いつかの日の約束

─── 1 ───

「テュール───テュール・シン、聞こえたら返事をしてくれ」

 焦りや必死さを無理矢理押し込めた低い声で、シルヴィアは繰り返し気を失ったティルダールに呼び掛けた。その間にも、えそうになる手を懸命に動かし続けている。

 ルーナ・ティアルが放った水のやいばは、ティルダールの体に幾つもの裂傷を与えていた。しかも、どの傷も決して浅くはない。

 どこで得た知識かも判らないが、海の水と人間の血は似通ったものだということは知っている。その所為せいなのか、流れ出る血は端から海水に溶けて止まる気配がない。

 二頭の海蛇かいだとフィーリアの案内で、束の間の避難場所に辿り着いた彼女達は、緊急を要するティルダールの応急処置に取り掛かった。シルヴィアは、ティルダールが身に付けていた革紐や自分と彼のボロ布と化した衣服で止血帯を作り、フィーリアはメロウが使うという止血用の薬を、ティルダールの傷の為に用意してくれた。地上で使用するような薬は、この海の底では役に立たないらしい。そもそも、薬の持ち合わせがないのだ。

 フィーリアは、懸命にティルダールに声を掛けながら、淀みなく手を動かし続けるシルヴィアを、複雑な心境で見ていた。

 つい先程───危急の時に眼前で繰り広げられた状況を、どう理解すればよいのだろう? シルヴィアが───彼女が、遠い昔に亡くなった姉の魂を宿していることは確信出来た。だが、彼女から姉の魂が去り、自分自身を取り戻した後に起こったことは?

 シルヴィアを迎えに来た陸の男性から真紅の花が咲いた時、彼女の動きが止まっていたのが、数秒だったか、数分だったのか、それすら判らない。普通の女性であれば、取り乱し、泣き崩れていただろう。

 だが、シルヴィアは剣士であり、戦う者だった。

『わたしのに触れるなっ!』

 躊躇ためらいいもなく、色を薄める気配のない深紅の花の中に両手を伸ばし、崩れ落ちる体を抱き留めながら放った言葉───その黒曜石の瞳に宿った鋭利で苛烈な気迫。それらは、外敵が少ない海の中で暮らすフィーリアにとって、これまでに触れたことのないものだった。

 姉の魂の影響なのか、シルヴィアは自らの危機には冷静で、諦めることはなくとも攻撃的ではなかった。それなのに、ティルダールに実害が及んだ瞬間から、放つ気配を豹変させたのである。そう、馴染んだ海の娘の気配から、フィーリアが接したことがない、もっと鋭く、凍てつくような別のものに変貌したのだ。

 右手にティルダールから渡された長剣を、左手に彼の手から滑り落ちた直剣を持ち、浮力で軽くなっている男を肩に担ぐような体勢で、両の切っ先を前世の母だと名乗るメロウに向ける

『わたしはわたしので、わたしとこいつはお互いのだ。それ以外の存在が、わたし達に介入することをわたしは許さない』

 酷く───冷徹なほど酷く平坦な声でシルヴィアが云う。その言葉が、地上でティルダールがアルフェスに云い聞かせた言葉と酷似こくじしていることを、フィーリアは知らない。

 その変容に呼応するかのように、薄暮の母の影響下にある筈の南海の海は、急激に水温を下げていった。そして……。

 そして、あり得ないことが起きた。海の底の岩塊の内に存在する大空洞の中に、風だとしか表現出来ないものが吹き始めたのである。

 いや、それは風などという生易しいものですらなかった。強風───暴風といってもいいかもしれない。海の民がその場に留まっていることすら出来ないほどの風が吹き荒れ、海水の熱を奪って氷塊を生み、渦を巻き、障壁を形成する。

風の司神リール・ネ・リュインダよ、仮名かななれど我が銀の風シウヴァン・リュインダの名において、どうか助力を……』

 呟くように云った言葉を聞いたのは、おそらくフィーリアだけだっただろう。

 その言葉と共に“祝福の剣”で風に触れると、それに応じるように氷塊を含んだ風が激しさを増し、海の底に存在しない筈の吹雪となる。それらに紛れることによって、一行は薄暮の母の前から逃げ去ることが出来たのだった。

 あれは、いったい何だったのか。

 海の娘メロウの───海の司神リール・ネ・ネイディスの守護を得る系譜でありながら、風の司神リール・ネ・リュインダの守護を受ける。そんなことが有り得るのだろうか?

