愛憎(2)


 駐車場で足を引きずり、怯えながら逃げまどう男は、毎日聞かされていた店長の教訓を思い出して、今さらながら後悔している。


(店長の忠告を聞いておけばよかった!

 ヤバイ ヤバイ! ヤバイ!!)


「ねえ、なんで逃げるの……?」


 離れたところから怒りのこもった女の声が聞こえてきて、ビクリとして声がしたほうを振り向いた。


 この男女はホストとそのお客。店長の話のようにこの二人も別れ話となり、関係はこじれにこじれて女はストーカーとなっていた。


 男は女がつきまとっていることを知っていたが、あまり気にしなかった。男は用心深くてセキュリティーが堅固なマンションに住んでいたし、移動も公共交通機関は使わずタクシーや車なので接触の機会が少なかったからだ。おおやけの場では大勢の目があるから安全だと気にせず行動し、無視すれば女はいずれ諦めるだろうと軽く考えていたのだ。それがまずかった。


 女は別れを告げられても諦めずに男に会いに行った。しかし男に話しかけても姿が見えていないかのように存在を無視される。あの手この手で愛情を取り戻そうとするが男は無情に通り過ぎる。


 相手にされなくなった女は思いが募り、より執着していく。一日中男のことしか考えられないようになり、思いを伝えようと強硬な手段に出て今に至っているのだ。



「ハアッ、ハアッ!」


(なんでこの女はセキュリティーが厳しい駐車場に入りこめてんだよっ。

 警備員はどうした!

 こんなに叫んでいるのに、なぜ誰も来ない!)


 さっきまで下を向いていた女は顔を上げて男を見ている。目は大きく見開かれていて三白眼になっており、口元を見れば下唇を噛みしめている。


 涙で化粧は崩れてすじができていてアイメイクは涙でにじみ、目が強調されて恐ろしい形相になっている。


「うわわわ! 寄るなあぁ!!」


 好きな男が自分を見た瞬間に恐怖する姿を見て、女は理不尽さに怒りで紅潮こうちょうし、こめかみの血管が浮き出て、眼球が飛び出そうなくらいに見開いた。


「フギイィイイイッ!!」


 どこから出したのかわからない意味不明な言葉を噛みしめた口から発して、ジワリ ジワリと男に近づいていく。女の恐ろしい形相に釘付けとなった男は腰が抜けてしまって動けずにいる。



「やったぜ、アタリだ」



 駐車場に男女以外の第三の男の声が響いた。


 いつからいたのか……。鬼のような形相をした女の後ろに、黒いパーカーを頭にかぶり、両手をパーカーのポケットに入れた男が立っている。黒のスキニーパンツと全身黒づくめの格好だ。


 異様なのは顔。現れた男はパーカーを深くかぶってはいたが、地面にへたりこんでいる男の角度だと顔が見える。その顔は普通ではなく、祭りの屋台で売られている狐の面だった。


 助けが来たと期待して見た先に映ったのは怪しげな狐面の男。怪我けがをして追いこまれている危機的な状況であっても、つっこみを入れてしまう。


(なんだ!? この狐面、変だろっ。

 でも人が来てくれた!)


「たっ、助かった! この女を止めてくれえ!」


 助けを求めた男に対して女はゆっくりと首を横に傾けて凝視する。異様な目つきでにらまれ、恐怖した男が動けずにいると、女は狐面に背を向けたままの状態で質問した。


「邪魔……するの?」


 不気味な女に動じるようすもなく、狐面はポケットから黒い手袋をした右手を出した。背を向けて前に立つ女にそのまま手を差し出すように向けていく。肩の高さまで腕が上がったところで返事をした。


「いいや。邪魔はしねーけど、ソレ、ちょうだい」


 腰が抜けて地面に尻もちをついたままの男は、逆上した女を前にして中二病みたいなことをしている狐面にイラつく。


(なんなんだ! この狐面のヤロウ

 俺が女に刺されて血だらけになってんのが見えねーのかよ!

 助けを呼ぶなり仲裁に入るなり、なんとかしやがれ!

