第3話

 おんなは私の呑んでいる珈琲をちらりと見ると


「珈琲をひとつ」


 そう、注文した。見た目にそぐわない、落ち着いた、柔らかい声であった。耳に馴染みが良く、聞いていて心地が良い。だからであろうか、私は思わず声をかけていた。誓ってもいいが、私はこの時、おんなを口説こうというよこしまな気持ちを抱いていたのではなかった。



「もし、お嬢さん。珈琲だけはやめておいた方が良い。ここの珈琲はすこぶる不味い。ただ、ここのマスターはけちだから、それ以外のものを出してくれるかは分からないが」


 私のよそ行きの声に、マスターが一瞬だけ吹き出しそうになったのを私は見逃さなかった。マスターは笑いを堪えて真面目な顔を取りつくろうと、こうのたまった。


「心外ですねぇ。私は別に、けちなのではありません。それぞれのお客様に、その時々で必要なものをお出ししているだけです。何なりと、お出ししますよ」



 おんなは、私とマスターの言葉に戸惑いの表情を見せて、ポツリと言葉を落とした。



「でも、珈琲の不味い喫茶店で、いったい何を頼めば良いのかしら」

「ここは酒場ですよ、お嬢さん。マスターの後ろに並んでいる瓶をご覧なさい」



 まあ、と上品に口元を抑える姿に、私はますます好ましいと感じ始めていた。前言を撤回する。確かに容姿は私の好みではないが、それは大した問題じゃない。



「それなら、おすすめを頂ける?」

「喜んで」



 マスターは滅多に浮かべない微笑を添えて、ジンに卵黄とレモンを落とし、ソーダで涼やかさを加えたゴールデン・フィズをカウンターに滑らせた。不透明な黄色したそれは、見た目よりもずっと爽やかで飲みやすいのだと、呑んだことはないが知っていた。我が友の好物である。



 そして、コトリと、私の前にはいかにも高そうなウイスキー。



「私にも、くれるのか」

「今日はもう、お仕事はすのでしょう」



 成る程、いつもマスターが珈琲ばかり出していたのは、私が仕事ばかりしていたからかと頷いて、ありがたく頂くことにする。けちだ、などと言って済まなかった。

 口をつけて、グイと煽れば喉を焼くウイスキーが、どこか懐かしいような森の香りで胸を満たして、どうしてか目頭が熱くなる。酒とは、こんな味だったか。



「あら、おいしい」



 思わず零れた、とでも言うような声が、私の心中を代弁してくれたような気がした。この酒を呑めただけでも、この街に来て良かったと感じる。

 例のおんなは、しばらく黙ってチビチビと酒に口をつけていたが、やがて静かにグラスを置くと、思い切ったように口を開いた。



「私、この街に来たばかりなんです。入り口の方で、ここの人は皆死んでいるって聞いたのだけれど、それは冗談ではないのかしら」

貴女あなたは、死んだ時のことを覚えていないのですか」



 私が思わず尋ねると、おんなは難しそうな表情を浮かべた。



「ええと、眠っていて……起きたらここにいたから、よく分からなくて」



 そんな話は、この街で聞いたことがなかった。そうだとしたら、どんなにか幸せなことだろう。この街の誰もが、身体に染み付いて離れない、死の記憶から逃れたいと渇望しているというのに。しかし、死の実感がないのなら、この落ち着きようも頷ける。



「確かに、ここの住人は皆死んでいます。死んだ時期も場所もバラバラで、共通点はこの退屈な街から、誰も出ていきたいと思っていないこと」

「退屈なんですか?」



 長いまつげを瞬かせてこちらを見つめたおんなに、私は急に今日の髪型が決まっていなかったような気がしてきて、適当にはねさせた髪を撫でつけながら答えた。



「ええ。少なくとも、私はそう思います。天気も、人も、感覚さえも。昼も夜もなく、何一つ変化のない街だ」

「それなのに、どうして出て行かないのかしら」



 それは嫌味のない、ただ純粋に不思議を口にしただけのように聞こえた。だからこそ、私はドンっと、心の臓を叩かれたような気がした。



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