3、化物
最寄駅から家とは反対方向に少し進むと商店街の大通りにつく。そこから西側に二本入った路地を更に進むと階段があり、登って降りると古い住宅街に入る。
昨日犬を見つけた場所はその住宅街の一角にある草むらだ。草の高さは
屈んでみるが、犬の姿は見えない。代わりに雨上がり特有のモワッとしたにおいする。
「・・・仕方ない、か」
結局あの犬が迷い犬か野良犬かはわからず仕舞いだが、陽子がもし犬になったとしてもここには長居したいとは思わない。きっと一時凌ぎだったのだろうと諦めて帰ろうとしていると、ガサっと斜め前の草が揺れる。
蛇だったら怖いなと思いつつも、もう一度屈んでみるとぴょこんと何かが飛び出してきた。
「・・・あっ!」
顔を出したのはボールのようなシルエットの犬。陽子が探していた犬だ。
犬は陽子を見るなり草むらから飛び出し、目の前でくるくると円を描く。
「もしかしてわんちゃん覚えてくれてたの?」
陽子の問いに「わん!」と力強く鳴く。
「わぁっ!嬉しい!あ、今日もパンのお土産があるよ」
陽子が鞄からパンを取り出すと、犬の目の色が変わる。
どうやら気に入ってくれたようだ。ベーカリーのおじさんに話したらすぐさま、お犬様にも喜ばれる食パンなるポップを作るだろう。あの店はポップが多すぎておすすめがわかりにくのがやや難点である。
パンをちぎって掌に乗せると、口を寄せてハフハフと飲み込んでいく犬。
一枚、二枚と快調に食べ進め、ついに三枚目も残り半分になったところで、ガサガサと草むらの奥で何かが動く。
「えっ、何?」
陽子と同じく異変を感じた犬が草むらに向かって牙をむき、「う゛ーっ」と低くうなる。
同じような犬、もしくは野良猫かと思い様子を伺うも、それ以上の動きはない。
「・・・風かな?」
それにしては不思議な動きだった気がするが。
ま、いっかと犬への餌付けを再開しようとした陽子。しかし、
「わんっ!」
「あっ、わんちゃん!」
犬が大きくひと吠えしたかと思うと、ものすごい速さで草むらの中に突進していく。
「・・・あーあ。あと一枚残っちゃった」
もったいないけど人間が食べるには少し時間が経ち過ぎている。陽子が食べれないこともないが、そうなると朝昼晩パン食だ。
「ま、いっか」
たまには主食が三食パンでもいいかと思ってその場を後にしようと立ち上がった陽子。
しかしその時、「きゅーん」と助けを求めるような犬の声が確かに聞こえた。
陽子はぐるんと体の向きを草むらの方に返ると、そのまま奥へと突き進んだ。
草をかき分けて進んでいくとそこには古びた家があった。
草が高いことと、家に向かって土地が下がっているため今まで気づかなかった。家の外壁には植物の蔓が伸び、屋根瓦はところどころ割れ落ちていて誰かが住んでいるとは到底思えなかった。いわゆる最近問題になっている空き家である。
「おじゃましまーす」
陽子は空きっぱなしになっている扉から足を踏み入れる。
一瞬靴を脱ぐべきか迷ったが、やめた。靴下がとんでもないことになりそうだし、なにより怪我をしてしまいそうだった。心の中で土足でごめんなさいと謝って玄関を跨ぐ。入ってすぐ右手には階段があり、左手には引き戸があった。戸を開けようと試みたが、ずれているのかギッギッと軋み音だけでびくともしない。諦めてそのまま真っすぐ進むと今度は開き戸があった。戸を押す。部屋には奥にキッチン、手前にテーブルが一つと四脚の椅子。ただ、三脚はテーブルに収まっているのに、一脚だけ不自然な場所に置いてある。
「ここにはいない、か」
ぐるりと見回したが犬の姿は見当たらない。
その場を後にしようとした陽子だったが、ぴちゃんと水が跳ねる音が聞こえた方向を見ると、そこには見えにくいが扉があった。
ここがキッチンダイニングだとすると、開かなかった扉がリビング。そうなれば残るは洗面所と風呂場である。ただ現状で水道が通っているとは考えにくいが、万が一水が溜まっていてそこに犬が過って落ちてしまっている可能性はゼロではない。
陽子はその扉の取っ手に手をかける。その瞬間、ぞわっと背中が一気に粟立った。経験したことのない感覚に引き返そうとするが、何故か陽子の意志に反して手は取っ手を回そうと動く。
体が自分の思い通りに動かない、声が出ない、助けが呼べない。
キィと扉が音を立てて開く。次の瞬間─目があった。
「わんっ!」
「ッ!!」
