6-5.『お宅の飼い犬は躾がなっていないようだ』

 激突の衝撃で、背にした鉄柵は紙細工のように容易たやすく折れ曲がる。やはり錆びで腐食した状態では耐えられるわけもない。


「がは……ァっ」


 脳髄を駆け上がる激痛、喉奥からり上がる気味の悪いぬるさと鉄錆の臭い。腹膜を貫く〈セーレ〉の腕の先――五指がうごめいて腸壁を裂かれたその瞬間、周囲の幻影ホログラムが一瞬にして消えた。


 ぷつり、と。唐突に。

 電源を切られたブラウン管テレビのように、その輪郭を何重にも揺らがせて。


 意識を埋め尽くしていた幻影おれたちの思考の渦が消え去る。一瞬の静寂しじまのち――意識をつんざく痛覚からの悲鳴。

 筋繊維を千切られた激痛と臓腑ぞうふをまさぐられる不快感。割れんばかりに食いしばった歯の隙間から、血混じりのよだれとくぐもった苦鳴が漏れる。


「なるほど、貴方の〈遺体(弱点)〉ははらわたでしたか」


 〈遺体〉が損傷した。〈権能インペリウム〉は発動できない。この窮地きゅうちから脱する術がない。


 へりから踏み外した片足が宙を泳ぐ。

 支えを失った上半身が重力の鉤爪かぎづめに握り込まれ、背がゆっくりと反っていく。

 姿勢バランスを崩せばすぐにでも、背後に広がる夜闇色の奈落へと引きずり込まれる――


 剥がれ落ちた錆びの破片が飲み込まれていくのを尻目に、手近な鉄柵の切れ端を掴んで抗う。


「おっと、大丈夫ですか?」


 そんなアルバートへ冷笑を向けながら、〈セーレ〉はまるで命綱でも手繰たぐるように腹に埋まっていた手を引き抜いた。


 引きずり出された俺のはらわたが、月明かりをてらてらと気味悪く照り返す。

 蠕動ぜんどうする桃色の管の表面には、太古の呪言じみた紋様が、刻まれていた。


「……驚いたな、〈遺体〉をとは」


 痛覚からの危険信号アラートが、アルバートの視界を赤く染めていく。

 手にした臓物を物珍しい骨董品のようにめつすがめつ眺めている〈セーレ〉など、気に留めていられない。


 意識がけるような痛みにおかされていく。

 それでもひどく冷静な思考の芯には、ある疑問が浮かび上がっていた。


 ――何故、本体おれ転換スイッチする幻影が分かった?


