652・Felipa






 頭の奥で、カチリと響く。

 刻限を報せる、硬い音色。


「u-a」


 私であり、私とは異なる彼女を呼ぶ。

 悲哀を湛えた人造の瞳と、視線が合わさる。


「そんな顔しないで。在るべきところに帰るだけよ」


 九割方、剥がれた魂を手放す。

 借り受けた欠片は、これでu-aの内へと戻る。


「……ごめんなさい。重荷を背負わせてしまって」


 不完全な『スクルドの眼差し』にも、些か色味を加えておいた。

 この先、きっと必要になるだろうから。


「こんなこと言えた義理じゃないけど。どうか幸せに、思うように生きて」


 なまじ未来が視える分、貴女は我慢し過ぎるもの。

 少しくらい、欲を張ってもいいの。


「ッ……ふざけないで……本当に、どの口が……!」


 震えた恨み言の最中、右半身の感覚が千切れる。

 左側も、あと三十秒保てば上々か。


「さぇ……お、か……」


 声が上手く紡げない。

 最期に、あと一度、月彦と言葉を交わしたかったのに。


「っと」


 両脚の自由を失い、倒れかけた身体を、軽々と支えられる。

 ピントの定まらない視界に、彼の顔が映り込む。


 必死で口を開き、喉を絞った。


「て、を」

「手? こうか?」


 差し出した左手を、彼の手が掴む。

 無遠慮なようで、その実、女性の扱い方を心得た握り方。


 ──ああ。幸せ。


「つ、き、ひ、こ」


 貴方と共に生きることを望まなかったと言えば、嘘になります。

 貴方と共に生きることが出来る女性達に嫉妬を抱かなかったと言えば、嘘になります。


 でも。だけど。これでいい。

 こうして手を取って貰えたなら、思い残すことは、何も無い。


 最後の力を奮い起こし、彼の間近に顔を寄せる。


「す、き」


 ありがとう。さようなら。

 貴方は私の初恋で、生きる希望で、未来を繋ぐ理由で──


「──藤堂月彦! 微動だにせず、そこへ直りなさい!」

「あァ?」


 唐突なu-aの怒声。

 視界の端を掠める、彼の延髄目掛けて落ちる踵。


「おうふ」


 蹴撃。芯を捉えた鈍い振動。

 彼に痛痒を与えるほどではないものの、少しだけ体勢を傾かせる。


 そして。私と彼は、互いの吐息が触れるくらい、側に居て。


「仰る通り、思うままを遂げてみました」


 唇へ触れた感触。反射的に目を見開く。

 さっきよりも更に近く。零距離に、彼の顔。


「貴女の懸念は、私が必ず晴らします」


 驚くあまり、彼の唇を噛んでしまった。


 舌先に染みる鉄の味。

 消え行く意識に、深々と刻まれた甘露。


「重ねて。例えどんな形であっても、で産んでみせると、ついでに誓いましょう」


 漸く思考が溶け、u-aの口舌を呑む。


「実に豪腹ですが……結局のところ私の嗜好は、限りなく貴女と似通っておりますので」


 …………。


「ふふっ」


 もう、言葉を返す余力さえ、残っていなかったけれど。

 なんだか可笑しくなって、少しだけ口の端を持ち上げながら──永遠に、瞼を閉じた。





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