 あるいはルーナ・ティアルだけではなく、フィーリアもまた、何か大きな思い違いをしているのかもしれない。



 応急処置とはいえ、懸命の治療の甲斐があってか、ティルダールの出血は止まりつつあった。それでも、青い薄暮の明かりの中でさえ判るほどに顔色は悪く、触れている温もりは薄い。呼吸をしていることだけは確かだが、それも決して力強いものではなかった。

(ああ……だけど、今はこれ以上の何が出来るだろう?)

 ここはあくまでも、一時的な避難場所だ。陸へ戻るにはもう一戦───あるいはもっと、剣を交える必要がある筈だ。フィーリアと二頭の海蛇の助力があるとはいえ、決して容易なことではない。

 陸へ、岬に戻れば、医療師でもあるサイト老の助力が期待出来る。けれども、そこまでの道程のなんと遠いことか……。

(テュール・シン、かないでくれ───わたしを置いて逝かないでくれ)

 あれほど真っ直ぐに自分の気持ちを伝えてくれたティルダールに、シルヴィアはまだ何も応えていない。まだ何も、何一つ───胸に渦巻く強い感情はあるが、シルヴィア自身、その感情の正体が何も掴めていない。だからこそ、伝えることが出来なかった。けれども……。

 けれども、それ以上に、このまま彼を失うことが耐えられない。

 未だ過去の記憶が戻っていないにもかかわらず、彼とアルフェスが自分に深く関係のある者達なのだという確信だけがある。あれほどまで求めた自分の記憶だが、記憶を取り戻せないことよりもティルダールを失うことの方が恐ろしかった。皮肉なことに、その深い恐怖こそが、自らが最も大切に想うものを教えてくれるのだ。

 何も応えられなくとも、何も伝えられなくとも、例え共に歩けなくなったとしても、このユリティスの大地のどこかで生きていてくれればそれでいい。ティルダールとアルフェスが、同じ大地の上で生きていると思えば、彼らを想いながら独りでも生きていける。それほどまでに、彼らを失いたくない自分が居た。

「このまま逝くなんて許さないぞ、テュール・シン。おまえはわたしに道を示した。おまえという道標みちしるべをなくしたら、わたしはまたまよになってしまう───今度は、永遠に……」

 もうどこにも居ない、おまえを求めて───。

 冷えた硬い掌に、温もりを───生気を分け与えるように、自分の手を合わせる。それが何の役に立つのか判らないが、そうせずにはいられなかった。

 ひたすらティルダールに寄り添うシルヴィアと、沈黙のうちに二人を見守る二頭の海蛇とフィーリア───時の流れが緩やかになったような静けさがどのくらい続いたか……。

 やがて、シルヴィアの手の中で、ティルダールの指先がピクリと動いた。

「テュール・シン? 気が付いたのか?」

「シルヴ……来るぞ」

 かすれた声でティルダールは、重なっていたシルヴィアの手に冷たい指で精一杯の力を籠め、警告を放つ。それと同時に、緩く巻いた蜷局とぐろの内でフィーリアを守っていた海蛇達が、同じ方向に向かって鎌首をもたげ、頭部にある虹色の光沢のひれを落ち着きなく動かし始めた。

 ティルダールの容態ばかりに気を取られていたシルヴィアも、意識をそちらに向ければすぐにその気配が判った。彼らが逃れて来た細い通路を進んで来る何か───急ぐことも慌てることもなく、悠然と迫って来る巨大な生き物の気配。

