Journey 09(015)
1時間、2時間と過ぎていく中、外では時折ガスマスクを着けて活動する者の足音が聞こえる。ラジオの情報では町全体が霧に覆われていて、そろそろ実況を中断しなければならないという。
「こんな時に外を歩いている人がいるみたいだ」
「ああ。しっかり服を着込んで肌を隠し、霧を吸い込みさえしなければ、少しは外に出られる。知人や家族の安否を尋ねるため、こうして移動する奴もいる。今のうちに動かねえと化け物が上がって来るからな」
「なるほど。それじゃあ……」
ヴィセが言葉を続けようとした時、しばらく止んでいたサイレンが再び鳴り始めた。それに続き、ラジオと外の防災無線から緊急放送が流れる。
「町の北西、12番通り33号地の居住棟より、火災発生! 付近の住民は肌を隠し、ガスマスクを着用したうえで避難を始めて下さい!」
「こんな時に火災だって? どうやって火を消す……マスター?」
ヴィセがふと会話のためマスターに顔を向ける。だが、その顔は青ざめ、とても会話できるようには見えなかった。
マスターは驚きで目を見開き、両手で頭の毛を掻き上げるようにして静止し、ふと一言呟く。
「33号地は、隣の、隣の集合住宅だ……」
「なんだって? まさか、この隣!?」
「いや違う! 俺の住んでいる集合住宅の棟の隣だ! 俺の家は12番通り32号地にある、家族が今家に……」
マスターは慌てて立ち上がり、カウンターの奥から灰色の外套を抱えて戻って来る。ゴム製の手袋と長靴を身に着けると、ヴィセに鍵を預ける。
「俺は家に戻る! 子供はまだ7歳と4歳、女房は朝具合が悪くて寝ていたんだ」
そう言ってから、マスターはカウンターの中にある柱を見つめた。そこにあるはずのものがない。
「そうだ、ガスマスクをさっき貸したんだった」
「あれ1つしかないのか」
「ああ。クソッ!」
マスターは壁掛けの電話を掛け始めた。しばらくして繋がったのか、マスターは電話に出た相手へと焦りを隠さずに状況を尋ねる。
「大変だ……女房は買い物に行って商店で足止め、ガスマスクを持って出ていない。今家にいるのは俺の子だけだ」
ヴィセは焦りでフロアを行ったり来たりするマスターに、鞄から1つの包みを取り出して渡した。
「俺のガスマスクを使ってくれ。昨日買ったばかりの新品だ」
「い、いいのか?」
「また買うよ。でもこれがなくちゃ動けないし、俺は残らせてもらってもいいかな。ああ、安心して下さい、物取りはしない。少しばかり水や食べ物があると嬉しいけど」
「ああ、何でも好きなようにしてくれ! すまねえ、恩に着る! それと、店を頼んだ」
マスターが裏口から出て階段を駆け上がっていく。建物内に霧が入らないよう、屋上から外の非常階段で降りていくのだろう。
ヴィセは裏口に鍵を掛け、そして誰もいなくなったフロアの椅子に座る。
「ラヴァニ、出てきていいぞ。窮屈だったよな」
≪大したことはない。それより、そなたはガスマスクとやらを渡して大丈夫なのか≫
「外に出なければいいんだ。何日も何か月も続くってんなら困るけど、店員の女の人が夕方にはまた出てくるって言ってたくらいだから、普段はその程度なんだろうね」
≪このような時、他の同族と話が出来ぬのは困る。霧の中でどうすべきなのか、我には分からぬのだ≫
「霧を食うって、俺達の間ではそう伝えられている。ああでも本当かどうか、確かめなくていいぜ。話が間違ってたらラヴァニが死んじまう」
いつしかラジオの緊急放送は終わっていた。無音の映像機が飛行艇から霧に覆われた町を映すだけで、店内は静まり返っている。サイレンは数分前から鳴っていない。
ヴィセは律義に代金を確認しながら1つパンを貰い、ベーコンと卵を保存庫から取り出した。
「ラヴァニ、ベーコンは温めたほうがいいかい? 卵も生の方がいいなら焼かないけど」
≪我々はあるものをそのまま食らうだけだ。だが……そうだな、興味がある≫
「了解。んじゃ、半熟にしますか」
