─── 2 ───
海の水を潜り抜けた淡い光が、天上から下げられた長い帯のように揺らめく大広間で、ルーナ・ティアルは両手で顔を覆って
周囲にはもはや
そうしてどのくらい時が過ぎたのか、降り注ぐ淡い光も陰り始めているようでもあった。
あの陸の男が投げた剣はイソラの左目を
未だに、左目から頭蓋の奥にかけて、焼けつくような痛みが脈動している。そしてそれ以上に、二人の娘に叛かれた───その事実がもたらす苦痛の方が、より深く、強く、ルーナ・ティアルを苛んでいた。
どこで、何を間違えたのか?───狂気に
自分はただ、半精霊族たる自分の種族に与えられた長い時間を、愛しい娘達と穏やかに過ごしていたかっただけなのに、何処で道を違えてしまったのか、どうして娘達を害するところまで来てしまったのか───どうしても判らない。
だから、苦しい。
だから、哀しい。
だからこそ、ふつふつと湧き出る怒りを抑えることが出来ない。
数え切れないほど多くの子を得て来た中でも、最も愛しい末の二人の娘達───その娘達に危害を加えてしまうようになってしまった自分が居る。何故、こんなふうに変わってしまったのか……。
今も胸の内で渦巻く重い憤りを、両の腕で封じ込めるように自らの身体を抱き、赤子のように体を丸めてしまうことでしか、自分を律することが出来なかった。そうして、自分自身を封じなければ、また同じことを繰り返してしまいそうだったのである。
誰に対しての怒りなのか、何に対しての憤りなのか、もう判らない。それを考えることでさえ、もはや苦痛でしかなかった。
(このまま、海の底に眠る石になってしまえればいいのに)
それは、行き詰ったルーナ・ティアルに残された、心の底からの願望だった。
もう一度、自らの想いのまま振る舞えば、今度こそ愛しい娘達を自分の手で───。
「ファタ・メイサ・モルガナ」
すぐ近くで、静かな深い声が彼女の
「古よりの我が朋友にして、遠い血筋の我が妹、レディ・モーガン───どうか、顔を見せてくれないか?」
その声が、真名よりも更に古い呼び名で彼女を呼ぶ。
そんな筈はないのだ。時の彼方に置き去って来た古い名を知る者など、この世にはもうたった一人しか居ないのだから。
その人が、これほど唐突にここに居る筈はない。
そうは思うのに、優しい声の持ち主に心当たりがあるルーナ・ティアルは、現状を知ることを畏れながらも振り返らずにはいられなかった。
自分が暴走しないように体を抱き締めたままゆるゆると振り返れば、そこには記憶にあるままの姿の、懐かしい、慕わしい人の姿があった。時を数えることも忘れた遠い昔に会った日のままに、その瞳にはありとあらゆる緑が───陽に透ける若葉の、盛夏に落ちる緑陰の、温かな海の明るい色や深い湖の色まで、すべての緑が存在し、炎のように揺らめき踊っている。こんな双眸を持っている者は、その人以外誰も存在しない。
「我が君───我が王……何故ここに……」
漆黒のシルエットを持つ人間の形をした存在に、泣き出しそうな少女の声でルーナ・ティアルは呼び掛けた。
「聖都から急ぎの報告があった。そして、それよりもっと先に、私を呼ぶいくつもの声が聞こえたのだよ。その中には、君や君の娘達の声もあった。可能な限り急いで来たのだが、私は間に合っただろうか?」
最後の言葉は呟きに近かった。
「遅くなって───そして、長い間会いに来なくて、すまなかった。そして、私が
訪問者は、ルーナ・ティアルより数倍小さい陸の人間とほとんど同じ体格だ。それでも、すぐ傍らに居てくれるだけで、温かく、優しい気に全身が包まれ、とうに忘れてしまった両親の腕の中に居るような安心感を与えてくれた。
「さあ、レディ・モーガン、久しぶりに君の麗しい顔を見せておくれ。目の傷を癒してあげることは出来ないが、君の苦痛を和らげることなら出来る。そして、少し私と話をしよう」
遥か年下の少女に対するように呼び掛ける声に、永く流したことがない涙が溢れそうだった。
「我が君───ずっと……もうずっと、お会いしとうございました」
