0-10.『死んで清々する』

「――〈マルコシアス〉からは、もう逃げられない」


 死刑宣告じみて冷え切ったワイスの声に、っていた中年男はぴたりと動きを止めた。


 膝をついてうつむいたまま、しばらくうなっていたが……怒りか、あるいは自棄やけにでもなったか。口から不協和音を垂れ流しながら動く。


 首を傾げるワイス。半月状に裂けたその口許へ、右の人差し指を向け


「遅い」


 ようとしたが。

 右腕は既に、背後から音も無く近付いた白狼に食い千切られていた。

 巨大な口腔に並ぶ氷の牙。その間から、醜悪しゅうあくな人差し指がのぞいている。


 両顎が完全に閉じられ、凍り付いた腕は硝子細工がらすざいくのように砕け散った。

 破片となって飛び散る右人差し指。爪の先に描かれていた〈印章シジル〉は溶け消え、飛来していた光線は時間を逆巻さかまいたようにどこかへ戻っていく。


 ワイスの腕がかすみ、銀の光条が空間にき付けられる。


 右腕――〈権能〉の発動手段まで失った中年男には、もはや飛来するナイフを防御するすべなど無い。

 左胸に根元まで埋まった刃は、肋骨の隙間をって今度こそ心臓を貫いた。


 傷口から濃血が、滂沱ぼうだの涙となってこぼれ落ちていく。

 絶望に見開かれた中年男の眼が最期さいごに映したのは――


 友達との別れ際めいた、晴れやかさと名残なごりしさに満ちたワイスの笑顔。


「じゃーね。まぁまぁ楽しかったよー」


 狼牙の並ぶ口腔がそれをさえぎって


 ――ばくり



◆◇◆◇◆◇



 夕焼けオレンジ宵闇インディゴのグラデーションに、曇り空が薄汚れたエフェクトを掛ける。


 廃ビルが群れなす灰色の森の中。

 色褪いろあせたアスファルトの上を、黒い無骨な装甲バンが疾駆する。


 スマートフォンのGPSが示す相棒の居場所を目指しながら、運転席のアルバートは握ったハンドルをしきりに指で小突いていた。

 その顔に浮かぶのは苛立ち。ひん曲がった口からは呪詛じゅそのように文句が垂れ流されている。


 中年男の皮を被った異形はロケットランチャーをぶっ放し、機関銃ミニガンまで持ち出した。

 もしや廃工場の外に停めていた装甲バンにまで被害が出たのでは……


 内心穏やかでは無かったが、愛車は幸いにも無傷。一瞬の安堵を覚えた後はずっとこの調子だ。


 依頼主が怪物と化してしまえば、報酬どころの話じゃなくなる。

 ただでさえ今月は苦しい。やっとありつけた仕事だというのに、ここまでの苦労が水の泡。

 おまけに駄犬バカのせいで戦闘にまで発展する始末だ。弾薬代も馬鹿にはならない。


 中年男クソ野郎には地獄の責め苦でもまだぬるい。

 さて、どうやってつぐなわせたものか——


 などと考えているうち、視界の左に並ぶビル群の間でが揺れているのが目に入った。


 近くの路肩にバンを停め、薄汚い路地裏に足を踏み入れる。


 いつの間にか小型犬サイズになった白狼が振り返る。アルバートの姿を見るなり、先導するように駆けていく。


 やがて見えてきたのは多量の血溜まり。

 そのそばにワイスがしゃがみ込んでいた。


「よーしよしよし。シルヴィ、見張りありがとねー」


 ワイスにわしゃわしゃと頭を撫でられた白狼シルヴィは、満足そうな一鳴きを残して、風に吹かれたようにその姿を空気に溶かしていく。


 路地裏に広がる血の池と、そこに沈む、そして異形の人差し指——


 中年男のを眺めるアルバート。

 その胸中に去来したのは、怒りでもやるせなさでもなく……寂寥せきりょうだった。


「……終わったんだな」


 一体どういう理屈か、死亡した〈悪魔憑きフリークス〉の肉体はわずか数分で急速に腐り落ち、骨すら塵と消え——


