Contrail 09
ラヴァニは皮膚を少し切られるのだろうと覚悟し、テーブルの上で寝そべる。
だがエゴールはナイフではなく新品の注射器を取り出し、ラヴァニの血を抜き取った。チクッしたのが予想外だったのか、ラヴァニが振り向くももう遅い。エゴールはラヴァニの血を試験管に入れ、次に新しい注射器でエゴール自身の腕から血を抜き取る。
「昔は医者や看護師じゃないと注射器を扱ってはいけなかった。霧の発生の後、そんな法律やルールは忘れられてしまったけどね」
バロンもヴィセも注射器を見るのは初めてだ。腕に針を刺すと知ってヴィセは顔が強張り、バロンは震えている。まずはヴィセの番だ。
「大丈夫だよ、オレが先にやったじゃないか」
「は、針……ああ待った! 待って下さい、あ、ああちょっと!」
ヴィセは薄目を開けて注射針を見ていた。心の準備が出来ていないと言い、エゴールに待つよう訴える。
「動いたら血管が大きく傷付くぞ。お、太い血管が見えやすくていいな……はい、深呼吸」
エゴールは言うと同時に注射針を刺し、血を注射器の中に貯めていく。
「うん、大丈夫だ。でもちょっと血が赤いね」
「えっ!?」
「ははは、冗談だよ。血は赤いものだよ」
エゴールが和ませようと努め、ヴィセの採血はなんとか終わった。問題はバロンだ。
「バロン」
「やだ、怖い! 痛そう!」
≪特に痛くはなかった。予想外の事で驚きはしたが、切られるよりも楽だったぞ≫
「んー!」
協力しなければならない事は分かっている。それでもバロンは怖さのあまり泣きそうだ。ヴィセとラヴァニに宥められつつ、バロンはエゴールに袖を捲る事を許した。
銀色の細長い針がバロンの肌に触れる。だが子供の血管は細く、エゴールも医者ではないため腕に自信がない。どこに刺そうかと悩む事で、バロンの恐怖はどんどん煽られる。
「ふううぇ……あぁーん怖いぃ」
「大丈夫だ、俺もやった。目を瞑って、針を見るな」
「うん……ねえ針は? もう終わった?」
「まだだよ」
バロンはぎゅっと目を瞑り、腕にも力が入ってしまう。針が刺さった瞬間には「ぎゃっ!」と大声を上げる。血を抜かれている間はヴィセへと顔を向け、ボロボロと泣いていた。
「はい終わり! よく頑張ったね」
「あぁぁーん! 俺、うぇぇ頑張ったぁぁ」
「ああ、ちゃんと耐えられたな。痛かったか?」
「うぇぇ……全然痛くなぁい……ううう……」
どう見ても全く我慢できていない。けれどバロンは必死に耐えたつもりだ。ヴィセによく頑張ったと言われ、ヴィセに抱っこされるような形で服に涙を吸わせると、ようやく落ち着いた。
「この血を使って、オレはその作用を色々と調べてみるよ。ドラゴンの血の成分を調べたり、そのために色々と医学本も漁った。でも人の血と混ぜた事はないんだ」
「これで何か進展があるといいんですけど」
「うん。なかなかお願いしにくいけど、ドラゴンの血を飲んでいない人の血も採らせて貰えたらもっと違いが分かるかもしれない」
諦めていたはずのエゴールは、希望を見出していた。何もかもやり尽くしたはずだったが、まだ試していない事があった。それに、今日初めて分かった事もあった。
人である事にしがみ付けば、完全にドラゴンとなってしまう事はないのかもしれない。
「もうイエート山に行くかい」
「そうですね……ここで研究の結果を待つより、ラヴァニを仲間と会わせてあげたいです」
「うん、それがいい。オレも勉強しながらだから時間も掛かる。君達は各地を移動するだろうから連絡を取る手段がない。だから時々は寄ってくれ」
「はい」
バロンはニッと笑い、その時までに字を覚え、手紙を書くと宣言する。ヴィセ達は荷物をまとめ、コートなどを着込んだ。春になったといってもイエート山は所々雪に覆われている。
「……ドラゴンってさ、爬虫類と違って寒さに強いよな」
