおい、マジで教えるのか? 大丈夫かよ」
和久井は既にオンユアサイドのことは思い出していた。
そういうカラクリは、やはりラビリスの中で生きていた者にとってはデリケートな話題になるわけで。
「むしろ教えたほうがいい。いずれ知ることだろうし、何よりも彼女はマリオンハート所持者である可能性が非常に高い」
光悟は、ミモに銃を向けた。
彼女が反応するよりも早く、眉間に弾丸が撃ち込まれる。
もちろん攻撃ではない。眉間にセットされたビー玉ほどの装置が発光すると、ミモの脳内に情報が広がった。
マリオンハートがどういうものなのか。光悟たちがどういう存在なのか。次々にミモに伝わっていく。
十秒もすればミモは地獄を見たような表情になり、部屋の隅で固まっていた。
「まあ無理もない。自分が今いる場所が幻想だって知ればそうなる」
月神は淡々としていた。光悟がミモを慰めようとしても止める。
「放っておけ。今はこれからのことだ。誰にハートが入っているのか? そしてなぜハートが入っているのか?」
月神たちは鮮明に覚えている。
足りなかったマリオンハート、無事に修復されたティクスたち、語ることができるモアイ像。
だからこそ予想がつく。では逆に、なぜ和久井が覚えていないのか?
それはこの事件において、和久井が重要な人物だからでは?
「魔法少女たち、ひとりひとりにハートが入っているから、おそらくお人形だ」
「フィギュアってことか? おいおい、ちょっと待ってくれよ」
確かに柴丸は動くし、ティクスに至ってはフォームチェンジで別の姿にも変われるめちゃくちゃっぷりだったが、あくまでもサイズは元のぬいぐるみのままだ。
舞鶴が和久井のフィギュアであれば、和久井たちと肩を並べられるのはおかしい。
「おれたちが縮んでる可能性がある。この体はアバターだから」
「な、なるほど。でも血とかだって、ちゃんと出てたろ?」
傷から見えた出血。あるいはアイが刺した注射器が、ミモたちから血を吸い取った。
「かつてヴォイスの手によってティクスと柴丸がバラバラにされた時、綿が飛び散ったが、あれは彼らがまだ本物ではなかったからというのもあるけど、そもそも本物になるということはイコールで人間になるということじゃあない」
それは憑依先の道具によりけりだ。
確かに『フィギュア』であれば、ハートの成長率によっては血のような赤い液体を流すこともできるだろう。
それは全てのフィギュアにいえることではなく、『人間』という存在のフィギュアだからだ。
「和久井は舞鶴のフィギュアに名前を書いてなかったのか?」
「書いてあるわけねぇだろ。テメェはフィギュアを、そしてオレをなんだと思ってんだ」
「……まあ、和久井くんが自分のフィギュアに名前を書いてあったところで、衣服だったら変身を解除したら終わりだし、素肌なら一度でもシャワーを浴びれば取れてしまうだろう。ハート所持者は時間経過で玩具としての機能も失われていく。例えば柴丸は、ぬいぐるみの時から服は着ていたが、服を着ているという前提のデザインだったから服を剥がすことはできなかった。だけど今は服を完全に脱ぐことができるし、服の下もしっかりとデザインされてる」
生命としてのデティールの再現。
あるいは道具に込められた
「ということなんだけど、どうだい? 真並くん」
月神に言われて、光悟はメガネを整える。
「ミモやモアをトワイライトカイザーで調べたが、肉体の構造が人間と変わらない」
骨格。臓器。構造が人間と同じだった。
それをどう捉えるかは、まだ結論付けることができない。何かしらの細工がしてあるのか、あるいは本物に近づいているのか。
「和久井くんが何も覚えていなかったように、彼女たちも同じだろう」
ティクスや柴丸、シャルトもそうだが、マリオンハートが入ったものはそれを自覚している。
ティクスのような存在の場合は、光悟の家にやってきたぬいぐるみとしての記憶と、放送されていたヒーローだった自分の記憶も持ち合わせているわけだし。
「だけどミモたちにはそれがない。虚構の世界を真実だと思い込んで生活していた」
「月神」
光悟に睨まれ、月神は肩を竦めた。たしかにミモの前でする話じゃない。
