第2話

 私は名を、織田おだ作之助さくのすけという。


 ただ、誰もが『オダサク、オダサク』と呼ぶものだから、すっかり己でもそれが名前であるかのように錯覚しており、正直に言えば『作之助』とか呼ばれても反応できる自信がない。



 私は勝手知ったる店の、奥から三番目お決まりの席に着くと、カウンターの下に仕舞ってある草臥くたびれた鞄からまだ真白い原稿用紙を取り出した。


 私の職業は、小説家である。否、そうであった、というべきか。今となっては、何を書いても誰かが読んで、感想を寄越す事はない。誰も読まない文字列を垂れ流すだけの存在など、それはもはや小説家ではない何かだろう。では、何であるというのか。



 ことり、と。


 いつものように珈琲が置かれて、唸るように礼を言う。ここのマスターは、ズラリと高そうな酒瓶を背景に背負しょっっていながら、酒を出してくれたことは一度もない。ここでは渇きを感じることはないのだから酒など必要は無いのだが、生前はあまり酒を呑めない性質タチであった身としては、思う存分呑んでみたいと思ってみたりもする。


 ただ『珈琲など要らん、酒をくれ』などと要求するのは、どうしようもない酒飲みが管を巻いているようにしか聞こえない。みっともない。そんなこと出来ようはずもない。もっとも、煙草も薬も散々にやって来た身としては、今更なにを恥じるのかも分からないが。



 仕方なしに一口含むと、苦い。そして、不味まずい。一番の不服は、これである。この店は、私が生前に通っていた銀座のルパンという酒場に驚くほど良く似ているが、この珈琲の不味さだけは違う。この店に、客が来ない一番の理由はそれだと確信しているが、もう一つはやはり看板がついていないのが良くない。



 一度、看板をつけてはどうかと提言したことがある。


『それではお客が来てしまうじゃありませんか』



 使いもしないグラスを磨いていたマスターは、銀のちょびひげをフサフサと笑みの形に持ち上げながら、そんな訳の分からないことを言った。商売上がったりではないか。かく言う私も、金を払っているわけではない。まあ、商売という概念がない以上、客の居ない方が静かで良いのかもしれない。




 ただ、この日は少し勝手が違った。


 カランコロン、と。

 ドアベルが客の来訪を知らせる。一大事である。



 私はガリガリと原稿用紙に、意味のあるようで何もない駄文を書き殴っていたペン先をピタリと止めて、バッと入り口の方を振り返った。



 おんなが、立っていた。



 この店でおんなを見るのは初めてであったから、私はつい不躾ぶしつけにまじまじと見つめてしまった。特別、美しいおんなという訳でもなかった。ただ、どことなく華のあるひとだった。すっと通った鼻筋に、唇は赤く、笑えばきっとえるのだろうと惹き付けられた。芯の強そうで、整った面立ちである。ただ、私の趣味ではない。


 何やらハイカラな装いで、目にも鮮やかな黄色い洋袴ズボンからスラリと健康的な脚がのぞき、きゅっとすぼまった足首が踵の細すぎる靴に吸い込まれていく。それに思わずみとれていたのが、何やら悪いことをしている気になって、そっと目を背けた。



「いらっしゃいませ」



 珍しい客に対して、深々と頭を下げたマスターに、私はハッと我に帰った。それから、とっさに草臥れた鞄へ、書きかけの原稿用紙をぐしゃりと突っ込んだ。私はどうも、女性を見ると、自身が小説家であることをひた隠しにしたくなる。


 名を告げるのも、どうにもいけない。相手が私の名を知っていて、私の内面を吐き出したような、それでいて現実の私からはかけ離れたあの小説を読んだのだと思うと気恥ずかしいし、意気揚々と名乗って私の名前を聞いたこともなかったらもっと惨めである。普段は、なまじ己の小説に恥ずべき点などない、と虚勢を張っているばかりに、こうした下らない自意識をよりいっそう恥ずかしく思う。




 ともかく、私は女性に対して、いっとう不器用であった。問題は……これを言うと自慢にしか聞こえず嫌なのだが、私が人並みより少し女性受けがよろしかったことだろう。ありがたいのかそうでないのか、もって生まれた背の高さと見目の良さは、私の醜悪な内面を『少し危険な男』程度に和らげて、女性を引き付ける誘蛾灯のごとき役割を果たしていた。だからこそ己の不器用さが恥ずかしく、それをひた隠しにしたのだが。




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