 自ずと高まる緊張感の中で、相変わらず空気を読まない男が、蒼褪めた唇で、呼吸も整わないままに間の抜けた言葉を放った。

「ところで、シルヴ、逃がした筈のおまえが、どうして、ここに居るんだ?」

 寛容な解釈をすれば、負傷によって一部の記憶が混乱しているのだろうと考えられる。しかし、これまでの色々・諸々の行動を加味するならば、単なる天然ボケである確率の方が高い。

 巨大な海蛇に拉致らちされてから、様々な緊張感に長時間さらされて神経が限界に来ていたシルヴィアは、状況にそぐわないティルダールのこの発言にキレた。

「おまえを助けに、わざわざ戻って来たに決まっているだろうっ!」

 重傷を負っているこの男の胸倉を掴み、力の限り揺さ振ってやりたい。それで脳貧血を起こそうと、息の根が止まろうと、知った事か───という気にさえなった。本気で心配していただけに、反動も大きい。

「そう……だったか? それはすまなかった。だが、今は下がれ───」

 発言が天然ボケであろうと、深手を負っているのは事実だ。その声にいつもの力はなく、もがくように体を起こそうとする。加えて、明らかに剣を求めて岩の床を手探りしているのは、貧血で視界が暗いからかもしれない。

「まだ動くのは無理だ、テュール・シン。戦うなら、わたしが───」

「おまえは、逃げろ。あいつの狙いは、おまえだけだ」

 ティルダールが重い動作で、ようやく手にした得物の鞘を払うのと、先程から感じていた巨大な気配がささやかな避難場所に到達するのは、ほぼ同時だった。


 黒とも見紛う藍色の鱗。

 虹の光沢を持つ絹に似た頭部両側の鰭。


 その海蛇がナムチやミズハと異なるのは、その巨大さだ。

 ルーナ・ティアルの共生者として、どれほどの年月を共に生きて来たのか───ナムチやミズハが、メロウ、もしくは人間が騎乗出来るぐらいの体格であるのに対し、この巨大な海蛇は、その顎門あぎとで人間一人を容易くくわえるほどの体格を持っている。

 更に異様なのは、ナムチとミズハが海の民ネレイド海の娘メロウ達と同じ水に溶ける色合いの光彩と瞳孔を持っているにも拘らず、巨大な海蛇は暗い光を宿した真紅の双眸をしていたのだ。

(───前の時も、そうだったか?)

 どうしても違和感の拭いきれず、ティルダールは霞む思考を掻き集め、海岸で一度だけ遭遇した時の記憶を探る。

 あの時は一瞬の出来事だった上、シルヴィアの身柄を奪われたことに気を取られていたので、はっきりと覚えていない。それでも、違ったような気がする。

「───イソラ……母上……?」

 震える声で、微かに呟くフィーリアの声が聞こえた。

 それはおそらく、この海蛇の名前───そして、コ・ルース・リィンに居た遠い昔の子供の頃、領主の一族として学んだ古代の歴史の一隅に登場した、今はもうない国の神の名前だった。確かに海蛇のイソラは、神の名を冠するに相応しい威厳のある生き物だった───その瞳の色を除けば。

 だが、『母上』というのは?

「翼あるものの名を持つ陸の男よ、そこまで傷付いてなお、我が娘をめとろうというのか?」

 剣を杖替わりに使い、辛うじて立ち上がったティルダールを嘲笑うように、海蛇が───その共生者が海蛇を通して云う。

「そして、我が娘の魂を宿す者よ、このまま陸に戻って何とする? そなたが持つ真紅の水玉アクアに封じた記憶を開放出来るのは、このわたくしたけだというのに。それとも───その水玉をただ珍しいだけの宝玉とし、失われたそなた自身が、あれほどまでに固執した過去を諦めるのか?」