が、しかし、ゆっくりとはしていられない。考えてみれば前回の件にてルナやヴァジル、ロリエはゲームにハートが入ったことで生まれたようなものだ。
「しかし今回は、わざわざ魔法少女のフィギュアを用意して、映像記録媒体にもハートを入れて仮想世界を用意しているなんて、明らかに変だ。これは以前のようにたまたまハートが入ったのではなく、狙ってやってるね」
加えてマリオンハートが入る道具の中で最も厄介なのが、やはり『世界』を明確に具現するDVDやゲームソフトだ。
「本物になった時点で、おれたちの世界に浸食してくる。フィギュアにハートを入れたのもこの点がポイントだろう」
肉体をはじめから用意するということは、本物になった後スムーズに地球で能力を使うことができる。
「向こうの狙いを阻止するためにも、一刻も早く全てを終わらせなければならない。ってね」
「とにかく動こう。和久井、俺たちが来るまでにお前はなにをやってたんだ?」
「………」
「和久井?」
「なんにも、してねぇ」
「どういうことだ?」
「ぼーっとしてた。酒飲んでぼーっとして。オナニーしてた。あと、たくさん人を殺した、くらいだ」
「「フール」」
「わかってる! わーってるよ! あああ! クソクソクソッ!」
月神とルナの冷めた瞳は死にたくなるほどの威力だ。
とはいえ事実なのだから仕方ない。何も生み出せなかった。何も紡げなかった。
和久井は死にたくなったが、今までの自分を全て説明する。
「物語だったとしたらクソすぎて打ち切りどころのレベルじゃない。作った人間が死刑になるくらいだ。何一つ面白くない。そればかりか、ただただ不快なだけで――」
「だったら次は刻めばいい」
光悟に肩を掴まれた。
「お前の物語だ。行くぞ、和久井」
「お、おい! 行くってどこへ……」
光悟に手を引かれ、和久井はうろたえた。
しかし、あれだ。今になって振り返ってみたら、光悟のヤツはそれなりにかっこいいことをしていたと思う。
するとなんだか腹が立ってきた。和久井はグッと歯を食いしばると、行先もわからないのに光悟よりも前に出た。
「お前にできたならオレにもできる。昔からゲームはオレのほうが上手かった……!」
光悟はほんの少しだけ唇を釣り上げた。
◆
男の子と女の子がブランコに乗っていた。
二人は幼稚園の頃から一緒の幼馴染だ。家も隣同士で、いつも一緒に遊んでいた。
だけど今日は二人のテンションが低い。
小学校に入ってからというもの、二人一緒にいるとからかわれる回数が増えてきた。
お似合いだとか、結婚式には呼んでくれとか、みんなの前で言われるものだから恥ずかしくてたまらない。
ましてや、女の子の名前は宇佐木。男の子の名前が亀山だから、『ウサギとカメ』だなんて言われてる。
「きょうはとくにひどかったね。せきがえでむりやりとなりにされて……」
「ごめんねカメちゃん。わたしがウサギなんてみょうじだから」
「ううんっ、きにしないでウサちゃん。ぼくすきだよ、ウサギとカメってよばれるの」
「ほんとう?」
「うん。それに――」
しょんぼりする宇佐木ちゃんは見たくないから、亀山くんは勇気を出した。
「いつか、そうなりたいって、おもってるよ。ぼく」
「ッ! わたしも! えへへ!」
まだ恋のイロハも理解していない二人ではあるが、恥ずかしそうに微笑んでいた。
「これからもそばにいてくれる?」
「うん。やくそくだよっ!」
三年後の夏休みも、二人は約束を守っていた。
夏祭りに来ていた二人は手をつないで花火を見た。来年も二人で見ようと約束した。
中学生になっても二人は一緒にいた。
やっぱり周りからは、からかわれたが、それで二人が離れることはなかった。
亀山がラブレターをもらったと聞いたら、宇佐木は不安で泣いてしまった。
宇佐木のことをかわいいと言っている男がいると、亀山はムッとした。
二人はいつも一緒にいた。でも、やっぱり、そういうものは、永くは続かない。
亀山の両親が離婚することになり、亀山は母親の実家があるところに引っ越さなければならなくなってしまった。
最後の夏祭り、二人は花火の下でキスをした。
