呪具(3)
【三日目】
早朝、キッチンに立つ母親の姿がある。寝不足で目の下にはクマができていて、娘を心配するあまり一日でやつれてしまっている。目は涙で潤んでいて、娘を案じているようだ。
キッチンで朝食の準備が進むなか、廊下から母親の後ろ姿を見ているアイがいた。まるで犬のように
アイは音を立てないようゆっくりとキッチンへ近づいていく。途中でソファーにかけていた父親が動くものに気づく。目をやると、それは犬のように歩く娘で、青ざめて声をかけた。
「ア、アイ? なにをしているんだ?」
声に反応したアイは父親のほうを向いた。娘の顔は
父親の声に気づいて母親もキッチンから見ていたが、
アイは父親をしばらく見ていたが、クルリと向きを変えて四つん這いのまま走り出した。母親のほうへ向かっていき、「ウガー!」と奇声を上げて飛びかかる。母親は身をかわして逃げ出し、娘はうなり声を上げながら
「あなた! 助けて!」
妻の声に
「な、なんだこれは」
あとからやって来た母親も娘の部屋を見ると、小さな悲鳴を上げて黙ってしまった。
部屋の惨状に目を奪われていたが、暴れる娘が父親の腕を振りほどこうとしたので、とっさに彼女を部屋に入れて、いきおいよくドアを閉めた。
閉まったドアの向こうから、バンバンとドアをたたく音と、「ウオー!」「ウガー!」など言葉にならない声が響く。父親は青ざめた顔で自分の背でドアが開くのを押さえ、母親は廊下で泣き崩れてしまう。
アイの部屋からは、ガサガサと歩き回る音とうなり声が聞こえ、ドアをたたいたり、何度も体当たりしてきた。
娘が変になってしまった――
両親は突然の変貌ぶりになすすべがなく、娘が部屋から出ないようにするしかなかった。娘の部屋に鍵をかけ、万が一鍵を開けても出てこれないように、ドアのつっかえとして一人掛けのソファーを置いてようすを見ることにした。
数時間経っても娘は正気に戻るようすがなく、部屋を動き回り、いらだったうなり声が聞こえてくる。
話しかけても返事はなく、犬が見知らぬ人に吠えるときのように、「ウガー! ウガー!」と返ってくるだけだ。知性もなくなったのか、娘はドアノブを使って扉が開けれないことがわかったので、そのまま部屋に閉じこめて対処法を考えることにした。
「お医者さんに診せるべきよ」
「まだ早いんじゃないのか。一時的なものだろ。もう少しようすを見よう」
母親は娘を心配して早く心療内科の医師に相談したいが、父親は世間体を気にして避けている。話は平行線のままで解決に至っていない。
母親は危険な状態にある娘のことより、体面を気にしている夫の考えをうすうす感じとっていて腹が立ってくる。
(この人はいつもそうだわ。自分の評価ばかりを優先する。
でも今は、アイのことを心配すべきじゃないの!?)
母親は医者にかかりたがらない夫にいらだち、ほかに手立てはないかと聞くも、夫は黙ったままだった。
なんの進展もないまま夜になる。
時間が経てば元に戻るのではないかと淡い期待をしていたが、娘は相変わらず部屋をバタバタと走り回ってうなり声を上げている。
役に立ちそうにない夫に、これ以上期待をするのは無駄だと悟り、母親はなにか手立てはないかと思考をめぐらせていて、ふと思いついて電話をかけた。
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