 失われたシルヴィア自身───その言葉に、ティルダールとシルヴィアは敏感に反応した。

「どういうことだ?」

 恐れでも畏れでもない感情で震える声で、シルヴィアが訊く。すると、海蛇の体を借りた薄暮の母は、凍り付くような含みわらいを漏らした。

「おまえが見失った過去のおまえは、我が血に連なる者に相応ふさわしく気丈で誇り高い娘だったが、その水玉に記憶を封じられると判って、わたくしに泣きながら懇願こんがんしたものよ。『それだけはやめてくれ』とな」

 何故、そんなことを嗤いながら云えるのか?───聞いた瞬間から、沸騰した血が逆流するようだった。

 『愛しい我が娘』と云いながら、その相手の引き裂かれるような苦痛を自らが与え、嗤いながら話すとは───その尋常ではない在り様に身の毛がよだつ。

 シルヴィアが過ごして来た、自分の中に存在する空白と対峙する耐え難い日々も、ティルダールが続けて来た、当ても光明も見出せない放浪の旅も、すべてはこの愛という名を冠した妄執から生まれたのだ。そして、必死の抵抗を試みた筈のエリア・シルヴィアの嘆きも……。

 相手が誰であろうと───例え、神にも近しい者であろうと、愛を理由にしてこのような悲劇を与える権利はない。

 断じて。

 言葉も出ない二人の激情を感じているのか、いないのか、薄暮の母は更に続けた。

「その水玉をここに残して、二人でこの海を離れるか? 構わぬぞ? どのみちその水玉は、おまえの元に戻る。切り離された記憶が、元の肉体を慕うように───わたくしの力でも、それを防ぐことは為し得なかった。ただし、その水玉を手元に置く限り、わたくしの眼と魔力も、おまえとは切り離し難く共に在り続けるだろう。それでもいいなら、行くがよい」

 この真紅の水玉で造られたサークレットを持っている限り、ルーナ・ティアルの監視と干渉からは逃れられないということだ。懐に忍ばせていたサークレットを取り出すシルヴィアの手は、細かく震えていた。

 そんな干渉は真っ平御免だ。それならば、いっそ───そう思って握り締めたサークレットだったが、どうしても叩き返すことが出来ない。この水玉の中には、かつての自分がどうしても失いたくないと願った記憶が封じられている。言い換えればそれは、シルヴィアが最も思い出したいと求めている記憶に他ならないからだ。

「エリィが泣いた?」

 逡巡しゅんじゅんするシルヴィアのすぐ隣で、ティルダールの呟きは殺気に満ちていた。

「俺とアルフから力ずくで引き離した上、そこまであいつを追い詰めたのか? エリィとアルフを泣かせ、シルヴィアやフィーリア殿まで泣かせて、それほどまでに自分の妄執が大事なのかっ!」

 放たれたのは、重傷を負っている人間とは思えないほどの怒声だった。

 ティルダールが何らかの言葉を叩きつけると、ルーナ・ティアルはその度に返答に詰まり、次には怒りにも似た感情を爆発させる。おそらくそれは、ティルダールの言葉一つ一つに何らかの心当たりがあり、あまりにも痛いところを突いているからかもしれない。

 今度もまた、海蛇の体を借りた薄暮の母は、怒りと妄執に因って真紅に染めた双眸をぎらつかせ、無言のまま魔力を放った。

 狂気に満ちた魔眼に捕らえられたのは、これまで標的にされていたシルヴィアではなく、彼女が握り締めているサークレットの方だった。

 そして、魔力を受けたサークレットは、突然生き物のように動いた───いや、変化へんげした。その姿は、まさしく真紅の宝石で出来た小さな蛇。半透明の細い体をシルヴィアの腕に巻き付け、注ぎ込まれる魔力の主に向けて、声なき声を放つ。それに応えて、イソラの内のルーナ・ティアルは、海蛇独特のさえずる声で蛇を招いた。

 たった一つのサークレット構成していた水玉に、そのサークレットが変化した小さな蛇に、どれほどまでの魔力が籠められていたのか……。宝玉から生まれた蛇は、腕を捕らえただけのシルヴィア諸共に、力強く魔力の主の元に向かい始めたのである。