手紙を書く。長い休みがあったら会いに来る。そう約束して二人は離れ離れになった。
その後、高校生になった亀山に事件が起きた。腸を患ってしまったのだ。
直接命に係わるものではないが、急にトイレに行きたくなって、ある時出かけた先で漏らしてしまった。
当時の高校生という多感な時期においては、それはすごくショックなことだった。
そんな状態で宇佐木に会いたくないと思ってしまった。軽蔑されると思った。
こんなクソ漏らし野郎なんかよりも、もっと相応しい人とお祭りに行けばいいと思った。
だから亀山は宇佐木に手紙を書かなかった。会いにいかなかった。
それから十年が経って亀山は一人の女性と結婚した。
レイコという女性だった。仕事の同僚で、飲みの帰りになりゆきでセックスしたら、子供ができたので結婚した。
授かり婚というらしい。亀山はレイコが嫌いではなかったので問題はなかった。
子供が少し大きくなった時、亀山は父が死んだと知らされた。
もう随分と会ってなかったし、それなりに酷い人だったが、それでもせめて通夜には行こうと思った。
一人で行った。そこで宇佐木と再会した。
本来ならば、なつかしいと一言二言かわして終わらせるべきだったのに、亀山が彼女を食事に誘ったのは、面影が昔のままだったからだ。
会いたかった。宇佐木は嬉しそうに笑ったが、すぐに悲しそうに泣いた。亀山が結婚をしたことを知ったからだ。
宇佐木は亀山をずっと待っていた。約束を信じていたのだ。
「ひいちゃうよね……」
落ち着いた後、宇佐木は笑った。
当たり前である。子供の時の約束など、約束ではないようなものだ。
ましてや一度も会いに来なかった時点で、なぜ察することができないのだろうか。
「そんなことない!」
けれども亀山は叫んでいた。激しい感情があった。自分の愚かさを悔やんだ。
なんていじらしい。亀山は一秒でも早く宇佐木の涙を止めたかった。
だからホテルで彼女を強く抱きしめた。与えられなかったぶんの愛を倍にして与えたいと思った。二人は一晩中愛し合った。宇佐木は処女だった。
お互いに後悔は欠片もなかった。だからゴムもしなかった。それは無粋であると。
「子供、できたら一緒に育てよう」
亀山は宇佐木と共に生きていくつもりだった。ずっと宇佐木を愛していたからだ。
「夏までには終わらせる。話し合いが無理なら、家を出てまで一緒にいる」
「……うん」
「家族三人で夏祭りに行こう」
「うん。待ってるね」
「クズ野郎でごめんね」
「そんな貴方を好きになったんだから」
二人はキスをした。妻と娘を切ろうと、亀山は己に誓った。
「やっと、キミに追いついた」
「ウサギとカメ? なつかしいね」
まあ、亀山というのは父の名字だったから、離婚した時に変わったのだけど。
今の名字は安平だった。宇佐木は安平になるのが楽しみだとわらった。
これは、ただの不倫だ。
ただどうやら神は、裏切られた安平の妻、レイコを見捨てなかった。
彼女も後日、運命の悪戯で別れることになったバンドマンの男と再会して肌を重ねることになる。そしてその彼のために、夫と娘を切る覚悟を固めたのだ。
こう書くとそれぞれ酷い人間と思われるかもしれないが、話は簡単である。
モラルや罪悪感など。
真の愛には勝てない。
「うぎゃああああぁあああぁああ!!」
舞鶴は叫んだ。
建設途中のマンションの五階の一室で跳び起きた。
彼女は部屋の隅まで這うと、胃液をぶちまける。
「ひゃはははははは!!」
違う。感情を間違えた。真顔になる。
舞鶴はまだ壁がない部分から下を見る。
どいつもこいつもマジで死ね。私を愛さないクソ親、私をいじめたカス人間、私の計画を邪魔する光悟たち。
そして、私のために死ななかった和久井閏真。
ふと、舞鶴は並んで歩く男女を見つけた。
友達だろうか? それとも恋人だろうか? なんでもいい。
幸せそうなヤツもみんな死ね。でも、まあいい、私には奈々実がいる。
奈々実がいれば――
「あ」
和久井がいなくなった今、どうやって死を重ねればいいのだろうか?
「あぁ……」
奈々実がいなかったら、誰も、私を、愛してくれない。
みんなが真の愛を掴んでも、私には真の愛がない。
私には、私にだけッッ!
