Dimension 02


 目の前では軽症の者から順に霧毒症が治っていく。ある者はすくっと立ち上がり、ある者は大きく深呼吸をする。


 一度失われた肺の機能は完全には戻らない。けれど、霧毒症の影響だけに限って言えば、数年~10年程度の長い期間リハビリやトレーニングをする事で、ある程度の回復は出来るだろう。


「苦しくない! 空気を吸っても咽ない……」


「本当に、治った? 完全にとは言わないけど、肺から上がって来るあの腐った臭いがなくなったわ!」


「ああ、お母さんが酸素マスクなしで呼吸してる! ドラゴン様、なんとお礼を言っていいか……」


 霧毒症が完治し、元患者達が諸手を上げて喜びラヴァニへ深々と頭を下げる。バロンはラヴァニは俺の友達だと言って、自慢げに笑っている。ドラゴンと共存できると信じた者は皆、ドラゴンによって救われた。


 その裏には心優しい青年と少年の存在があるのだが、今回の手柄はラヴァニのものと言っていいだろう。


「今更ながら、やっぱりあたしは間違ってなかったんだ。信じて突き進む中で、あたしは色々な物を失った。失くした事を今でも悔やんでいたりもする。だけど、間違ってなかった」


「ドラゴンはこれからも人から嫌われようと、憎まれようと、この世界のためなら人にとっての悪役に徹するでしょう。でも、悪そのものではないんです」


「ええ、その違いはちゃんと分かってる。あなた達のような真っ直ぐな子達が一緒にいるんだから」


 一番症状の重かった老婆がゆっくりと深呼吸をし、感謝の涙を流しながら手を伸ばす。夫がその車椅子を押し、ラヴァニの目の前へと進む。


 老婆の柔らかい手のひらが、ラヴァニの腹の鱗を優しく撫でた。


「ドラゴン様、有難う、ございます。アタシらはいつまで生きておられるか、分かりません。でも恩返しは、せにゃならんのです。老い先短いアタシらは、何をすれば……ええのでしょう」


 老婆は涙を拭いもせず、しっかりとラヴァニを見上げていた。厚手の灰色のワンピースに、ピンクの可愛らしい花柄のスカーフを巻き、歩けなくなった足に力を入れようとしている。


 ≪我らドラゴンのためにも、空気や水や大地を穢さず達者で生きろ。我らが守りたいものを守ってくれ。我らの体は時に繊細な守りに向かぬ≫


「えっと、えーっと、何? おばーちゃん何て言ったの? せにゃるのらんです? ラヴァニの言葉も難しい! 分かんない!」


 ≪……この世界を汚さず、大切にしろと伝えてくれ≫


「分かった! えっとね、ラヴァニがね、この世界を大事にしてって、汚すのやめてって言ってる!」


「そうですか。あなたドラゴン様の言葉が分かるのねえ。分かり合えるって、素敵な事ですねえ」


 老婆は顔の皺をいっそう深く刻み、バロンにも微笑みかける。それからうしろでお団子のように束ねた白髪から大きなヘアピンを1つ外し、そっとバロンの前髪をぱちんと留めた。真っ赤なピンがバロンの右の眉の上で日の光を反射する。


