Dimension 12



 ヴィセが地面に鞄を置いた。深呼吸の後、腕と顔がドラゴン化でみるみるうちに変わっていく。破れた防護服の右腕からは、赤黒い鱗が覗いている。ヴィセの雰囲気が変わったせいか、霧の化け物は数メルテ下がり距離を取った。


 ドラゴン化で威嚇する作戦は成功のようだ。


「ヴィセ……」


「今のうちにリボルバーを!」


「あ、うん!」


 バロンが慌てて鞄を拾い、中に入っているリボルバーを掴んだ。


「あった!」


 バロンは焦りながらも丁寧に取り出し、ヴィセに渡そうと腕を伸ばす。懐中電灯は地面を転がってやや遠くで光っており、濃い霧と夕暮れのせいで視界が悪い。ヴィセはバロンから受け取ろうと、一瞬化け物から目を逸らした。


「あああヴィセ!」


「はっ!」


 ヴィセの注意が逸れた瞬間を、霧の化け物は見逃さなかった。バロンの視線のすぐ先で霧の化け物が飛び上がり、前足の鋭い爪を振り上げる。黒い前足から発生する黒い霧が、まるで残像のようだ。


 その鋭い爪は、やはりヴィセではなくバロンを狙っていた。


「こいつ……!」


 威嚇も続けていなければ効果がない。ヴィセは再びバロンを庇って体を捻る。リボルバーの装填と発砲が一瞬間に合わず、ヴィセは左肩を大きく切り裂かれた。


「くっ……!」


 ヴィセの左肩に真っ赤な染みが広がっていく。その濡れ方からして傷は深い。霧の化け物は怯んだヴィセの懐に潜り込み、今度は喉を噛みちぎろうと飛び上がった。


「あああぁぁァァ!」


 辛うじて右に避けた事で、喉を噛みちぎられる事は防げた。だが霧の化け物が先程切り裂いた肩へと噛みつく形になってしまい、ヴィセは痛みのあまり叫び声を上げる。


「ヴィセ! あぁぁんヴィセぇ! 血が出てるぅぅ……ごめんなさいぃぃ!」


「くっ……そっ!」


 乾いた発砲音が湿った霧の中に響き渡る。ヴィセがリボルバーを右手に持ち、霧の化け物の腹を撃ち抜いたのだ。


 霧の化け物は犬のように甲高く鳴き声を上げ、その場でのたうち回る。その目にはまだ闘志が感じられ、ヴィセは崩れ落ちそうになりながらもう1発を頭に打ち込んだ。


 薬莢が飛び、石畳の上で涼し気に音色を奏でる。霧の化け物は息絶え、周囲にはドス黒い血だまりが広がった。


「ハァ、ハァ……」


「うわぁぁぁんヴィセぇぇ!」


「ははっ、何でバロンが、泣くんだよ。バロンのせいじゃない、武器を手に持ってなかったのがまずかっただけ」


 この場に長居は無用だ。ヴィセの血は防護服の指先から滴り落ち、止まる気配がない。


 かつて銃で撃たれた時、足の怪我はその場ですぐに治った。今回は霧のせいか、霧の化け物の力のせいか、それとも傷が深すぎるせいか、まだ治癒の兆しもない。


「くっ……バロン悪い、俺の鞄、持ってくれないか」


「あぁぁぁん持つぅぅ……持つから死なないでぇぇ!」


「死なねえって。いっ……てえ」


 右腕は骨が見える程深く噛まれ、左肩は心臓が移動したのではないかと思う程にどくどくと痛みを生み出す。


 バロンを前に歩かせながらなんとか扉の前まで歩いたが、ヴィセはとうとう痛みと失血で失神してしまった。


「ヴィセ、え、え、ヴィセ? ヴィセぇぇぇ!」


 ヴィセがうつ伏せに倒れ、バロンが慌てて駆け寄る。ドラゴンの治癒力では間に合わない程負傷してしまったようだ。バロンは半狂乱になってヴィセの名前を呼び、なんとか扉の前まで引きずろうとする。


 力を失った体というものは思っている以上に重く、幾分力が強いバロンであっても抱える事が出来ない。


「あああぁぁぁあああぁぁぁぁん! ヴィセが死ぬぅぅぅぇぇええええん!」


 ヴィセはうめき声ひとつ上げない。本当なら、最初に噛まれた時点でのたうち回っていてもおかしくなかった。ギリギリまでバロンを守ろうと耐えていたようだ。


 バロンは大声で泣きながら、懸命に扉の前までヴィセを引きずった。残念ながらバロンには、まだ蘇生法や生死を確認する知恵はない。生きているのか死んでしまったのか分からないヴィセを、とにかく安全な所に連れて行ってやりたい。その一心だった。