 不自然な力の作用で、シルヴィアの身体が大きく傾ぐ。海水の浮力で不安定な足場に踏ん張ることも出来ず、砂地と岩場の海底では掴まるどんな場所も無く、シルヴィアはそのまま真紅の蛇に引き摺られようとしていた。結局、どんな言葉を弄していようと、ルーナ・ティアルはどのみち、シルヴィア自身を諦める気など無かったのだ。

 サークレットを握っていた右手を引かれ、シルヴィアの足が砂地から離れ、水中に浮き上がる。そのまま引き摺られて行きそうなのを阻止したのは、咄嗟とっさに左腕を掴んだティルダールだった。

「放せ、テュール・シンっ!」

「断るっ!」

「おまえまで捕まる───殺されるぞっ!」

「俺は、二度とおまえを離れる気はないっ!」

 どこにそんな力が残っていたのか、満身創痍まんしんそういの男は、利き手の力と気合いだけで、シルヴィアを自分の体の近くまで引き寄せた。全身の筋肉に負荷が掛かった反動で、止血したばかりの傷口が開き、再び周囲を淡い紅に染める出血が始まる。

「駄目だ、テュール・シン、これ以上血を失えば、おまえが……」

「俺にしっかり掴まれ。その蛇を───サークレットを手放すんだ、シルヴ。記憶が戻っても、おまえが居なければ意味がない」

「けど、手放しても戻って来ると、ルーナ・ティアルが……」

「サークレットに籠められた魔力を斬る。過去の時の中に居る俺達より、目の前に居る俺とアルフを、俺を選べ、シルヴィア・リューイン───エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラル」

 シルヴィアを構成する二つの名前。

 その名を、どれほどの想いで呼んだのか、掴まれた腕に伝わる掌の脈動から、射抜くように見つめて来る榛色はしばみいろの眼差しから、痛いほどに伝わって来る。

 シルヴィアにとっては、自分の内に存在する空白を埋めたくて、必死に求めて来た過去の記憶だった。

 けれども、思い出せない記憶の中に存在する大切な者が、今ここに、手が届く所に居るということが、もうシルヴィアにも判っている。『おまえが居なければ意味がない』───ティルダールの想いは、そのままシルヴィアの想いでもあるのだ。

 目の奥が酷く熱くなって、堪え切れない涙が溢れるのが判る。だが、その涙は海水に溶け、頬を伝うことはなかった。そして今度の涙は、月光石ムーンストーンと見紛う希石きせき、メロウの涙に変化することもなかった。

「テュール・シン、おまえと行く。おまえ達と生きたい。わたしの鎖を断ち切ってくれ」

 深い光を湛えた漆黒の双眸でティルダールの眼差しを受け止めながら、シルヴィアもまた渾身こんしんの力で、真紅の蛇を引き寄せる。

(すまない、エリア・シルヴィア───忘れてしまったもう一人のわたし。貴女を取り戻したかった。誰よりも、テュール・シンとアルフの為に……。だけど、きっと貴女も同じ選択をする筈。記憶という繋がりはなくても、貴女はわたし、わたしは貴女なのだから)

 真紅の水玉が変化した蛇は、未だ信じられない力でシルヴィアをルーナ・ティアルの元に導こうとしている。それ故、シルヴィアの力だけでは、ティルダールの切っ先が辛うじて届く所まで引き寄せるのが精一杯だった。

 それで充分だ───と、ティルダールは肯き、利き手に持った剣の切っ先を真っ直ぐに真紅の蛇に向ける。

 ティルダールがそれを認識していたかどうかは判らないが、まだ意識が朦朧もうろうとしていた中で彼が手にした剣は、旅の戦士から譲り受け、魔力を斬ることが出来る“祝福”を与えられた直剣の方だった。

