576・Rize






「けが、なんて、いついらい、でしょう」


 額と喉の切創。

 折れた骨を整えた痕跡が残る鼻。

 白いスーツごと貫かれた脇腹の穴。

 傷を順繰りに触れながら、リシュリウ・ラベルは冷たくも愉快げに笑う。


「ばんさい。ちしゃ。あとは……ほうじ」


 白鞘が独りでに抜け落ち、露わとなる黒い剣身。


「いいですね。じつに、いい」


 月彦の胸部に宛てがわれる切っ尖。

 ほんの少し、あの女が腕を突き出せば容易く心臓を貫かれてしまう、瀬戸際。


「あなたを、ころせば」


 考えるより先、曲式を繰った。


「あなたの、すべてを、うばいとれば」


 いつもは私の言うことを聞いてくれる樹鉄刀が、思い通りに動かない。

 太刀筋が逸れて、あの女に届かない。


「ああ」


 歯噛みする四半秒さえ惜しい心地でマゼランチドリを抜き、斬撃を飛ばす。


「あなた、こそ」


 今度は逸れなかった。

 けれど一瞥すらされず、虫でも退けるように払われる。


「あなた、こそ。ひきがね、たりうる」


 ナイフエッジの空間を歪ませ、呪詛を注ぐ。


「くッ」


 でも駄目。時間が足りない。

 このままじゃ、月彦が──


「──おや?」


 不可欠と見立てた量を注ぎ終えるまでの、致命的に遠かった数秒。

 手繰り寄せるに至らしめたのは、他ならぬ月彦自身。


「おやおやおやおやおやおやおやおや?」


 みしみしと軋む、か細い骨。

 心臓を動かすだけで精一杯だろう状態にも拘らず、血だらけの手でリシュリウ・ラベルの腕を掴み、締め上げている。


 向こうにとっても、およそ想定外の行動。

 必然、注意が其方へと流れる。


 お陰で間に合った。


「『宙絶ナナツキ』――――ああぁぁぁぁああぁぁっっ!!」


 一刀を振るい終えた直後、許容限界を超えた呪詛の負荷を受け、マゼランチドリが砕け散る。

 そんな代償に見合った威力を備えた剣戟が、刃先を越えて敵を襲う。


「とぉ」


 黒い剣の刺突が『宙絶』とかち合う。

 対地形斬撃とでも称すべき、ダンジョンの階層ひとつを丸ごと両断せしめる、およそ人間相手の尺度を逸脱したエネルギー密度。


 ……暫し続いた拮抗の末、それが押し負けた時は寒気を覚えた。


 だけど。私もタダじゃ転ばない。


「あら」


 四散した『宙絶』を一点、リシュリウ・ラベルの得物へと収斂させる。

 亀裂と刃毀れだらけだった剣身を、粉々に叩き折る。


「あら、あら、あら、あら」


 ほぼ同時。嫌な音が鳴り渡った。

 月彦を掴んでいた手首が握り潰され、あらぬ方へ捻じ曲がり、彼を取り落とした。


「ッ!」


 好機。助け出すには今しか無い。

 骨肉を削った影響で動きの鈍い身体に鞭打ち、駆けた。


 しかし。尚もリシュリウ・ラベルは薄笑う。


「──ざんねん」


 刃の残骸を押し退け、白柄の中から伸びた

 逆手に持ち替わった剣尖が、ゆるりと突き下ろされる。


「月彦ッ!!」


 樹鉄刀は当たらない。マゼランチドリは失った。

 あの兇刃に対し、今この瞬間、私が出来ることは──何も無い。


「チッ」


 思考ばかり空回る一瞬の中。鼓膜を揺らす音。

 小さくも刺々しく響いた、舌打ち。


「『操龍相そうりゅうそう』」





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