「ふっ、ふえぇっ、ふっ、ふっ……ふええぇぇ……開かない、開かない……!」


 だが、パニックになったバロンは扉を開ける事が出来ずにいた。鍵は掛かっていないのだが、ドアノブを右に回さず、左に回そうとしている。おまけに扉は押すのではなく、引かなければならない。


 回らない銀色のノブ、ピクリとも動かない鋼鉄の扉。


 その先に入ればこの危機から脱出できるのに、出来ないという焦り。


 霧の中でたった1人、それもまたいつ霧の化け物が襲って来るか分からない状況だ。こんな状況で子供が冷静でいられるだろうか。


「ヴィセ助けて、ヴィセを助けて、誰か、ヴィセが……」


 それでも、バロンはなんとかヴィセを助けたい一心だった。何を思ったかいったんドアノブから手を放し、タオルを取り出す。そのままヴィセの腕を縛り、ヴィセを壁にもたれかかるようにして座らせた。


「血、血を止めなきゃ、ヴィセ、起きて、起きてよ……!」


 巻いたタオルに少しずつ赤い染みが広がっていく。だが幸いにも噴き出すような状況ではなくなった。少し安心したのか、バロンは嗚咽交じりで再度ドアノブに手を掛ける。


「回らない……回らない……!」


 ようやく右左にガチャガチャと回し始め、押した反動で少し扉が外側に開いた。これで助かる。


 安堵でまた泣き始めたものの、今度はきちんとドアノブを右に回し、扉が外側に開き始める。クローザーが付いていて勝手に閉まる仕様だと気付き、バロンは鞄を間に挟もうとした。


 ふと、その背後に複数の息遣いが聞こえる。


「へ……へっ?」


 恐ろしさのあまり、バロンの尻尾の毛は3倍ほどに膨れ上がった。ゆっくりと振り返ると、そこには3頭の霧の化け物がいた。


「あああぁぁぁ! 来るな、来るなぁぁ!」


 死後数日が経った人の亡骸より、新鮮な方がいいのだろう。ヴィセの血の匂いに誘われ、町にいた化け物が集まって来たのだ。


 3頭はジリジリと近づき、狩りを楽しむようにバロンの様子を伺っている。ドラゴンの血を霧の化け物が取り入れたならどうなってしまうのか。バロンにはそれを考える余裕もない。


「来るな、来るなってばぁぁ!」


 ヴィセが手放したリボルバーを手に持ち、バロンは震える手で引き金を引く。ヴィセを食わせまいと前に立ちはだかり、膝も手も唇も振るわせたまま、目だけは霧の化け物を見据えている。


 1発、乾いた発砲音が鳴り響いた。残念ながらこんな姿勢では的に当たるはずもない。銃弾は化け物1頭のすぐ目の前の石畳を抉る。


「どうしよう、どうしよう……」


 怒りよりも恐怖が上回り、ドラゴン化などとても出来そうにない。もう1発を撃たなければとリボルバーを再度構えた時、とうとう1頭が咆哮を轟かせ、バロンめがけて駆けだした。


「うわあああぁぁぁ! 助けてぇぇ! 死ぬの嫌だぁぁぁ!」


 思わず塞ぎ込みながら、バロンの手が引き金を引いた。当然銃口はあらぬ方向をむいており、化け物には当たっていない。しかし、威嚇するには十分だったのか、数秒経っても痛みは襲ってこない。


 何故なのかと恐る恐る顔を上げた時、その視界は遮られていた。と同時に重たい着地音と揺れが発生し、化け物が1体その何かに押し潰される。


 ≪急いでみるものだな。我が仲間への仕打ち、後悔させようぞ≫


「ラ……ラヴァニ! うぇぇぇ怖かったぁぁ!」


 ≪我が戻ったからにはもう安心だ≫


 いたのは仲間を呼びに行ったはずのラヴァニだった。


 ドラゴンが現れ、霧の化け物は尻尾を巻いて逃げようとする。ラヴァニはまず1体に炎を浴びせ、もう一体へ翼による殴打を喰らわせる。


 霧の化け物はあっと言う間に息絶え、バロンはその場にへたり込んだ。


 ≪ヴィセは傷ついてしまったか≫


「う、うん……ど、どうしよう、死んじゃったかも」


 ≪ふむ……バロン。少し痛いだろうが、そなたの血をヴィセの傷口に≫

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