「あぁぁあぁぁあああああああ!」
おかしい。理不尽だ。なんで私ばかりが不幸になって、あんなクソどうでもいいやつらが幸せそうに歩いているのか。舞鶴にはどうしてもそれが許せなかった。
だから気づけば変身してサンダーバードを身に纏っていた。
もう、なりふりを構っている場合ではない。一刻も早く奈々実の温もりを手にしなければ壊れてしまう。
「大丈夫! 彼女ならッ、わかってくれる!」
というよりも、きっと罪を負った自分にも優しくしてくれるだろう。
それが奈々実という存在なのだ。
だから、あいつらを殺す。舞鶴は一枚の彩鋼紙を手裏剣に変えると――
「よせ」
「はッ!?」
今まさに手裏剣を投げようとした時、腕を掴まれた。
振り返ると光悟がいた。部屋の入口のほうには和久井も立っている。
「な、なんでこの場所が!」
光悟はイゼとユグドラスに向かう前に、空にいた舞鶴に気づいてた。
まずはトワイライトカイザーで追跡用のドローンを発射し、途中でジャッキーに引き継ぎを行って、スズメ型のロボットが彼女を追跡していたのだ。
光悟はそれをいちいち説明することはなかった。ただジットリと舞鶴を見るだけだ。
「く――ッッ!」
舞鶴は光悟を殺すために刀を振るった。
彼女視点では生身かもしれないが、黒いスーツの裏では既に変身が完了している。
光悟は右腕を盾にして刀を受け止めると、左の掌で舞鶴を突き飛ばした。
「う――ッ! ぐげぇッ!」
掌底を受けて舞鶴は大きくよろけ、後ろに下がっていった。
しかし二歩ほどで踏みとどまると、再び前に出て刀を振る。
だがまた同じように腕でガードされると、カウンターの掌底をくらう。
「ぐげぇ! げほっ! かはッ!」
よろける。向きを変えても勢いは止まらない。
舞鶴はうつ伏せに倒れそうになり、近くの柱にしがみつくことで踏みとどまった。
大きな舌打ちが零れる。
振りむきざまに思い切り踏み込み、突きで光悟の心臓を狙ってみたが、そこへしっかりと回し蹴りが合わせられた。
振るわれた足の軌跡に虹が生まれる。光悟の踵が舞鶴の手首を撃ち、衝撃で刀がすっぽ抜けて飛んでいった。
「うぅぅ、なんッなんだよお前はぁぁッ」
「………」
「邪魔すんなよぉぉお」
舞鶴は唸り、後退していく。
どこからともなく紙吹雪が舞い、一つ一つが折り鶴になって光悟に嘴を突き立てようと飛んでいった。
光悟が腕を払うと、虹のカーテンが張られて鶴を受け止めていく。
舞鶴は力を込めて鶴を増やすが、カーテン状のバリアは貫けない。
光悟が腕を伸ばすと虹色の光弾が発射されて、自分が張ったバリアを砕きながら飛んでいく。
舞鶴は大きな紙を生み出すと、それを盾として光弾を受け止めた。
しかし次の瞬間、光弾が七つに分裂。虹を構成する七色のエネルギーの球体は舞鶴の周りを飛び回り、軌跡にはエネルギーが留まり続ける。
バリアロープ、七色のエネルギーの線が舞鶴を縛り上げ、完全に拘束した。
「舞鶴」
「は……ッ?」
光悟の目に宿る感情の正体が掴めない。
「憎しみの果てに、虹がかかることはない」
光悟は右腕を軽く振った。
すると、うっすらとプリズマーが見えるようになる。
そこで光悟はレバーを操作し、中に入っていた宝石を輩出させた。
すかざず握りつぶし、両手を左右に広げた。七色のスパークが巻き起こると、光悟は右腕をまっすぐ上に伸ばす。
色とりどりのエネルギーが稲妻のように迸り、右腕に集中していった。
「『ネオ! レインボーバースト!」』
踏み込みながら右腕を突き伸ばすと、光線が発射された。
「グギャぁああぁああ!」
縛られている舞鶴に避ける術はない。
直撃を許すと、床を転がっていき、衝撃でサンダーバードも分離してしまう。
「………」
光悟は倒れた舞鶴を通り抜けて、サンダーバードを目指す。
「ちょッ! ま、待って! 待ってよ! うぁぁッ!」
舞鶴は立ち上がろうとするが、腕に力が入らず、崩れ落ちて顎を打った。
サンダーバードは起き上がり、目からレーザーを撃って光悟を狙う。
しかし掌で受け止められると、逆に虹の光弾を受けて壁に叩きつけられた。
バチバチと嫌な音が聞こえたが、光悟はお構いなしに拳を握りしめる。
「ぎょえうわぁぁあぁあ!」
火事場の馬鹿力か、舞鶴は飛び起きて走り出す。
勢いあまって転びながらも、光悟の足首を両手で掴んだ。
「待って! やめて! お願いだからそれを壊さないで!!」
光悟は反射的に舞鶴を見た。彼女は泣いていた。
「頑張って集めたのに! だまじいが! もれぢゃうッッ!」
