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最後の防波堤とも呼ぶべき一歩を越えた先は、五感を満たす濃密な死の坩堝だった。
「ぅるるる」
大半が黒く潰れ、ノイズに塗れる完全索敵領域。
本能的な恐怖を受け、独りでに震え始める身体。冷めて行く血温。
深海にでも投げ出されたかのような感覚。
木の葉一枚飛ばせぬ軟風が、十重二十重に巻き付いた縛鎖かと見誤るほど重々しい。
「──よォ」
それら全てを咀嚼し、ひらひらと手を振る。
差し渡し数百メートルの小世界。猫の額が如し狭矮な地平。
その中心にて身を伏せていた、巨躯の獣。
九本の尾を有する、妖狐。
「驚いたな。全部癒えたのか」
俺達との戦いで失った七本の
延いては斬ヶ嶺鳳慈に奪われた後の十年余り、欠けたままだった九本目の尾。
ステージⅤへ至ったカタストロフが、その暴走に等しい過剰なエネルギーで以て快癒を齎したのだろうか。
或いは、もっと人為的、作為的なプロセスによるものか。
……まあ、そこら辺は正味どうでもいい。
真相がなんであれ、俺達の仕事は何ひとつ変わらないのだから。
〈貴、様……貴様等ハ……!!〉
人に羽虫の個体を見分けることが難しいように、形貌での判別がつき辛いのか、暫し此方を眇めた後、見開かれる左右三対の眼球。
波立ち揺らめく、その威容を構成する膨大な
黒い炎、いや闇か。あまりに濃過ぎて一瞥では分からなかった。
「ハハッハァ」
アラクネの粘糸を引き絞り、震えを抑える。
恐怖というのも重要な情報源のひとつだ。本能的な怖れは敵の脅威度を教えてくれる。
しかし、細かい動きを錆び付かせるのはいただけない。
「是非とも旧交を温めたいところだが、生憎スケジュールが詰まっててな」
敢えて不興を、怒りを買うであろう立ち居振る舞いにて告げる。
「オードブルを摘む程度に、サクッと殺させて貰うぜ」
自分で言っておきながら思わず失笑する。
随分と食いでのある前菜だ。満腹通り越して胃もたれしちまう。
……然れど。眼前の妖狐がメインディッシュの添え物であることは、紛れも無い事実。
何せ。
「こちとら用があるのは、百階層なんでな」
前傾に屈む。
低い唸り声に似た吐息が、喉奥から漏れ出る。
「『縛式・纏刀赫夜』」
肉と肌を勢い良く突き破る樹鉄の蔦。
そのまま全身へと絡み付き、溶け崩れ、俺を鎧う。
「……あァ?」
今日まで幾度も繰り返した光景。
ただ。ひとつ、些細な違和感。
「んだよ、こりゃ」
何故か右の手首周りが、フォーマルハウトの鱗に似た形質を模っている。
なんでだろ。
ま、いっか。デザイン的には悪くないし。
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