「お顔はね、おでこを出した方が運気が上がるのよ。そのヘアピンはアタシのお守り。次はあなたを守ってくれる」


「もらっていいの?」


「ええ。ごめんなさいねえ、ボクの欲しがるようなもんは持ってなくて」


「ううん、有難う! ヴィセー! 髪ぱちんってするやつもらったー!」


 バロンがぴょんぴょんと飛び跳ねながらヴィセの許へ駆けていく。老婆は夫と共にもう一度お辞儀をし、ゆっくりと下がっていった。


「あの……俺達は」


「あたしは助けないわ」


 ディットの考えに賛同しなかった者が、顔色を窺うように声を掛けた。ディットは目も合わせず、当然のように撥ね退けた。


「そ、そんな! 俺達だってあの力を見せられて信じた! 協力も惜しまない!」


「ドラゴンが救ってもいいと思えるような事を、何かしてみせたらどうかしら。あたしのやり方、この子達のやり方で助けるのはもう終わり。自分でどうにかしなさい」


「な、なんだと……!」


「あたしにあなたを助ける義務はない。あなたはあたしが助けましょうと言った時に断った。あたしには力を貸さないと言った。そこで終わりよ」


 男が悔しそうにディットを睨み、今度はヴィセにすがろうとする。


「なあ、助けてくれよ、俺達はドラゴンが怖かっただけなんだ」


「……ラヴァニだって、人が銃や爆弾で攻撃してくるんじゃないかと恐れていました。それでも信じて付いて来てくれたんです」


「い、今は信じている、攻撃もしない、この通りだ!」


「俺はその言葉を信じていません」


 ヴィセにも断られ、男はヴィセとディットの足元に唾を吐きかけた。他の者も助けてもらえないと悟ったのだろう。詰め寄る者はいなかった。


「さーて! 皆さんこれで終わりじゃないですからね!」


 気持ちを切り替えたディットの声が風に乗る。喜びに浸っていた者達が一斉にディットの声に耳を傾ける。


「あたしを信用してくれて、有難う。今度はあたし達がドラゴンの力になる番。そう思わない?」


「あ、ああ。だけど俺達は何をすれば……」


「簡単な事。この世界を綺麗に、大事にして生きるの。工場排水をちゃんと浄化する、廃棄物を霧の中に捨てない、工場の煙突から出る煙を減らす! ドラゴンが住める環境を用意する!」


 ディットはドラゴンが今まで消し去ろうとして来たものを、自分達で消していくべきだと訴える。ドラゴンは破壊しか出来ないが、人は破壊せずに別の方法を試すことが出来る。


「あたしは研究の中で、自然界に存在せず人工的に作られた化合物が霧に強く反応する事を突き止めた。だーれも聞いてくれなかったけどね!」


 今、この場でディットの言葉を聞かない者はいない。ディットが何を知っているのか、皆はそれを知りたがっている。この広い世界において、本気で霧の研究をしている者は思う以上に少ないのだ。


「この霧の生成方法までは分からない。だけど、あたしは霧の成分のいくつかを発見した。1つは塩化水素。2つ目は硫化水素。大地には硫化カルシウム。恐らく霧の発生以前の生成方法が原因ね」


「ディットさん、それは一体何ですか?」


 ヴィセをはじめ、多くの者は化合物と言われても何の事か分からない。ディットは化学者としてでなく、もっと平易な表現に改めた。


「あたしの推測だけど、霧は強アルカリでドラゴンを溶かすため。でもその生成方法がまずかった。端的に言えば、ドラゴンを溶かすつもりの薬が蒸発して、他の毒が生まれ、それが更に空気と反応して別の毒に」


「そ、そんな毒物を吸い込んで、生きていられるんだろうか」


「不幸中の幸いで広範囲が覆われ濃度自体はうんど下がった。だけど、石灰岩や自然界にある水、自然火災で燃えた木々の灰、あらゆるものが今も反応を起こしてるの。霧の特定が出来ないのはそのせい」


 ディットはそれを加速させる化学工場や、規制のない排水を止めるべきだと訴える。皆も環境を守る事については賛成だった。ただ、急に工場を止めることは出来ない。


「徐々に、徐々にでもいいの。あたしの研究のように少しずつ。ドラゴンの力も借りて……」


「ドラゴンが立ち寄れる、休憩できる場所を整備しましょうよ!」


「ドラゴンが益獣なら、いっそ呼び込んでもいい」


「ドラゴンと共に生きる町があれば、他の町や村に伝わりやすいわね!」


 ぽつぽつと案が出始め、皆がその度に頷く。これだけ大勢の者がドラゴンとの共存や自然保護を訴えたなら、失脚を恐れる町長も動くだろう。


 そう思われた。


「ど、ドラゴンを呼びやがった! この女!」


 その場に大きな怒鳴り声が響いた。


 ディットが振り向くと、そこには町長をはじめとした役場の者、それに100名程の町民が立っている。役場の者は警備隊を従え、防護服や出動服で身を包んで銃を構えていた。


「町の人たちを生贄にするつもりか!」


「……生贄?」


「ああ、ドラゴンを無害だと信じ込ませ、皆を餌にするつもりだろう!」

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