消え入るような声で云ったルーナ・ティアルは、差し伸べられた手に我が身を委ねた。
ティルダールは、最後の反撃を行いながら、イソラの攻撃からシルヴィアを全身で
目を開けているのか、いないのかも判らなくなるような、深い闇───上も下も判らないというのに、沈んでいるということだけが判る。そして、誰も、どんな生き物の気配さえ無いということも。
自分の指先さえ見えないというのに、遥か遠くの闇の狭間で、小さな光の粒が幾つか、ささやかな存在を主張しているのが見えた。
付かず離れず、隊列を組んで、曖昧な群れを作るように流れていくのは、赤い小さな光。ほとんど働いていない思考の中で、それらはティルダールが魔力を断った真紅の水玉の群れではないかと思った。
それならば、一つだけ流星のように奔っていく銀の光は、最後に死力を振り絞って放った“祝福の剣”の残光だろうか……。
結果を見定めたわけではないが、黒とも見紛う藍色の鱗を持つ巨大な海蛇・イソラ───そのルーナ・ティアルと意識を共有して赤く染まった双眸の片方を狙った剣が、間違いなく標的を射止めたことを確信している。魔力を断つ力を持った剣だ。イソラもルーナ・ティアルもかなりのダメージを受けただろう。そうであれば、シルヴィアの実力を以ってすれば、あとは自力で脱出することが出来る筈だ。
無意識にそこまで考えて、ようやく一つの違和感に気付いた。
あの時、確かに腕の中に抱き留めたシルヴィアの、温かく、愛しい重みを感じない。この闇の中では、視覚でそれを確かめることも出来ない上、もはや指先一本ですら動かす力すら残っていないが、居ないことは判る。
海の民の追撃を潜り抜けて、どうにかシルヴィアの元に辿り着いた時には、すでに多数の手傷を負っていた。それから更に立ち回りをした上に、防ぎようもない魔力の攻撃を受けたのだ。一度は意識を失ったとはいえ、そのあともどうにか動けたのは、『シルヴをアルフの元に帰したい』と願う想いが為したことだとしか思えない。
腕の中に居た筈のシルヴィアが居ない。近くに居た筈のフィーリアも、ナムチやミズハやイソラも───ティルダールの感覚の及ぶ範囲には、誰も、何も存在しない。
今はただ、静かに、緩やかに、ただ闇に沈んで行く感覚だけがある。そしてこの闇は、冷たくも暖かくもなく、静寂をもってティルダールを包み込んでいた。闇の広大な空間と、底知れぬ淵を感じ取っていたが、不思議と恐怖はない。ただ、動けないだけである。
この状況においての慰め程度の僅かな救いは、すでに痛みを感じていないことだった。
魔力で負った傷は、見た目よりダメージが深い。体に負った傷から入り込んだ魔力が、身体の奥深くに浸透し、更なるダメージを与えるからだ。
おそらく、自分は死出の旅に出ようとしているのだろう。
シルヴィアの救出に向かうと決めた時から、元より覚悟していたことだ。今更、そのことに自体に動揺はない。すべての状況を冷静に
それでも、シルヴィアを取り戻したかった。
アルフェスの元に帰したかった。
その二つが叶ったのであれば、支払うべき代償として己の生命は高くはない。望みは叶うのだから。
可能であれば、シルヴィアの記憶も取り戻したかったが、何もかもすべてを望むのは、人の身で強欲が過ぎるというものだろう。彼女の生命が有り、アルフェスの元に帰れるのなら、首尾は上々というところだ。
彼女自身も、自らが置かれた状況が変わり、アルフェスと伴に在れば、彼女はシルヴィア・リューインでもエリア・シルヴィアでもない、新しい道を歩むことが出来るだろう。子供という存在はそんなものであるし、特にアルフェスはその真名・
かつて、エリア・シルヴィアを失った時のティルダールにとって、そうだったように……。
(ああ、だけど───それでも……)
少し、残念だった。
本当は───可能であるならば、一年とは云わない。一月、あるいは十日、それが無理ならばたった一日だけでいい。もう一度、三人で過ごしたかった。
何の屈託もない普通の時間を、三人で過ごしたかった。