 ……いや、まてよ? 女が気を取られているすきに逃げればいいか!)


 とっさに思いついた男は隙をうかがおうと狐面から女のほうへ視線を戻すと、女と目が合った。女はまばたきもせずギラギラとした目で男を凝視していて、食いしばった歯の隙間すきまから「フゥーッ、フゥーッ」と荒い息をもらしている。


「ヒッ」


 鬼気きき迫った女の顔があまりにも恐ろしくて、男は目に涙がにじんで歯がカチカチと鳴る。小刻こきざみに震え出した体は固まってしまったかのように動けずにいる。


 自分ではどうすることもできない男は、助けを乞うため狐面を見ると、さっきと同じ位置にいて右手のひらを大きく開いて女に向けている。


「なにしてんだよ、狐面!

 早く助けろっ! この女をどうにかしろよ!」


「グフッ」


 仁王立ちしていた女から急に奇妙な声が出る。声に驚いて狐面から女のほうへ視線を移すと、女は中空を向いて目を見開いたまま半分口を開けている。


「かっ、カハッ。 カヘッ、かっ!」


 まるでのどに物が詰まったときのように、女は苦しそうに何度も短い息を吐き出して動きが止まっている。


 左手の五本の指は鉤爪かぎづめのような形で固まり、包丁を持つ右手はすじが浮き出るほど力をこめて握ったままだ。体は引きつるようにビクッビクッとなっている。


 女が苦しそうに体をびくつかせている向こう側から、狐面は手を突き出したまま近づいていく。至近距離まで来たら、そのまま苦しんでいる女の背に右手を当てた。途端とたんに女の体は大きく動いて奇声を上げた。


「ギィヤァ! オ、オオォ! ア゛ア゛ア゛!!」


 狐面が手を当てている間、電流でも流れているのか女の体は硬直した状態でブルブルと激しくゆれている。狐面は気にするようすもなく、ポケットに入れていたもう片方の手をゆっくり出していく。


 手袋をはめた手の中には厚めの和紙があり、狐面はその和紙を女の背に押しつけるように当てる。すると女は「ギギャアァ!!」と絶叫し、大きくのけぞるとひざから崩れ落ちた。


 地面に倒れた女は白目をむいており、力なく横たわって動かない。握りしめていた包丁も手から離れて地面に落ちている。男は好機とみて逃げ出すことにした。


(な、なにが起こったのか知らねえが、今がチャンスだ!

 この女が気を失っているうちに逃げねばっ)


 男は尻もちをついたままの状態で手だけを動かして女から離れ、十分距離がとれたら立ち上がって足を引きずりながら歩き出した。


(早く、早く! あの女が目を覚める前に逃げねーと!

 ひ、非常口、どこだ!!)


「おーい! 誰かあ!! いねーのかよ、ちくしょうっ!」


 男が必死になって助けと出口を求めているなか、狐面は倒れている女がいる場所から離れていく。歩きながら手の中にある和紙を見つめ、クックックッと笑い声をもらして喜んでいる。


「思っていたとおり羽化してくれたわ~。

 どんなカタチになるかと思ったら、こうなったか~」


 狐面が手に持つ和紙は御朱印帳ほどのサイズで大きくない。ポケットから出した時点では白紙だったはずだが、今は水墨画が描かれている。


 山姥やまんばというか獅子舞というか――。たてがみのような毛に覆われた大きな頭部、毛に埋もれるようにある顔には、こめかみから2本の小さなつのが生えている。まるで般若面のようにギラギラとした大きな目に、半開きのつり上がった口からは牙が見えている。全身を長めの毛に覆われた後ろ姿をしているが、顔だけはこちらに向けてにらみつけているアヤカシがいた。


 気味の悪い絵を眺めている男は狐の面をつけているので表情は読めないはず……。だが明らかにうれしそうなようすで和紙の絵を見て悦に入っていた。



(ハア、ハア、ハア。もう少しだ。

 あそこに非常口がある。あそこから逃げ出せば助けを呼べる。

 あのクソ女、警察に通報して俺に近づけないようにしてやる!

