Zinnia 12


 男の深呼吸に合わせ、ラヴァニが息を吹きかける。それは10分以上続いただろうか。ラヴァニが男から離れ、ヴィセの膝に乗った。


 ≪もう吐く息に霧は含まれておらぬ。ひとまず霧毒の除去は終わった≫


「そうか、有難う。終わったそうです。霧の毒は全て浄化されました。落ちた肺の機能を元に戻す訳ではありませんが、もう進行する事はありません」


「本当ですか! 父さん、どうかしら。呼吸は楽になってる?」


「……ああ、肺からこみ上げてくるような独特の臭いがない。少し……深く息を吸い込めるようになった」


 男がゆっくりと体を起こし、少し胸を張る。今までは前かがみになっていないと辛かったというが、心なしか顔色も良い。


「有難うございます。酸素マスクなしでも歩ける気がしてきました」


「霧の毒は呼吸によって血液中にも取り込まれてしまうからね。肺が修復された訳じゃないから運動まではオススメしないけど、脱力感は減るはずよ」


 車椅子での生活が長く、男の足には力が入らない。それでも訓練によって近いうちに歩けるようにもなるだろう。女性はニッコリと笑う父親を見て、治療の成果を確信した。


「ああ、有難うございます! 博士を信じて良かった……」


「ねえねえ、ラヴァニにも有難うって言って? ラヴァニも頑張ったよ」


 バロンが女性のスカートの裾を引っ張る。女性は父親を車椅子に乗せ、ゆっくりとラヴァニへ歩み寄った。しゃがんで目線を合わせ、感謝をハッキリと言葉にする。


「有難うございます、ドラゴン様。父を救って下さって、本当に……」


 ≪この世界を元に戻すには、人の協力が不可欠だ。そなたの親の治癒を試みた事がそれに繋がるなら、これくらい大したことはない≫


「えっとね、ちゃんと空気とか、綺麗にするのを手伝って欲しいって言ってるよ」


「空気?」


「ああ、霧のない世界を取り戻すためには人の協力が必要だって、そのために敵ではない事を証明したかったんです」


 女性は父親を助けられた。都合よくもドラゴンを怖い、嫌いとは言えなくなった。無償で助けられた訳ではない事を悟ったようだ。


「ドラゴンに治してもらった事、言って回ればいいのでしょうか」


「ええ。あたしの家に今更来れる程の度胸が他の患者にあるか、分かんないけどね。ドラゴンはこの世界の破壊を止めさせたいだけ。破壊しない者には優しいの」


「……私もドラゴンの事は怖い、悪いと思ってきました。私が言いまわったところで、どこまで受け入れてくれるか分かりません、でも父の回復を見れば、きっと」


 女性は立ち上がり、今度は博士へと頭を下げた。


「ドラゴンの研究の事、改めて支持します。あなたが研究をやめていたら、私と父は失意のまま暮らしていたと思います。それで、お代は……」


 女性は博士とラヴァニへ交互に視線を向ける。慌てて駆け込んできたものの、手持ちに余裕はなさそうだ。


「お代はこの子に。幾らとは決めていないけど」


「えっ? あー……そう、ですね」


 命を救われた事に見合う金額となれば、相当な額を覚悟する事になる。女性は心配そうに俯き、幾らと言われても払う気でいた。


「……あ、そうだ。ホテルでラヴァニの宿泊費もきっちり1人分取られたんです。その額を負担して頂けると助かります」


「えっ?」


「1人8,500イエンなので、同額をお願いしてもいいですか。いいよな、ラヴァニも自分の宿泊費を自分で稼ぐって事で」


 ≪ふむ、悪くない≫


「そんな……それだけでいいんですか?」


 霧毒症は、現在どこの誰にお願いをしても治せない。何十万イエンだろうか、そう覚悟していた女性は拍子抜けしていた。


「お金の負担が大きくなったら、元も子もありませんし」


「みんなが恐れていた通り、あたしがドラゴンの研究をする事によって、実際にドラゴンは来たわ。こんなにも友好的で、優しいドラゴンさんがね」