それは、誰も居ない、どんな生命の存在も感じられない優しい闇の中で、ようやく呟ける本音だ。誰かの───シルヴィアやアルフェスの耳に入れば、今後のティルダールが居ない時の中で二人を苛む
それ故に、おくびに出すことすら出来なかった。
もう一度、この腕でアルフェスを抱き上げたい。
もう一度、シルヴィアの瞳を間近で覗き込み、抱き締めたい。
もう一度、三人でコ・ルース・リィンに帰りたい。
もう一度───叶うのならば、もう一度だけ……。
勿論、二人の幸せを心の底から望んでいる。悔いがないのも本当だ。だがそれでも、過ぎた願いだと判っていても、それがティルダールの本当の気持ちなのだ。未練を数えれば切りはない。
しかし、それはもう叶わない願いだ。ティルダールはこのまま闇の淵に沈み込み、溶けて消えていくのだろう。
だが、後悔だけは
(ずっと……心の底から、愛している)
薄れ、途切れかけている意識の中で囁く。
それが、シルヴィアに対してなのか、アルフェスに対してなのかも、もう考えることが出来ない。あるいは、コ・ルース・リィンに残して来た人々や、旅路で出会った人々を含む、多くの人に対してだったのかもしれない。
まだ、自分達を少年・少女と呼んでも差し支えなかった頃に、エリア・シルヴィアと二人で旅をしていた時も、赤子だったアルフェスと伴に旅をしていた時も、困難は多く、危険は更に多く、幾度となく心が折れそうにもなった。だが、その度に誰かと出会い、助力と救いの手を差し伸べられて、どうにかここまで歩いて来たのだ。
生きている限り、歩いて行く道のすべてが平らかではないように、どれほど辛く、苦しい時であっても、完全に光が失われることなどないのだと、今はそれを知っている。
沈み込んで行く闇の深淵の中に浮かぶのは、そんな優しい人々と、護り護られて来た魂の半身・何者にも替えがたい相棒と、愛しいばかりの一人息子の姿ばかりだ。
『帰って来てね』
涙を
(すまない、アルフ───俺も帰りたかった)
ティルダール・シン・ワイズとしての確たる意識を保てたのは、そこまでだった。ひどい眠気のようなものがあり、それに身を委ねれば、あとは闇に、死に呑まれていくだけ……。
そうして、徐々に遠退いて行く意識の端で、問い掛ける声がする。
(いいのか? それで?)
(よくはない。だが、仕方がない)
(諦めるのか?)
(何も諦めたくはない。けれど、もう体が動かない。力が……残っていない)
睡魔は泥のように重く、確実にティルダールを呑み込もうとしている。すっかり消耗しきっている今、その力に抵抗するだけの気力も湧かない。
(本当に?)
(俺は……出来る限りのことをした。これ以上、出来ることは、ない)
それは、自問自答だと思っていた。ちょうど眠りに落ちる寸前に、物思いを繰り返すような自問自答だと。
だが、静かな問い掛けをするその淡々とした声は、ティルダールの意表を突いたことを訊いたのだ。
(私はそうは思わない。あの声を聞けばな)
(あの声?)
『私』という言葉を聞いて、ティルダールはようやく誰かと問答をしていたことに気付いた。
勿論、姿など見えない。だが確かに、誰かの存在がそこに現れたのだ。
すぐ傍らに。
あるいは、遥か離れた場所に。
意識のほとんどを死の淵に呑まれかけていたティルダールが、今更恐怖など感じる筈もなく、ただ闇の中にあってなお、濃密な存在を感じ取っただけだ。
原初の存在だという、日頃接することのない“
世界が生まれる原初に存在したという、“
少なくともそれは、姿が見えずとも人の形をしているようだった。
何の気配もなく、いつの間にか近くまで来ていた姿の見えない誰かは、
周囲を取り巻く空間のすべてが、光の一つもない闇の深淵。
そのどこまで続くかも判らない深淵の一方向に注意を向けたからといって、何があるというわけでもないと───。
(いや、違う。何かが……)
均等に、どこまでも深く・果てしなくティルダールを覆っていると感じていた闇が、注意を促された一方向だけ『違う』と感じた。例えていうのであれば、その一方だけ、闇の壁が薄いような……?
(聞こえないか?)
誰かが、ティルダールに更なる注意を促す。
(……聞こえる?)