 取り込んでいた〈大悪魔の遺体ゴエティア


 一度怪物となったが最後、肉も骨ものこらず消える。棺に入れることもできず、誰かにいたまれることも無い。


 悪魔と契約し、人であることを捨てた者たちの末路は——みな等しく、例外なく残酷だ。


 自業自得だ、ざまあみろとも思っている。

 だが虚無に等しい最期を迎える様は——それがどれほどがたいクソ野郎であっても——気分の良いものではない。


 ——そして、俺もワイスもいつかはこうなる。

 魂を悪魔に売り渡したむくいを、この身を器に悪魔をんだ罰を、受けなければならない。


「——ほらよっ」


 耳に届いた声と、視界をかすめた影で我に返る。ろくに見もせず掴んだそれは、生温なまぬるさと錆臭さびくささにまみれていた。


 きったねぇなおい――怒鳴りつけようとして、中年男が付けていた高級ブランドの腕時計だと気付いた。

 まばゆい金メッキの輝きは、今やほとんど赤黒い血で塗り潰されている


「……お得意の死体漁りスカベンジか?」

「ゴミ捨て場と金持ちの死体は宝の山。貧困街スラムじゃ常識だよー」


 アルバートの嫌味に、ワイスは血溜まりから金目の物の発掘サルベージを続けながら淡々と返す。


装飾品こいつらもこんな場所で沈んでるより、あたしらのになった方が幸せじゃん? 〈悪魔憑きフリークス〉なら死体の処理もいらないし」


 辛辣ドライに乾き切ったワイスの態度に、なんだか感傷に浸っていたのが急にバカらしくなってしまった。


 人を捨てた怪物は、最期を迎えてなお冒涜ぼうとくされるのがお似合いなのかもしれない。

 空虚ニヒルな笑みを浮かべ、唾と一緒に恨み言を吐き捨てる。


 ――ざまぁみやがれ、クソ野郎。



◆◇◆◇◆◇



「そういやワイス。偽物とはいえ何回か殺される相棒おれを、こともあろうに笑顔で眺めてやがったのはどういうことだ?」


 戦利品と〈大悪魔の遺体ゴエティア〉をまとめたジュラルミンケースをバンの荷台に放り投げながら、運転席のアルバートは苛立ちも露わに問う。


「だってお前の幻影ホログラムってマヌケな死に方するから。最初におっさんに撃ち殺されたの傑作だったよー。やっぱ得意じゃん、命乞い」

 

 死体漁りスカベンジを終えて助手席に乗り込んだワイスが、半笑いの声で返す。

 額に青筋を立てるアルバートと、にやつくワイス。二人がドアを力任せに閉める音だけが、意図せず揃った。


 血塗ちまみれの手を拭ったウェットタオルを窓から投げ捨て、ワイスはだるそうに座席シートもたれた。窓ガラスに映る眠たげな目が、笑むように垂れる。


「それにあたしはうそきが嫌いだ、死んで清々する。今夜はぐっすり寝れそう」

「そうか、俺も品と学のない女は嫌いだよ。今日寝たら二度と目覚めなくていいぞ」


 ワイスはそれ以上の会話を遮るように、ダッシュボードの上にあったゴツいヘッドホンを耳に当てる。

 アルバートも車のエンジンを噴かしてオーディオを操作。

 軽快なジャズが、隣から漏れ聞こえるロックナンバーをかき消し、殺伐さつばつとした車内を満たしていく。



◆◇◆◇◆◇



 仮面をかぶった骸骨スカルと、月を背に吠えるウルフ

 トライバルのような意匠デザインがペイントされた装甲バンが、ひび割れた路面を走っていく。


 彼らは『バーソロミュー&ウルフェンシュタイン警備輸送』。


 内容に見合う依頼料さえ払えば、合法か非合法かを問わず“なんでも”運ぶ――

 この隔離都市『インキュナブラ』を股に掛ける運送屋だ。

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