第2話

第2話 前編【眠る猫を起こす秘訣は、起きるまで眠ることだ】

ここは真っ暗だ。


ただ、甘い香りだけがただよっている。

懐かしいような、ホッとするような、優しい香りだ。


いつ嗅いだ匂いなのか、思い出せない。

けど僕は、オレは、この匂いを……。


「アルドお兄ちゃーん、朝ごはんだよー!」


フィーネの声で目が覚めた。


なんだか懐かしい夢を見ていたような気がする。

だがどんな内容だったか、もう微塵みじんも思い出せはしない。

だんだんと意識のはっきりしてくる耳に、表の喧騒が飛び込んできた。

ふと二階の窓から眺めると、まだ朝早くにも関わらず、通りは多くの人々でごった返していた。


ここ、ミグランス王国の首都ユニガンは、魔獣たちの襲撃後は一時いっとき、かなり閑散とした有様だった。

しかし、『ピンク色の豪奢ごうしゃなドレスを着た旅仲間の女剣士』のだんによれば、今ではほとんど元どおりの活気が戻っているらしい。


水汲みついでに井戸端会議をする婦人、復興に精を出して走り回る大工、声を張り上げて流行りの飴細工を売る商売人。

そして全力ダッシュで占いをする老婆……は、早朝ゆえか、流石さすがに見当たりはしなかったが。

そんな人々の活力あふれる様子は、見るだけで元気を与えてくれる。


身体はまだ寝惚けてはいるが、革帯かわおびく剣を握る手に、自然と力がみなぎる気がした。



◆◆◆



支度を終えたアルドが欠伸あくびをしながら宿の階下に降りると、妹のフィーネが先にテーブルに着いていた。

か細い両手で頬を支え、微笑みを浮かべている。


「お兄ちゃん、今日は二度寝しないでちゃんと起きられたね!」

「オレって、そんなに二度寝してるかなあ。

 でも、今日はなんだか起きなきゃいけないような気がしてさ」


兄と呼ばれた青年は、無造作に伸ばした黒髪をきながら、そう答えた。


「えへへ、実はねえ。

 お兄ちゃん用にホットミルクを用意してもらったんだ!

 そのカップをお兄ちゃんの寝てる部屋に向かって、

 ふーっ、ふーって吹いてみたの」

「ええっ!? そんなことしてたのか!」

「こんなにうまくいくなんて思わなかったよ。

 今度からこの方法で起こしてあげるからね!」

「うーん、なんだか複雑な気持ちだな……」


髪に白い花飾りをあしらった少女は悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべて、他愛ないやり取りを楽しんでいるように見える。

アルドはそれを眺めて、困った素振そぶりを見せつつも、心はどこか安心していた。


少し前までは、こんな何気ないやり取りでさえ、夢物語になりかねないような状況だった。

それを思えば、これくらいの茶目っ気は何でもない。

むしろ、これこそが望んでいた日常の一部なのかもしれない。


(これも悪くないな)


妹の悪ふざけともとれるやりようにもかかわらず、アルドはどこか嬉しく思う気持ちで満たされていた。



---



給仕された朝食のパンと王国名物の豆のスープを平らげたふたり。


アルドは温め直してもらったホットミルクを口に運ぶ。

一方でフィーネは、爽やかな香りのするハーブティーに、砂糖を入れて楽しんでいる。


アルドには何のハーブか見分けがつかなかったが、フィーネ曰く、このハーブは舶来品であるらしい。


海を越えた先にある砂漠の街ザルボー。

その程近くに、突如、青々と茂った木々がそびえ立つ一帯がある。

オアシスさながらのその緑地にのみひっそりと咲く青い花、その花弁を乾燥させた茶葉がこのハーブである。


元来、ザルボー近隣でのみ愛飲されていたこのハーブティー。

近ごろ、船便でリンデを経由してユニガンにまで持ち込まれ、密かなブームになっている。


うたい文句は誰が考えたか、

「頭シャッキリ! お口もスッキリ! みんなで飲もう! セタカティー!」などと言うらしい。


ハーブの作用が口臭予防にもなることから、恋に恋するうら若き乙女たちの間で特に人気とのことだ。

フィーネも御多分ごたぶんれず、旅仲間の茶釜を持ち歩く女性や、カード占いが得意な女性たちと、恋愛談義に花を咲かすうちに教わったようだ。


そんな些細ささいな話を茶請ちゃうけに、穏やかな朝食後のひと時を過ごす二人。

唐突に、その静穏を突き破る闖入者ちんにゅうしゃが現れた。


「すみません! アルドさんがこちらにいらっしゃると聞いて!」


息急いきせき切って、一人の青年が宿の戸を開けて入ってきた。

慌てて家を出て来たのだろうか。

暗い青色の髪はボサボサで、顔や服には乾いた絵の具の跡がちらほら見え隠れしている。


「ん? その絵の具……あっ、たしか画家の……?」

「はい、レオノルドです! その節はどうも!」


彼は、才気あふれれる傑物たちがひしめくユニガン界隈の画壇がだんでも、一際ひときわ強い輝きを見せる不世出ふせいしゅつ画客がかくである。

今はまだ、あまり世に知られてはいないこの青年の名が、少なくとも800年ののちの世まで残っていることをアルドは知っている。

彼とは、『過去に、未来にまつわる事件』で交錯こうさくした経緯があった。


「あの時はオレも助かったよ。そんなに慌てて、オレになにか用なのか?」

「ええ、あの時はよく知りませんで失礼しました!

 アルドさんは、あの魔獣王を退治してユニガンを救った英雄だったとか!」

「ああ、たしかに魔獣王と戦いはしたけど、英雄なんて、大層なものじゃないさ」

「ご謙遜を! そのアルドさんを見込んで、相談したいことがあるんです」

「えっ?

 まあ、オレで力になれることなら……」

「ありがとうございます!」


いつもどおりの人の好さで安請け合いをしている横では、妹が呆れ顔をしていた。

しかし、よく見ればその表情はとがめる風でもなく、どことなく好ましいものを見る風情ふぜいだ。

そんな目線は露知らず、アルドは話の先をうながす。


「それで、相談って?」

「はい。実は最近、亡くなった親友の子供を引き取ったのですが、その子が勇者になりたい、と」

「勇者!? そりゃまた、随分な野心家だな。でも、いったいどうして勇者なんだ?」

「ええ。なんでも、全ての魔獣を根絶やしにするためだ、と言って……」

「ええっ!?」


その唐突な青年の言葉に驚いたのは、アルドとフィーネだけではない。

宿のカウンター近くにたたずむ人影が、耳聡みみざとく反応していた。


一つ結びにした紫紺しこんの髪を大きくなびかせながら、若き女騎士が彼らに詰め寄る。

身にまとう金属の鎧を、微塵みじんも鳴らさずに動くその足運びは、周りの者に歴戦の猛者をうかがわせた。


その接近に、逸早いちはやく気付いたアルド。

しかし女騎士は、彼に物言う隙も与えず、矢庭やにわに三人の間に割り入ってきた。


「……その話、詳しく聞かせてもらおうか」

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