ヴィセはキッチンでフライパンを1つ借りる。ガスコンロの使い方が分からなかったが、元栓は開いており、大きなつまみを押したり引いたり回したりしているうちに火が付いた。
「へえ、火が付かねえって泣きそうにならなくても、こんなに簡単に火を起こせるなんて」
≪我が炎を吐いてもよいが≫
「道中で何度木片を炭にされたか。もう頼まねえ」
≪加減はしておる≫
「んじゃあ炭になった木の方が悪いんだな、分かった」
特に暇を潰すためのものを持ってきた訳でもなく、新調したばかりの短剣、まだ1度も使っていない銃、その他の道具の手入れも必要ない。
「暇だな……」
ヴィセとラヴァニが他愛もない会話で時間を潰しはじめ、2時間程経った頃だった。
ふいに店のシャッターを誰かが叩く音に気付いた。
「マスターか。家族は無事だったんだろうか」
≪ヴィセ、少し待て。足音が違う≫
「何? 足音だと?」
≪ああ。足音が軽く、複数いる。家族を連れて来た割には人の子のようでもない≫
ヴィセは用心深く忍び寄り、シャッターの外の物音に耳を澄ます。ほどなくして話し声が聞こえてきた。
「誰もいねえよ、さっき避難所にマスターがいたのは確認済みだ」
「じゃあさっさと金だけ奪って消えるぞ、あと2軒くらい入らなけりゃ稼ぎにならねえ」
「いいから2人とも押さえとけ、こじ開ける。大きな音を出すな」
会話を聞く限りでは盗みに入ろうとしている。男3人組、対してヴィセは1人。
「盗みか。俺1人で守り切れるか……おい盗人共! 声が丸聞こえだぞ」
ヴィセが牽制のため中から声を掛ける。誰もいないと思っていたのだろう、一瞬静かになったものの、男達は再びシャッターを開け始める。
「ラヴァニ、隠れてくれ」
≪どうするつもりだ≫
「マスターは頼んだぞと言った、俺は安心してくれと言った。守りきって見せるさ」
≪ならば我も共に。ドラゴンを連れた男が盗人を撃退したという話は広まっているだろう、それがそなただと分かれば脅しにもなる≫
テレッサのお陰でヴィセの評判は悪くならなかった。ドラゴンを連れている事自体を悪だと言われた訳でもない。ヴィセはシャッターをこじ開けようとする男達に対峙するため、リボルバーを取り出した。
「警備隊を呼ぶ! 入って来ても捕まるだけだ!」
「この霧の中、駆け付けるにはしばらくかかるだろうさ! 無駄無駄!」
生憎、ヴィセは警備隊へと掛ける電話番号を知らない。ハッタリだ。
相手の3人はおそらく犯行に慣れている。対してヴィセは弾の装着、安全装置の外し方、分解整備、撃ち方を一通り習っただけ。人を相手に戦った事も、引き金を引いた事もない。
それ以外にも1つ、ヴィセには困った事があった。
「霧が入ってきたら、俺……死ぬよな」
≪ならば裏口に隠れておるが良い。そなたが恩を受け、我も糧を貰った。ならば、我が報いるのも道理≫
「ラヴァニが大丈夫だという確証はないんだぞ」
≪我らの浄化は何も人を殺す事だけではない。大気、水、あらゆるものを浄化する。無理なら我も逃げる≫
現状ではそれしかない。店には申し訳ないが、ヴィセはこの状況で侵入を阻止する手段を持っていなかった。
男達がシャッターを捻じ曲げるように開け、入り口の扉のガラスをハンマーで割る。毒混じりの霧が店内に入って来て、ヴィセは慌てて裏口に隠れた。
「へっ、口だけで俺達が入れば逃げるってか。最初から引っ込んでたらいいんだよ」
「さっさと金だけ盗って行くぞ。食べ物はどうせ霧に触れたら食えねえ、漁る必要はない」
「へいへい。さあ、幾ら入ってるか……な」
全員黒いジャンパー、黒いズボン、肌を隠すために手袋や帽子まできっちり装備し、更には顔全体を覆うガスマスクを装着している。
その顔がどう変わったのか、ガスマスク越しでは分からない。けれどレジを漁ろうとカウンターに近付いた男の動きが止まった事は、動揺を窺い知るに十分だった。
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