 博士は「さて、忙しくなる」と言って親子に帰宅を促す。親子がリビングを出ようとした時、再び玄関のチャイムが鳴った。


「研究道具をあたしが全部捨てる前にって事ね。駆け込みの患者がまた来たわ」


 応対の代わりに親子が扉を開け、わざとらしい程の笑顔で出ていく。


「おかげで霧毒が完治したの! やっぱり博士を信じて良かったわ」


 本当にわざとらしい。だが清々しい表情で帰っていく親子を見て、訪ねてきた中年の男は焦っていた。スラックスに革靴、それに白いワイシャツ姿。職場を抜けてきたのだろう。


「博士! 頼む、息子から聞いたんだが研究を止めるそうじゃないか! その前にどうかわたしにも治療を!」


 男性の背後では、親子が何事かと見守る近隣住民に「父の霧毒症が治ったの!」と嬉しそうに伝えている。その声を聞き、1人、2人と駆け足で家に向かっていく。


「あたしの研究を支持して、継続を訴えてくれる。そう捉えていいのかしら」


「あ、ああ、治してもらえるなら勿論だ!」


「……ハア。まったく、みんなほんと都合がいいんだから」


 研究を止めろと迫ってきた群衆の中には、本当に止めてしまうのかと心配で様子を見に来た者も相当数いたらしい。ドラゴンの研究は疎まれながら、一方で霧毒症の患者からは期待されていた。


 男性を招き入れようとし、ふと見ればその後ろに1人、また1人と車椅子を押す人物が現れる。家から大慌てで家族を連れてきたのだろう。


「ヴィセくん! 悪いけどしばらく時間いいかな! ラヴァニさんもバロンくんも手伝って欲しいの! 2,3日は忙しくなりそうよ」


「はい!」


「バロンくん、来た人を並ばせて! 順番に受け付けて欲しいの!」


「分かったー! 俺できる!」


 ディットの家の前は、いつしか大行列が出来ていた。最後尾の者の順番はいつ回って来るのか。このままでは夜になってしまいそうだ。


「ジニア、見てよこの手の平返し。笑っちゃうよね。あなたを思う30年が執念で実を結んだ。あなたの死、あたしは無駄にしないで済んだ。まさかドラゴンが手を貸してくれるとはね」


 1人の治療に10分、ドラゴンが治療に当たると説明し、ドラゴン研究への支持を取り付ける。そこまですれば、1人に30分弱は掛かるだろう。


「……封印の力で小さいって、言ったわね。だとすると、元の大きさに戻れば……一気にみんなを治療できる?」


 ディットは治療開始前に考え込み、そして厚かましくも治療に訪れた面々に呼びかけた。


「みんな! いったん役所前の広場に向かって! この数を1人1人診てられないわ! そこで治療をするから!」


 ヴィセ達にも事情を話し、ディットは回診用のバッグを手に持つ。


「役所って、でもさっき町長さんが来たばかりですよね。邪魔されそうな気がしますけど」


「命の危機にある患者の前で、治療を止めろなんて言えると思う? まあ、あたしに医師の資格はないけど、ドラゴンが息を吹きかけるのに資格なんていらない」


「ラヴァニを銃で狙ったり、しませんよね」


「大丈夫。人にとって本当に頼もしく、同時に恐れているもの、何だと思う?」


 ディットは元々強気な性格だが、今は町長と対峙した時よりも自信に満ちている。ディットはそれを手に入れたようだ。


「何、でしょうか。ドラゴンかな」


「そんなに限定的じゃないの。答えは支持者よ。どんな正しい事も間違った事も、支持してくれる人がいないと力を持てない。町長は邪魔をすれば患者全員分の支持を失う事になる。そして、あたしにはこれだけの支持者が出来た」


 ディットは嬉しそうに歩く。その後ろには大勢が続いている。


「ヴィセくんとラヴァニさん、それにバロンくん。あたしがあなた達の支持者になる。その後ろにはこれだけの人数がいる。あたしからの成功報酬、これでどうかしら」

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