 奴の〈権能〉の本質を言い当てたときだってそうだ。

 幻影ホログラムは無数に存在していたにも関わらず、〈セーレ〉は迷う素振そぶりひとつ見せなかった。

 心音にも呼吸音にも、当てずっぽうの推理を的中させた高揚や安堵感は無い。

 まるで、転換スイッチする先をあらかじめ知っていたかのよう――


 その疑問は、苦痛よりも強く顔に現れていたのだろう。眼前にある〈セーレ〉の顔が、うっすらと嘲弄ちょうろうの色を帯びた。


「どうしたんです、不思議そうな顔をされて。……まさか、まだが分かっていないんですか?」


 言われてようやく、その可能性に思い至る。

のだ。奴は俺の予備動作ルーティンを、既に見抜いている。


「――ぐるるるぅあッ!!」


 戦慄の最中さなか、意識を現実に引き戻したのは吠声はいせい。〈セーレ〉の背後から白狼シルヴィが迫る。

 頭から丸呑みにしようと大口を開けるも、〈セーレ〉が指を鳴らすと隣の鉄柵を噛み砕いていた。


 氷結した血肉が飛び散る。身体を支えるのひとつが外れ、体勢が大きく揺らぐ。

 しかし即座に狼頭が氷の枝となって片腕を絡め取り、間一髪で落下をまぬがれた。


「――だーかーらーぁ」


 血混じりの安堵の息を吐くアルバートを他所に、距離を詰めたワイスは不機嫌な子供のように口をとがらせる。


余所見よそみすんなってぇ。今お前と遊んでんのはぁ、あたしだろっ!!」


 ワイスの理性が焼き切れるまで、もう時間がない。

 接近した理由が俺の援護カバーではなく、単に自分へ注目ヘイトを向けさせる為なのがその証左だ。


 狂犬を繋ぐ首輪は外れかけている。もし次に、きっとすぐにでも狂い出す。


 首を薙ぐように放たれる上段蹴りハイキック

 しかしブーツがこめかみに届くより速く指が鳴り、ワイスの姿は音もなく消えた。


 一拍遅れて、壁を破砕する音がエントランスホールの方向から聞こえた。

 〈セーレ〉がワイスの身体をのだ。視界の端まで濛々もうもうただよってくるコンクリ片と粉塵が、衝撃の凄まじさを物語る。


 ような濁った声が微かに耳に届き、アルバートは思わず舌を打った――あの駄犬バカ


「困りますよ、ミスター・バーソロミュー。お宅の飼い犬はしつけがなっていないようだ……いい加減に首輪でも付けたらどうです?」


 空いている左手で自分の首筋をつついて皮肉る〈セーレ〉に、アルバートも同種のわらいを浮かべる。


「的外れな忠告をどうも。うちはにする主義でね」

「なるほど……犬の躾より先に、悪知恵を吹き込む飼い主を始末した方が良さそうですね」


 命の危機が迫ってもなお虚勢を張る、そんな身の程知らずへの憐れみに冷え込む蒼眼。

 そこに映り込むアルバートの表情には、


「――あぁ、俺からもひとつ忠告しておくよ」


 取り返しのつかない失敗をした者をあざけるような。

 それでいて、最早もはや笑うしかないとでも言いたげな――呆れと諦めが入り混じっていた。


「首輪ならさっき――?」


 刹那。

 颶風ぐふうまとって飛来した銀の円盤が、腸管を掴む〈セーレ〉の腕を千切り飛ばした。

 遅れて吹き荒れた風圧が、戒めから解かれたアルバートの髪をかき混ぜる。


 鋭い音を響かせ壁に埋まる銀の円盤――に見えたのは、回転を掛けて投擲とうてきされたナイフ。超常の膂力りょりょくが、丸鋸バズソーのように骨肉を容易たやすく切断してみせたのだ。


 肘から先を断たれた痛みか、あるいは予期せぬ攻撃による驚きか――見開かれた蒼玉サファイアの瞳に、白い影が映り込む。


 そちらへ向いた瞳孔へ迫るのは、ターコイズブルーに塗られたネイル。人差し指と中指による目潰しが、空間にあおわだちを刻み込んでいく。


 間一髪、咄嗟とっさに首を傾けた〈セーレ〉の目尻を掠めた。

 お返しとばかりに指が鳴らされる。一瞬で懐に入り込んできたワイスの、伸び切った前腕が切断。


 俯いた彼女の目許は、前髪が影となり見取れない。唯一覗く唇は歪んでいた。

 痛みではなく――に。


 ワイスは構わず踏み込んで、断たれたままの肘先を突き出す。

 断面から噴いた血はしかし、リーチを伸ばすには足りない。


 血を飛ばしての目眩めくらましか――浅知恵を嘲るように口角を持ち上げた〈セーレ〉の顔面に、


 


 断面から間欠泉のごとく噴き出した白い骨に赤い肉が瞬く間に絡みつき、雪面のような皮膚が覆う――ここまで一瞬。

 骨肉のぶつかり合う鈍い音が、数瞬遅れて響いた。


 瞬間再生による攻撃範囲の伸長と、時間差タイムラグを利用した不意打ち。

 顔を歪めて数歩後ろへよろめいた〈セーレ〉を他所よそに、ワイスは残心しながら肩を震わせる。


「――ふ、」


 堪えきれない笑いを吊り上げた口の端から滴らせながら、うつむかせていた顔をあげる。

 開かれた白髪の暗幕――そこからのぞく表情は、とろけそうなほどの愉悦ゆえつに彩られていた。


「――くふ、っはは!! あっはははははッ!!」


 月夜にえる狼のように天を仰ぐ。しかし響き渡るのは澄んだ遠吠えなどではなく、音階の外れた哄笑こうしょう


「――もっと、」


 相棒の機嫌テンション


「もっともっと、」


 戦闘中毒バトルジャンキーたがが外れた――理性のかせを解かれた狂犬が為すこととといえば、ただ一つ。


「もっといっぱいッ、あたしと戦お遊ぼっ!!」

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