≪高い空は寒いのだ。それくらい耐えられなくては生きていけぬ≫
「ドラゴンになると、体内の熱を感じるんだ。体の表面は寒くても体の中は温かい。まあ、寒いよりは暖かい方がいいけどね」
エゴールがヴィセの素朴な疑問に答える。ドラゴン自身はそういうものだと思っていため、ラヴァニだと逆に人の感覚が分からないのだ。
「ヴィセ君、鞍を貸してあげよう。ラヴァニさんも鞍2つくらい平気なはずだ」
≪ああ、問題ない。ヴィセがバロンを抱えたままの姿勢では、我も無茶が出来ぬ≫
「いや、無茶はしないで欲しいんだけど。エゴールさん、何から何まで有難うございます」
「うん。君のおかげでオレもまたジェニスに会えた。そしてもう一度希望を持とうと思えた。俺はドラゴンの血を上手く使いながら、人として生きる道を探そう」
エゴールのドラゴン化してしまった手が差し出される。ヴィセは力強く握り返し、バロンはエゴールとハグをした。
「……君達と一緒に過ごせたことで、オレは久しぶりに人として振舞えた。フードを取って誰かと話せるなんて何十年ぶりだろう」
「俺達また来るよ、泣かないで」
バロンが心配そうにエゴールを見上げる。気付けばエゴールの目からは涙が一筋流れていた。顔の半分以上がドラゴンの鱗で覆われてもなお、人としての扱いを受けられた実感にホッとしたのだ。
「済まないね。はははっ、感情ってものは歳を取ってもなくなるものじゃないんだなあ。オレはどうせ孤独なんだ、喜怒哀楽なんてもうなくなったと思っていたよ」
「なくなっていたら、俺達を助けてくれたりしなかった。そうでしょう」
ヴィセの言葉にハッとし、エゴールは嬉しそうに頷いた。
「感情って備わっているものだから。人であろうと意識しなくても、エゴールさんは優しくて頼りになる俺達の恩人です」
「そうか、そうだね。人でなくなることが怖かったんだ、本当は。だけど、人じゃなくなる事なんて、ないんだよな」
エゴールはバロンの頭を撫でて立ち上がり、鞍を抱えて外に出た。木漏れ日の中を歩いて広い場所に出た後、バロンが封印のスイッチを切る。ラヴァニが元の大きさに戻り、エゴールが鞍の用意を始める。
「少し時間が掛かるから、食べ物や水を調達してくるといい。オレはラヴァニさんと少しだけ話がしたいんだ」
「分かりました、買って来ます! バロン、行こう」
ヴィセとバロンが小走りで森の道へと消えていく。それを見送りながら、エゴールは笑顔をやめ、真剣な面持ちでラヴァニへ話しかける。
「ユースの事を、少し伝えておこうと思ったんだ」
≪我が友の事か≫
「ああ。オレはユースも元は人だったんじゃないかって、そう言ったね」
ラヴァニもユースの事をもっと知りたいと考えていた。エゴールが出会ってからどんなやり取りがあったのか、それにも興味があった。
≪本当に人だったのか≫
「いや、そうじゃないんだ。これは……ヴィセくん達に聞かれたくなかった」
エゴールは内緒にしていてくれと念押ししてから、ユースの思いを伝えた。話す必要などない。ラヴァニは意図に気付き、エゴールの記憶を探る。
≪これは……≫
それはユースの体についての事だった。
緑色の霧の中、エゴールが手に大きな注射器を持っている。エゴールはユースに頷いて、体に何かの注射を打つ。霧の中ではあるものの、その色もはっきり見えている。
≪血を……打っているのか≫
「ああ。ユースはね、人になりたかったんだ」
≪我が友が、人になりたかった……だと?≫
「人がドラゴンの血を取り入れたなら、ゆっくりドラゴン化してしまう。ユースはその逆の可能性を考えた。人の血を打てば、人化出来るんじゃないかと考えていたんだ」
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