深淵

雪白楽

第1話

 ―ここは、夢の果てー


 言の葉を口にのせ、舌の上で転がしてみれば、成る程よい響きであるような気もする。しかし、それの持つ意味を少し考えると、なんとも後味の悪い気分にさせられる。


 夢の、果て。夢の、終わる場所。


「ここは、夢追い人の、墓場である」


 格好つけて呟いた言葉が、すすけた大地にポツリと落ちた。ただそれは、詩的でもなんでもなく、ただ事実を呟いたに過ぎないことを私は知っていた。だからこそ、ただ虚しい。



 虚構都市レーヴ。誰がつけたのかは知らないが、ここでも『夢』を意味する言葉を用いているのに、いっそのこと悪意すら感じる。虚構は夢であり、夢は虚構である。なんとなく、夢というものを汚されたような気になった。

 先の『ここは、夢の果て』などと言うふざけた言葉は、断じて私が考えたものではなく、この街のスローガンのようなものだ。この言葉は街の本当にありとあらゆる処で掲げられている……まったく、趣味の悪いスローガンだと思う。まるで、住民に刷り込むかのように停滞を、怠惰を、未来の途絶を呼び掛けているように、私は感じる。



 未来の途絶。重く息を吐き出しながら、私はいつものように終戦直後の東京のような、だだっぴろく不穏な焼け野原に立って、足元に広がる『世界の果て』を見下ろした。

 この街のはたにぽっかりと空いた、大きく深く真っ暗な穴。人々はただ『穴』や『深淵』とだけ呼んでいる。もっと長ったらしい、哲学的な言葉で名付けたがる輩もいるが、そういうおとこは大した人間ではないのだ。少なくとも親しくしたいとは思わない。




 この穴の中に、否、この穴の先に何があるのか、誰も知らない。知ろうとも、しない。私が聞きかじった話によれば


「終焉」「無」「全ての始まり」


 ……大して要領を得ない。



 ただ、少なくとも総員の意見の一致するところには、この『自分』というものが決定的に損なわれる場所であるはずだ、ということである。つまるところ待ち受けるものは、完全なる死ではないか、と。

 誰もが死を恐れるが、仕方のないことだと諦めて受け入れるほかにすべはない。ただ、この街の住人は、何より『死』というものを恐れていた。彼らにとって、それは具体的な痛みを伴うものであり、終わりの記憶でもあった。



 この街の住人は誰もが一度は死んでいる。

 もう一度、言おう。ここは、夢追い人の、墓場である。



 私もご多分に漏れず、一度死んでいる。死因は結核。

 死の瞬間を、覚えている。鮮明に焼き付いて、全身が、その感覚を記憶している。口の中に広がる血の味を。肺が侵されていく感覚を。陸の上で独り溺れる苦しみを。脳がその冷たい甘さに麻痺する瞬間を。己が存在から非存在へと集約されていく恐怖を。ただ独り、もの思わぬ肉塊へと成り果てる醜悪を。

 その瞬間、私は絶望的に孤独であった。あの孤独を、二度と味わわずに済むのならば、誰もがどんな対価でも支払うだろう。



『深淵』は、その絶望を想起させる外観であったし、この穴の存在する場所からして死の匂いが漂っているようにすら感じられる。そうでなくとも、誰も危険を冒して未知を求めようとは思わなかった。この街には何もなかったが、少なくとも安全だった。これ以上の死が、絶対的な終わりが、存在しないという一点においては。


 私は生前、冒険心にあふれた人間であると自負していたはずなのだが、この『深淵』に関しては他と同意見であった。ただ、その内心とは矛盾するように『深淵』の端に立って、ぼんやりとたたずむのが私の日課でもあった。

 何故、ここに立ちたいと思うのかは分からない。己はまだ、勇気と言う名の無鉄砲を持ち合わせた人間だと、誰かに証明したいだけなのかもしれない。そんなもの、死ねば何の役にも立ちはしないというのに。



 そうして今日も、私はたっぷりとそこに立ち尽くしてから『深淵』を後にした。焼け野原を抜けてしまうと、いきなりごく普通の文明的な都市が現れるあたり、ここは『現実』ではないのだなと思い知らされる。

 誰も近寄ることのない外の焼け野原はともかくとして、街の中でさえ人通りはない。みな己の居場所のようなものを見つけてしまえば、そこから出ることはないのが普通だ。この街の住民は、それだけ変化を嫌っていた。


 例の気に食わないスローガンから目を背けるように、いつもの道をいつものように歩く。ごみごみとした、文化も時代も統一感もあったものではない通りだ。だが、どこか懐かしい感じがして、私は嫌いではない。我が愛すべき故郷である大阪の街に、どことなく似たような匂いを感じ取るからだろうか。街をつくる、のではなく、人が集まって街ができた、というような。




 そんな中に、赤煉瓦造りの洒落た建物が場違いに建っている。看板はないが、私はそこが酒場であることを知っていた。死んだ時、私はここで目覚めた……おかしな表現かもしれないが。それ以来、ずっとここにいる。



 ぐい、と真鍮のドアノブを捻れば、カランコロンと小気味の良い音を立てて私の来訪を知らせた。



「お帰りなさい、織田作おださくさん」



 つい、と顔を挙げたマスターから気さくに声をかけられて、いつものように何となく手を挙げる。



 お帰りなさい、で間違いはない。私はここに住んでいるようなものだった。



 他に帰る場所など、ない。永遠に時の失われた昼も夜もないこの街で、命と共に散らした夢の続きを夢見て。希望し、絶望し、諦め、それでも何一つ捨てられず。




 そうしてまた、当て所ない今日を繰り返している。




 *






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