「剣に“祝福”を下さった名も知れぬ御方よ、今一度、その力をお借りする。何処いずこかにおわす貴方に、心からの感謝を」

 魔法を使えず、魔力も持たないティルダールが、何らかの呪文を唱えることはない。だからこそ、思わず口にした言葉は、文字通り感謝の意を語ったもので、ある意味では祈りにも近いものだった。

 今現在も、徐々にルーナ・ティアルを宿す海蛇のイソラが居る方向へ引き寄せられている状況で、時間の余裕などない。

 ティルダールは躊躇うことなくぐように直剣を振り、鎌首をもたげていた真紅の蛇の頭を切り払い、返す刃でシルヴィアから離れた胴体をも両断した。

 元は水玉が変化した蛇である。頭を失い、身体を切られたからか、魔力を断たれたからなのか───蛇の形をたちまち失い、サークレトの形もまた崩れ去り、幾つもの真紅の水玉となって散っていく。

 シルヴィアが、海流に流されて落ちて行く水玉の一つに手を伸ばしたのは、何かを考えての行動ではなかった。

 長い間シルヴィアの記憶を封じ、ルーナ・ティアルが彼女を逃さない為に与えた鎖だったのだとしても、真紅の水玉という稀さ故に、彼女の身元の唯一の証なのだと信じて、共に旅をし、心の拠り所にしてきた大切な物だったのだ。仕方ないとはいえ、それが失われる瞬間に、手を伸べないでいられるだろうか?───そんな、無意識の行動だったのである。

 彼らの動きが止まったその一瞬を、ルーナ・ティアルが見逃すことはなかった。共生者と意識を共有する巨大な海蛇が身震いをするように動く。

「ナムチ、ミズハ、イソラを止めてっ!」

 悲鳴に近いフィーリアの叫び。

 様々な動きと想いが交錯したその瞬間、シルヴィアにはすべてが時を引き延ばしたかのように緩やかに、克明に見えた。


 あまりに巨大なイソラの前に躍り出た二頭の海蛇───明るい南の海の色をしたナムチと、青金石に似たきらめきのミズハ。

 黒とも見紛う藍色のイソラと、ルーナ・ティアルの狂気に満ちた妄執に染まる禍々しい赤い瞳。


(母上───母上、母上っ!)

 それは、シルヴィアの魂の底に沈んだ筈の海の娘の叫びだった。

 当然のことながら、シルヴィアは自分の母親どころか、出自や系譜のすべてを知らない。そして、エリア・シルヴィアの領主である父親の話は聞いたが、母親の話は全く出て来なかった。おそらく、何らかの理由で永い不在なのだろう。

 だから、シルヴィアが知る『母親』という存在は、ルーナ・ティアルただ一人なのだ。

 優しくて、温かくて、厳しくて、世界の誰よりも自分の味方で居てくれる───そんな母親のイメージがある。サジムの母親がそれに近かった。“竜の戦士一行”を名乗った詐欺集団の姉弟、その詐欺の一味の姉でさえ、同じイメージの匂いがした。しかし、ルーナ・ティアルは……。

 最初からそうではなかったのだと、海の娘の嘆きが教えてくれる。愛情というのは、どこかで掛け違えてしまえば、こうまで変質してしまうものなのか───今となっては、あの赤く染まった瞳が哀しい。

 アルフェスという愛しいばかりの子を知ってしまった後だけに、ただ哀しいばかりだった。

 イソラが、自分の半分ほどの大きさしかないナムチとミズハを撥ね退け、巨大な顎門を開きながら迫って来る。

 背後から伸びて来たティルダールの腕がシルヴィアを深く抱き寄せ、身体の近くから投擲とうてきされた銀色の細長い光が、遠退きながら星のように煌めいている赤い水玉の間を縫って、イソラの赤い瞳の一つに吸い込まれて行く。

(では、母上───)

 それは、想いだった。

(貴女の嘆きへの手向たむけに、せめてわたしの一部を差し上げます)

 見送る銀と赤の光が消えるより先に、水圧の塊と何かの衝撃が襲って来て、シルヴィアの意識は薄れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る