光悟の表情は変わらないが動きは止まっていた。その間に舞鶴は必死に言葉を紡ぐ。
「お願いしますお願いしますおねがいじまず! なんでもじまず! なんでもじまずがら! ちんこ舐めます! セックスもします! 私が無理ならお金払います。親の金を盗んできます。もっと大きな額なら借金します。銀行襲います。風俗で働きますから!」
涙を流し、鼻水を流し、涎を垂らし、舞鶴は光悟にしがみついた。
光悟は眉を顰めるだけで何も言葉を返さなかった。プリズマーを操作して、瞳をオレンジ色に変える。手にした銃はサンダーバードへ向けた。
「!」
光悟は引き金をひかなかった。
サンダーバードと銃の間に、和久井が両手を広げて立っていたからだ。
「まあ、待てよ光悟。今のは少し……、いや、まあ、かなりドン引きだったけどよ。逆にそこまでいうんだから壊すことはねぇじゃん。なあ?」
「和久井……」
「いや、なんだったら一発ヤラせてもらえばいいんじゃね? はは、ははは……」
「和久井。ティクスには相手が悪だったら、そのレベルに応じて強くなる能力がある」
「知ってるよ。覚えてる覚えてる。まったく便利な設定だよな。正義の定義があやふやなのに、なんで断定できるかね? うははは……」
和久井は笑っていたが、笑っていなかった。光悟の言いたいことくらいわかる。
「舞鶴と戦う時、俺は力が上がるのを感じた」
「ああ、うん。なんかさっきとか余裕だったもんな……」
「和久井。残念だが、彼女は――」
舞鶴は泣きじゃくりながら光悟を通り抜け、和久井には目もくれず、サンダーバードの様子を確認しにいく。
光悟は追いかけようとしたが、やはり和久井に遮られた。
「でも、ほら、ティクスの機能だって故障っていうか、調子が悪い時くらい――」
「彼女は悪だ」
「………」
わずかな沈黙の後、和久井は口を開いた。
「んなこと、知っとるわ」
和久井は悲しそうな顔をしていた。
あの手裏剣を動かしていたのは舞鶴だと、もう気づいている。
「オレは、悪を好きになったんだよ」
光悟は考えた。考えて、考えて、もう少しだけ考えて、銃を消した。
さて、なんと言えばいいのか。迷っていると聞こえた電子音。
『THE・WISEMAN――……!』
は? 和久井は振り返る。
舞鶴が鼻息を荒くして、笑いながら刀を突き出してきた。
とはいえ体は大きくズレる。光悟が押してくれたからだ。光悟は和久井の前に出た。
「………」
和久井にはそれら一連の出来事が、なぜかスローに感じられた。
だから考える時間が生まれる。光悟が守ってくれたのは、ありがたいことで感謝するべきなのだろうが、どうしてだろう? やけにムカついてしまったのは。
なにかこう――、違う。
うん。違う。違うな。違うよな。
だから和久井は踏みとどまった。前に進み、全力を込めて光悟をどかした。
「なにッ!?」
さすがに予想してなかったのか、光悟から間抜けな声が出た。
ざまあみろと笑ってやる。いつもうまく庇えると思うなよ。逆に庇ってやるわ。クソ。
「ぐぐいぃいぁぁぁああ!」
腹部に激しい熱を感じて、和久井は声をあげた。
魔法少女が本気で力を込めていたので、ただの人間である和久井の体など簡単に貫いた。
舞鶴も驚いていたようだが、すぐに刀を下に移動させる。肉やら臓器やら骨やらが一瞬で断ち切られ、いろいろな液体をまき散らしながら和久井は倒れた。
「大丈夫か! 待ってろ!」
光悟はすぐに和久井へ治癒の光を当てて、傷を癒していく。
その隙に舞鶴はマンションから飛び立ち、空に消えていった。
追いかけることも考えたが、和久井の治療を優先する。プリズマーのボタンを押して、バトルモードに変形済みのライガーたちを召喚した。
「俺は光を当て続けるから、みんなは手術を頼む」
『了解です光悟様』
『よしきた! ワテらに任せとき!』
『やってやるざぁ!』
ジャスティボウの頭部にあるコンピューターには、世界各国のスーパードクターの技術が記録されている。
麻酔薬や輸血用の血液も体内に備えてあるので、さっそくオペが始まった。
麻酔は下半身の感覚を奪うが、意識までは奪わない。和久井は真っ青になりながら、光悟に微笑みかける。
「ア、アイツ性格やばくね? 刀、引き抜きゃいいだけなのに、わざわざ下ろしやがった! おかげでガチでケツが真っ二つだぜ……!」
「和久井、どうして庇ったんだ。俺の防御力ならダメージはほとんどなかった!」
「どうして? どうしてって、お前、そりゃ……」
友達だから?