 もう少しだ――)


 男はやっとの思いで非常口を見つけ、あと数十メートルで脱出できるところまで来たとき、背中にチクリと痛みが走った。それから体の中にス――ッと抵抗なく、なにかが入ってきた感触がして激痛に変わった。


「い、いてええぇえ!」


 男はガクリと地面に膝をつく。おそるおそる痛みが走った部分を手でさわってみると、ぬるっとした。手を戻して見てみるとべっとりと血がついている。


「ひ、ひっ、なんだよ、これ!!」


 痛みのある箇所がじんわりと熱くなり、生温かさがゆっくり広がっていく。


(なんだ!? 俺になにが起こったんだ!?

 なんでこうなっている!

 俺の体はどうなっているんだ!!)


 男は血に染まった手を見てパニックとなり、不安と恐怖でガタガタと震えていると、ジャリッと後ろから音がした。


 肩越しに確認するがなにも見えない。だが後ろには気配があって、なにかがいるのはわかっている。


 恐怖で汗がふき出し、「ハァッ! ハァッ!」と男の息づかいは荒くなっている。ゴキュッとつばをのみ、意を決してゆっくりと体を傾けながら後ろへ顔を向けていく。


 視界の中に足が映った。下から上へと目線を上げていくと倒れていたはずの女が立っていた。右手には逆手さかてにした包丁を持ち、肩の位置で止めたまま、うずくまる男を見下ろしている。包丁の刃は男の血で染まり、切っ先からは赤いしずくが落ちている。


「一緒に死にましょう」


 目を細めて穏やかな笑みを浮かべた女は静かにそう言い、右手を高く振りかざすと男の背中を刺した。


いてえぇ! やめろおぉ! クソ女ぁ!」


 やさしい顔とは裏腹に女はためらいなく男に刃を下ろす。男は身を守ろうと手で防御するけど、その上から包丁を振り回していていく。


「うわああああ! いてえぇぇ! やめろおぉ!!」


 駐車場の壁には必死で身を守る影絵と、機械のように感情なく凶刃きょうじんを振り回す影絵が映し出されている。絶叫が駐車場に響き渡り、包丁が振り上げられるたびに血が飛び散る。


 男は切り刻まれながらも、なんとか凶行からのがれようと必死になってあたりを見回すと、離れたところで狐面の男がポケットに手をつっこんだ状態でこちらを見ている。


(なんだ、あいつ!

 俺が殺されそうになっているのになにしてる! 助けろよ!!)


「おい! おまえっ!

 お面のおまえ!! 助けてくれえっ!」


 男が助けを求める間も女の刃は止まらない。狐面はそれを微動だにせず眺めている。


「ぎぃや!」 「がっ!」 「いてえぇ!」


「大丈夫よ。あなたを殺したら私もすぐに追いつくから」


 女は壊れた機械のように同じ言葉を繰り返し発しながら、やさしい目と笑顔を見せて男に刃を下ろし続ける。必死で防御するが凶刃は止まらず、体が裂かれるたびに悲鳴が上がる。


「ぐあぁっ。

 お、おいっ! お面!!

 なにやってんだよ、見てないで助けろよ! 助けてくれよおぉ!」


 涙を流しながら男は懇願こんがんし、狐面の方向へ手を伸ばして助けを求める。狐面はその場から動かず首をかしげて言葉を発した。


「なんでオレが助けねーといけねーの?

 オレが欲しかったのは『絵』だけ。じゃーな」


 そう言うと狐面の男はきびすを返して二人から遠ざかっていく。


 女はほんの少し手を止めて狐面のようすをうかがっていたが、振り返る素振そぶりがないことが確認できると、再び手を振り上げ刃を動かして男を刺し始めた。


 倒れている男はもはや抵抗する力もなくなり、薄れゆく意識の中で体に物が当たる振動だけは響いてくる。


(ち…く…しょう……クソ女……。

 くそったれ……あの…狐ヤロウ……)


 すでに痛みは感じず、かすれていた視界がだんだん狭くなって意識を失った――。


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