262・Hildegard






 堅牢な鎧を何重にも着込んだという表現が似つかわしい、分厚い毛皮と強靭な筋肉で骨格を覆った体躯に反し、恐ろしく俊敏な動きで剛腕を振るう牛頭の怪物。

 対するは、果たして何があったのか片腕となりながらも、その異形を相手に一歩も引かず猛然と食い下がるツキヒコ。


 ……否。

 あれを食い下がっていると評すのは、あまりにか。


「ハハハハハハハハハッッ!!」


 割れたマスクの隙間から溢れる、猛り狂った笑い声。

 絶え間無く撒き散らされる、夥しい剣戟の音。


 いずれも振り返ることで、克明に耳朶を突き刺した。

 どうやら鼓膜が片方破れてたらしい。


 尤も、そんな些事、気にも留まらなかったけれど。


「嘘、だろう」


 無限に等しいエネルギー源と埒外な出力を併せ持つ、深層のダンジョンボス。

 人の身では至れぬ領域に佇む、真なるバケモノ。


 けれど、ツキヒコは渡り合っていた。

 正しくは、渡り合えるようになりつつあった。


〈オオオオォォォォォォォォッッ!!〉


 よく見れば牛頭は武器を欠いているが、そんなもの慰めにさえならない。


 咆哮と共に嵐の如く爆ぜる、生命一個を手折るには度が過ぎた暴威を孕んだ猛打。

 たった一撃掠めただけでも、人間を挽肉の塊へと変えるには十分な威力。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!」


 が。それを巧みに躱し、防ぎ、弾き飛ばされれば最小限の動きで立て直し、抜け目なく反撃まで打って出るツキヒコ。

 完全なフィジカル型の難度八を前に、接近戦で互する。

 本来なら、およそ有り得ざる光景。


 ――両者を隔てた甚大な差を縮めているのは、巨躯に刻まれた腐敗臭漂う禍々しい斬撃痕と潰れた右眼、ツキヒコ自身の類を見ぬ才覚。

 そして何より、彼の異様な


 踏み越えれば、ほぼ十割方死ぬと分かっている筈のラインを、芥子粒ほども躊躇わず進む、外れに外れた感性。

 苦痛を苦と感じず、苦難を苦と思わず、苦境を苦と考えない、鋼より硬く水より柔らかな、無窮の精神。


 鍛え上げられた天賦の肉体に、荒ぶる鬼を宿した男。

 死への恐怖も萎縮も無く、如何な死地だろうと己が悦楽のため踊り狂い、それが結果的に彼を永らえさせている。


「滅茶苦茶だ」


 ともすれば、あのまま単孤で討伐を成し遂げてしまうやも知れない。

 そう思わせるだけの熱量を持った、目を灼くような昏い輝き。


 …………。

 故に。私は複雑な心境を飲み込みながら、歯噛みする。

 夢想したところで無意味と分かっていても、考えてしまう。


「ちっ」


 ツキヒコの両腕が健在で――もう少しだけ彼に時間が残されていたなら、と。


 次いで。理解する。

 わざわざリゼが労力を割いてまで、私の蘇生に動いた理由を。





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