いや、違う。そんなカッコいい理由ではない。
また、光悟のものになるのかと思ったら腹が立っただけだ。
お前の番じゃない。違う。オレのものだ。オレの番なんだ。
和久井はそれを言おうとしてやめた。
いくら治癒の光を当てられて、麻酔も使ってくれているとはいえ、股間を裂かれた痛みは忘れちゃいない。
「あの、悪いんだけど、ちょっと聞いていいか? 鳥ロボくん」
『ワテはジャッキーいいます。なんでっか?』
「オレのちんこ、どうなってる?」
『……知らんほうがええこともありまっせ。なあ兄ちゃん』
『袋破けて、片玉落ちてるざぁ』
「ああ、くそ! あのゴミ女ァア!」
『スパーダ! アホたれ! 言わんでええねん! そんなこと!』
『ちんちんは言わんかったざ! でも玉のほうは、おとろしいことになっとるから、言ったほうがええでの!』
「頼む治してくれ! まだ一回も使ってねぇんだ! 巨乳のコスプレイヤーと知り合った時に使う予定だったんだ! 本当なんだ!」
『和久井様! 喋らないでください! 傷に触ります! お前たちもやめないか!』
ギャーギャー言いつつ、やがて傷は完全に塞がった。
消滅するジャスティボウたち。和久井は包帯でグルグル巻きの体をジッと見つめた。
「なんか変な巻き方だな」
「ニチアサ巻きというんだ。伝統の縛り方だ」
「これ股間カバーできてる?」
「………」
「ま、いっか。それより改めて考えてみたんだけど、やっぱアイツってクソ女じゃね? 普通あの流れで刺す? どんな脳みそしてんだよ。ヤバすぎだろ」
「大丈夫だ。俺も昔はパピに同じことをやられた」
「何が大丈夫なんだよ。ああ、クソ、そういえばお前もやばいヤツだったわ」
和久井は光悟に肩を貸してもらい、立ち上がる。
「舞鶴は悪か。だからどういう物差しなんだよ。正義って誰が決めるんだ」
なんだかまた凄くイライラしてきた。
「光悟、お前だって忘れたわけじゃないだろ。舞鶴が助けてくれたからテメェらはヴォイスに勝てたんだぞ!」
「ああ。だが、それと今は別だ。俺は彼女を止める」
「……お前じゃダメだ。お前じゃ早すぎる。あいつは不真面目でノロマだから、ゆっくりじゃないと治らない」
舞鶴の泣き顔を見た時、一つ思い出した。
腹を刺された時、二つ思い出した。光悟が舞鶴に近づこうとした時、和久井は全てを思い出していた。
◆
「やめてマックス! だめよ、わたしには秘密があるの」
「大丈夫だとも! 僕はキミを受け入れる。何も言わなくていい!」
「……ッ、本当に?」
「ああ。神に誓うさ」
そして、二人は抱き合い、愛し合う。
朝を迎えた。ジョディはマックスの腕の中で微笑む。
「マックス、わたし幸せだわ」
「僕もだよ。もしもキミが秘密を打ち明けたくなった時はいつでも聞くから」
「今、言ってもいい?」
「もちろん!」
「わたしね、エイズなの」
「………」
「………」
「「………」」
………。
☆陽「ワオ!」性★
テレレ! テレレ! テレレ! テレレ!
テレレーテッテテッテー(楽しい音楽)♪
「こんなこともあるよー! 人間だからーッ!」
陽キャっぽいおじさんがギターをかき鳴らしてる。
後ろには世界中の子供たちが笑っていた。サムとよしおは、美味しいチョコドーナツを分け合っている。お調子者のピーターは、牛のお乳を直接飲み始めた。
「でも悲しまないで! みんながついてるじゃん!」
世界中の子供たちが手を取り笑い合う。
ありがとう世界平和。サンキュー、ラブアンドピース。
みんなそこにいるから! 悲しまないでよ!
よし決めた。みんなでタオル振り回そう!
「手を伸ばそーよ! 届くから!」
すると上空の飛行機から爆弾が降ってきて、みんなの前に落ちて爆発した。
「「「「あばーっっ!」」」」
爆風に巻き込まれて、子供たちの腕や足やらポーンと飛んだ。
陽キャギターかきならしおじさんも、皮膚が焼け弾けて、死んだ。
ただし長老だけは生き残っていた。これが年の功とやらなのだろうか?
長老は泣いて喜んだが、みんな死んでいるから独りぼっちだった。
転がっていたショットガンを口に突っ込んで引き金をひいた。
脳が飛び散り、長老は死んだ。
みんな死んだ。かわいそうだね!
END。
そこで映画が終わった。
「クソ映画じゃん!」
和久井は一人なのに思わず叫んだ。
ちょっとコンビニまで出かけてくるわみたいなノリで死を選ぶ登場人物たち。気軽にライトなノリで通行人を殺す人々。
これは未来か、洗脳か。衝撃の問題作!