こんな何もない暗闇で、いったい何が聞こえるというのだろう。音すら存在出来ないようなこの深淵で……。
(いや、何か───遥かに遠い何処かから、何かが……)
問答を繰り返すうちに、少し自分を取り戻したティルダールは、残滓程度に残った気力で、懸命にその何かに集中した。それが何かはまだ判らなかったが、決して無視出来ない、無視してはならないものを感じたのである。
(…―ル───お願い……テュール───)
(───って来い。
途切れ途切れに、しかも聞き取れるぎりぎりの微かな声が、闇が薄いところから僅かに届いた。しかしそれは、今のティルダールにとっては、手が届かないほどあまりに遠い、遥かな場所からだった。その場所に、最愛の者達がいるのだ。
薄いとはいえ闇を見通すことは出来ないが、彼らが居るその薄い闇の向こうから降って来るものがある。
雨というほど多くはないが、人の温もりを感じさせる水滴が、ぽつぽつとティルダールの上に降り注いだ。それらは瞬時に、死の際にいるティルダールの体に吸収され、細やかな力と温かさを与えてくれる。
その温もりが、水滴の正体を教えてくれた。
(アルフとシルヴが、泣いている───俺が、泣かせている)
その正体は、ティルダール自身もそれを胸の内に抱え、また取り戻したいと願いながら、それでもずっと共に生きて来た想いの化身。
(帰りたい、おまえたちの居る所へ───帰りたい……)
自分一人だけの生命であれば諦めることが出来ても、二人の存在を感じれば諦めることが出来なくなる。
自分が為して来たことに後悔はない。けれども、すでに遅い。もうこの腕を伸ばしても、二人の居る場所には届かない。
だが、それでも───為し得ることであれば、最愛の二人の元に帰りたいというは、極当たり前の願望だった。
(やっと、本当のことを云ったな)
すぐ傍に居た誰かが、笑いを含んだ声で云う。すると、相変わらず姿は見えないというのに、闇の中に印象的なまなこだけが現れた。
その双眸は、明らかに
ティルダールは、その
(あなたは、あの時の……?)
非人間染みた美しさを持つ双眸が、優しい笑みの形に和んだ。
(駈け付けるのに時間が掛かってしまった。すまない)
男とも女とも判別つかない声が、深々と身の内に響く。
(事の次第をあの時に詳しく聞いていれば、もう少し早く、出来ることもあったのだが)
今、この時に、『あの時』と云われれば、すべてが始まったあの日のことだろう。
(その上、事の遠因を作ったのは私だ。加えて、私の名誉を守ってもらった恩もある。後のことは引き受けよう。愛する人達の元に帰るといい)
ほんの少し笑いを含んだ声は、人間味を帯びて温かく、微かに後悔の苦みを含んでいた。
(帰りたい───けれど、もう体が動かない)
緑の瞳が、更に優しく微笑む。まるで、ティルダールが声の主の実の子で、その子供の様子を温かく見守るような、そんな微笑みだった。
(陸に送る手筈は整っている。きっと
少しずつ遠退く声が云い終わるとほぼ同時に、虚無の闇と思われた空間に複数の大きな気配が現れ、ティルダールを取り囲んだ。
(……海蛇?)
相変わらず視覚には映らないが、不思議と気配でそれが判った。もうすっかり馴染んだ生き物の気配である。大小取り混ぜて十数頭は居るその中には、ナムチの気配もミズハの気配もあった。
共生しているというメロウでさえ、一人が一頭を従えているだけだったのに、これだけの海蛇を動かせるというのは、只事ではない。それはつまり───。
(そうか、あなたが……)
賢者ではなく、精霊族でも半精霊族でもなく、幻獣の一族でもない存在が、海の底よりなお深い死の淵で、このような事が出来るわけがない。ましてや、半精霊族絡みのあれこれを引き受けることなど、そうそう可能である筈がないのだ。
それが出来るのは、世界を司る六司神を除けば、ただ一人。
(あなたが、本物の───)
このユリティスの王国には、ありとあらゆる
時を越えて、世界を彷徨う放浪の戦士。
あらゆるものの頂点に立つが故に統治を行わない、ユリティスの王国のただ一人の王。
“竜の戦士”。
(あなただったのか……リーヴァ……)
その思考を最後に、ティルダールの意識は今度こそ闇の中に溶けて行った。
風が統べる処へ 睦月 葵 @Agh2014-eiY071504
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