264・Hildegard
〈オォ、ォッ……〉
渾身の一撃を無防備に受けた巨体。
木端が如く軌跡を描き、石壁へと衝突。
骨を揺らす鈍い轟音。陥没する壁面。
四半秒遅れる形で、蜘蛛の巣状の亀裂が八方を奔り抜ける。
「ざまぁみろ」
やられたことは、やり返す主義だ。三倍、五倍、十倍に利子を加えた上で、徹底的に。
血祭りと処した輩の数は手足の指じゃあ足りない。噛み付いてきた犬を縊ったこともある。
……と、そんな現在進行形の昔話は脇に退けておくとして。ひとまず返礼は済んだ。
ほんのちょっぴりだけ、溜飲が下がる。
「大丈夫かい、ツキヒ――」
幾らか雲の晴れた心地で振り返った。
そして、そんな私の眼前に。木剣の切っ尖が、突きつけられた。
「どういう了見だァ、てめぇ」
あと数ミリで左眼球を刺し貫ける位置。
低く静かな、ざらついた語勢。
「折角、楽しんでたとこだったのによォ」
ひゅう、ひゅうと冷たい呼吸を重ねながら、血管に赤い光を沿わせたツキヒコが、瞳孔の開いた眼差しで此方を睨む。
どうやら私の横槍は、大いに彼の不興を買ったらしい。
瀕死の身体で、よくもまあ、こんな気迫が放てるものだ。
「屠られてぇのか? あァ?」
ともすればダンジョンボスより先、ツキヒコと戦う羽目になるやも知れない。
あまりの怒気に、まさかと思いつつ、そんな可能性が脳裏を掠める。
…………。
けれど果たして、そうはならなかった。
「……ッ」
射殺さんばかりだったツキヒコの視線が、おもむろに私から外れる。
新たに向いた先は、壁際へと立つリゼ。
つい先程まで逆方向に落ちていた筈の、蒼血で濡れたツキヒコの左腕を抱えている。
一体いつの間に回収したのか。全く以て抜け目ない。
「ぬぐ……分かった、分かった、分かってる! そもそも俺が言い出したことだ、馬鹿な真似はしねぇよ!」
決まり悪そうにツキヒコが声を張ると、リゼは呆れ混じりに溜息を吐き、小さく口を動かす。
会話、してるのか。あんな小声を拾えるのか。
否。それ以上に驚くべきは、凶暴性と獣性に於いては私をも凌ぐツキヒコの激情を、言葉だけで御した事実。
腹を空かせた虎の前に肉を投げつつ、食らいつくのを我慢させるに等しい難事。
「業腹極まれりだが、暫く矢面を任せるぜ」
「あ、うん」
あまつさえ、不承不承ながらも敵に背を向け、リゼの所まで退いて行く。
どれだけの信頼関係を築いていれば可能な芸当なのか、単孤無頼の私には想像も及ばない。
「……羨ましい限りだね、本当に」
らしくもない、胸を突く寂寥に耽る。
とうに諦め、見限った筈の渇望を、よりによって御同類が体現していれば、こんな気持ちにもなる、か。
「ささくれるなぁ。色々」
とは言え。物思いに傾くには、時も場所も悪い。
〈――オオオオォォォォォォォォッッ!!〉
地響きすら伴う咆哮。
自動車ほどもある瓦礫を纏めて払い飛ばし、現れる巨躯。
全力で打ったにも拘らず、私が攻撃した箇所に目立った損傷は見当たらない。立居振る舞いにも取り立てて変化は無い。
驚愕を通り過ぎ、いっそ崇拝に能う頑強さ。
……ただ、今の私は頗る機嫌が悪い。
重ねて、本番は――死力を尽くすのは、ここからだ。
「凶化、開始」
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