なんてキャッチコピーだったが、意味不明の一言につきる。
事実ネットの評価も散々だった。何を伝えたいのかわからない。
いろいろな人を揶揄している。ブラックユーモアを勘違いしている。差別描写が多すぎて最後まで見ることができなかったなどなど。
まあ尤もだ。クソ映画スレで名前が出ただけはある。
ネット配信サービスの中のひとつだったからよかったものの、金を出して見に行った際にコレをお出しされたら映画館で暴れていただろう。
「………」
さて、今までだったらここで終わっていた。
意味不明な映画は実はそれなりに数があり、これも実はそれほど尖ったアイデンティティがあるとは思えない。
もっと、やばい映画は、それありにあると思ってる。
しかしそこで思う。この作品はDVDも発売されていた筈だ。
そこにマリオンハートを与えて、世界を本物にしたらどうなるんだろう?
そんなことを考える日が増えた。
次の日、神社。
正面右から、ルナ、パピ、光悟、和久井が並んでいた。
お賽銭を入れ終わったパピは学んだ通り、まずは二回礼を行う。
「ぱんぱんっ!」
「パピ、ぱんぱんは口に出さなくてもいいんだ。普通に手を叩けばいい」
「……はー? 知ってましたけどー? え? 冗談とか通じないつまらない人でしたっけー? うわ、キッツ。え? キッツ。あ、キッツ。こいつの隣にいるのキッツ」
「そ、そうか、悪かった。ユーモアのセンスがなくて……」
「キモキモキモキモーイ。あー、萎えるわぁ最低最悪ぅ」
そうして、みんな目を閉じる。
「光悟とずっと一緒にいられますように……!」
「………」
「ラブラブもいっぱいできますように……!」
「………」
「光悟がずっと元気でいられるよ――」
「あの……、パピ、お願いは声に出さなくてもいいんだぞ」
「くぅううぅぅぅぅぅううぅ! はやく言えッッ!!」
「パピ! いけないぞ! 神様の前で暴力を振るおうとするのは! これも知ってるかと思ったんだ!」
「ッッッ! ……ッッ! ~~~ッッッッ!!」
「ほら、ルナを見てみるんだ! 彼女のようにやればいい!」
確かにルナは目を閉じ、沈黙していた。していたが、何か聞こえてくる。
「……ジュルリッ! ジュルッ! ……ニチャァァ! ピチャ! チュルッ!」
「え? きも」
「チッ、失礼な。お兄様と光悟さんが舌を絡ませてほしいという願いのどこが――」
「ンなもん神に頼むな!!」
疲れる。和久井は特大のため息をついた。
時期的にもうすぐ初詣。予行練習がしたいというのでついてきてみればこれだ。
まあパピたちは異世界にいたわけだから、日本の文化に戸惑うのはわかるが、それにしても酷い。
その後、四人は近くの蕎麦屋に入った。
先ほどと同じ並びでカウンターに座ると、ルナは月見そばを音を立てずに食べ始める。
反対にパピは天ぷらそばをズゾゾゾゾゾゾと勢いよく啜っていた。
あれからパピとルナは、コーポ円森の402号室に引っ越してきた。
つまり光悟の部屋の隣である。
『ルナもバカよね、月神と一緒に住めばよかったのに』
などとパピがニヤニヤ嬉しそうに語っていたのは記憶に新しい。
一緒に暮らせるのが嬉しいのだろう。とはいえルナはマリオンハートの研究で頻繁に月神のほうに行っているようで、ここ最近は家を開けることが多かったようだ。
月神といえば、ルナは現在、ルナ・ロウズではなく、『月神ルナ』と名乗っている。
戸籍の面でみると、月神の叔父一家の養子になったようだ。
つまり正確には月神の従妹ということになっているが、オンユアサイドでの関係通り義妹を名乗っているらしい。その状態のほうが興奮するとかなんとか言っていた。
「歴史とかやる意味ある? アタシは未来しか見てないわけ。おっさん共のホトトギス談義なんざ好きにやらせとけばいいじゃん。ねえ、ルナ」
「英語のほうが苦痛だわ。この見た目で一切できないという事実が……」
愚痴を言っている二人を和久井はジッと見た。
やはりどう見ても、普通の人間にしか見えない。
だがその正体はホムンクルス、創生魔法で生み出された存在だ。
「和久井、いけないぞ」
「あ?」
「サラダのトマトを残してる」
「こんなウンコみたいなもん食えるかよ」
「和久井いけないぞ訂正しろ。生産者の方々が作ってくれた野菜だ。フンの味がするわけがない。そもそもウンコの味がする食材はない」
「これだから物を知らないヤツが困るぜ。ウンコから抽出したコーヒーがあってだな」
「だとしてもウンコの味はしないだろう」
「だったら悪魔の照明って知ってるか? ウンコの味がするものがこの世に存在するということを証明するということは――」
「そこ! 食事中になんてこと言うのよ! 死ね!」
「いけないぞパピ、死ぬなんて言葉を簡単に――」
「あああああああああああああああ」
パピは頭を掻きむしっていた。わかる。疲れる。
疲れる。
そう、このところ、精神が疲労している。
マリオンハートを知ってしまった後の生活は、やはりガラリと変わってしまった。
あまり気にしすぎるなとは、月神にも光悟にも言われたことだ。マリオンハートは物質の類ではなく、もはや概念だ。関わりすぎると精神を病む。
事実、このところ和久井は少しおかしくなっていた。
壁にペタペタ貼っていたアニメのポスターを全て剥がして押し入れにしまったのは、どうにもキャラクターたちの視線が気になって落ち着かないからだ。
だって、もしもハートが少しでも入っていたらどうなる?