どこからともなく飛び出してきた犬が陽子の体に突撃する。その小さな体からは想像できない力に押され、陽子の体は斜めに飛びテーブルにぶつかり、肩と背中を強打する。痛みで顔を上げられずにいると、すぐ目の前に犬が転がってきた。
艶があった毛は所々抜け落ち、真っ白なキャンパスには黒や赤が飛び散っている。しかし、そんな状態でも犬はなんとか立ち上がろうと踏ん張る。まるで陽子を守るかのように。
「わん!わん!わん!」
犬はゆっくりと向かってくる目─体中に無数の目玉がついた蜥蜴のような化け物に吠え続ける。化け物の尾がしなる。
「ッ逃げて!」
尾が犬を目掛けて振り下ろされる。陽子はその惨劇を見てられなくて固く目を瞑った。
「ギィギャァァァァ!」
飛び込んできた耳を覆うほどの絶叫。
何が起こったのか。そっと目を開けると、そこに居たのはボロボロの体で威嚇し続ける犬と転がる化け物の腕と先程までは存在しなかった男だ。その手には鈍く光る日本刀のような刃物が握られている。
「グッグッグッ、グッグッ、ガガガ!」
前足を一本失った化け物が無数にある瞳をギョロギョロと動かしながら向かってくる。
しかし男は動揺する様子もなく刀を構え、斜めに大きく振る。飛びかかってきた化け物が空中で真っ二つになり、爆ぜる。
何がどうなっているのかはわからないが、ひとまず危機は去った。
「・・・チッ、手こずらせやがって」
男は苦々しくて吐き捨てる。そして、柄の部分を両手で持つと─犬めがけて振り下ろすが、犬に刺さることはない。
「・・・おい、おまえなんの真似だ」
男がぎろりとその鋭い眼光を犬を抱きしめる陽子に向ける。そのあまりの迫力に先程の化け物とはまた違った恐怖に足がすくみそうになるが、ここで諦めれば腕の中の小さな命が奪われてしまう。
それはなんとしてでも避けたかった。
「・・・はぁ。あのな、言っとくけどそいつはただのい、て、おい!」
男の話も聞かずに陽子は一目散に家を飛び出す。さっきまで草が生い茂り、一歩踏み出すのにもやっとだった場所は明らかに何かに切り取られた跡があり、道ができていた。
草むらを抜けて、住宅街に出る。
「誰かー!誰か助けてくださいっ!」
陽子は走りながら叫ぶが、誰一人として家から出てくる者はいない。こうなれば商店街の方まで逃げた方がいいと判断した陽子が階段を駆け上り、降りようとして足を止める。
階段下に居たのは、先ほどの男。口にはタバコが咥えられている。
男はふーっと長く煙を出すと、まだ残っているタバコを地面に落として踏みつけた。
「おい、そいつを渡せ」
「・・・嫌、です」
ぎゅっと腕に力が入ったせいか、犬が少し苦しそうに「きゅうん」と声を上げる。
頑なな陽子を見て、男が大きくため息をつく。
「まず聞くがそれはお前の犬か?」
「・・・違います」
「だろ?だってそれ俺の犬だもん。知ってるか?犬を盗んだら刑法235条窃盗罪だ。ほら、今返せば大目に見てやる。そいつを寄越せ」
「・・・あなたのって証拠はあるんですか?」
「証拠って」
「写真でも動画でも結構です。なにかこの子があなたの飼い犬だって証拠を見せてください」
本当に男が飼い主ならば渡さなければならないことくらい陽子は理解している。
でも、万が一飼い主だとして、それならば何故刀で刺そうとしたのか。むしろその刀こそ銃刀法違反になるのではないか。
「あー・・・証拠、証拠、証拠ねぇ」
男がぼそぼそと上を向きながらつぶやく。
「あっ、そうだ。そいつの名前は水太郎」
「水太郎?」
ネーミングセンスの欠片もない名前に、犬は全く反応しないどころかそっぽを向く。その犬の様子に男がムッと顔をしかめる。
「あんだよ、水太郎カッコいいだろ!」
「うう゛ー!」
「はぁ?じゃあなんだ、水次郎がいいのか?それとも水三郎にしてやろうか?」
「わんわん!」
「じゃあ後で三島にでも名前つけてもらえばいいだろ。ほら、こっちにこい水太郎」
男が手を伸ばす。
しかし、犬はその手を避けるように陽子の腕からするりと逃げ出す。
「クソっ」
男が刀を構える。しかし、その構えは明らかに斬る構えではなく投げる構えだった。
男が振りかぶる。
考える前に体が動いていた。
陽子は犬を守るように男と犬の間に割り込んだ。
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