先日、コーラを入れようと思ってグラスを取ったが、手を滑らせて割ってしまった。
グラスは道具だ。でもマリオンハートが入っていたら生命だ。
割れたら、たぶん、死ぬ。というかもしかしたら既にハートが入っていたかもしれない。
その可能性はある。そしたら命を奪ったことになるのか?
それを伝えると、月神に鼻で笑われた。
「グラスはグラスだ。ハートが入っていたとしても無機物でしかない。近いものでいうと植物に近いかな」
グラスを割ったことは、植物を引っこ抜いたことに近い。
「ましてやキミ、虫を殺したことくらいあるだろ?」
それはそうだ。加えて、マリオンハートの根底は魂にある。
人間にもあるとされているが、それが可視化できないのに対して、マリオンハートは目に見える。
以前、ティクスや柴丸がバラバラにされた際、ハートが排出された光景を見た。
そして今、修復された柴丸にルナから抜いたハートの欠片を入れて増幅させているらしい。もちろんそんなこと、人間の魂では絶対にできない。
「つまり人間の魂とマリオンハートでは同じ魂とあれど、定義が違うんだ」
死の概念も同じだ。
人の死と道具が壊れるということを同一に考えないほうがいいと言われた。
それはなんとなく理解できる。事実マリオンハートもそういうものに憑依するよりは、宿る意味があるものを探して憑依するようだ。
「それにマリオンハートはどこにでもあるわけじゃない」
月神は言うが彼らだって全てを理解しているわけじゃないと常々口にしている。
だから和久井の部屋からは、いつの間にかポスターが消えた。
「……人形、か」
和久井は飾ってある舞鶴のフィギュアを見て、複雑な表情を浮かべた。
フィギュアはいくつかあるが、情熱はなかった。
せいぜい小遣いに余裕があればケースを買おうか検討していたくらいで状態にこだわりはなく、たまたま全部新品だっただけで値段の張るフィギュアであれば中古でもいいくらいだった。他人の精液がついてるかもしれないという最悪のリスクはあるけど、どうせ触れないし、近づかない。
写真は買ったばかりの時に撮るくらいで、あとは眺めるでもなくなんとなく飾っていた。
でも今は違う。ケースに入れないのは、閉じ込めるのが可哀想だからだ。
掃除も頻繁にするし、パンツは絶対に覗かない。それはやはりあの戦いで舞鶴が動いて喋っているのを見てしまったからだろう。
複雑だった。もうマリオンハートはないのだから動くことはないのにどうしても期待してしまう。でも、だからといって動かれたら動かれたで困る。
今まで舞鶴のフィギュアの前で、とても口にはできないような最悪の姿を晒してきた。
あんなものを好きな人の前でやっていたかと思うと、それだけで死にたくなってくる。
だから舞鶴が動いてもらっては困るのだ。
「………」
その日、和久井は押し入れを掃除していた。
マリオンハートを知ってから、どうにも物が捨てられなくなっていたのだが、このままでは生きていくのに疲労して仕方ないため、踏ん切りをつけるためだ。
いるもの。いらないもの。二つの袋を用意して、物をポンポン入れていく。
(ん? なんだこれ?)
奥から何かが出てきた。カセットテープだ。
書いてある字を見て察する。どうやら和久井の父親がCDから曲を入れて編集したらしい。
内容はどれもこれも和久井の母が好きなアーティストの曲だった。
ははあ、そういうことか。和久井はテープを、いらないものの袋に放り投げる。
(お気に入りの曲で好感度稼ぎか? 浅い考えだ。だっせぇ男だぜ)
昔はそれが普通だったのだろう。似たような話をバラエティーで聞いたことがある。
さすがに当時の感性にケチをつけるほど野暮な男ではない。今はもうCDプレイヤーも持ってないし、純粋に要らないだろうから捨てたのだ。
それより理解できないのは、あの口うるさいババアのどこに惹かれたか? まったく、おぞましい話である。
「………」
和久井はなんだか、とても、とても、複雑だった。
舞鶴が好きだ。メロメロだ。
でも、愛してない。
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