─── 5 ───

 不自然なまでに静まり返った広大な空間───その異質な雰囲気の中で、ティルダールは何事も無かったかのように言葉を続けた。

「子供を慈しむあまりに子離れ出来ていない親───ルーナ・ティアル、それがおまえの真の姿だ。時を止めでもしない限り、子供が子供のままでいることはない。成長して大人になり、伴侶を得てまた子を生し、生命をつなぐ。人間も精霊族も、他のあらゆる生き物にも通じる自然の摂理せつりだ。おまえは親の愛情を言い訳に、我が子を自分の思い通りに操ろうとしている。普通の人間にもそういう親は居るが、それこそが親の我が儘以外の何だ?」

 晴れ晴れと、いっそこの場に相応ふさわしくないほど明解に、ティルダールは断言した。

「───黙れ」

 誰の目にも明白に不利な状況にいる弱者である者の口調と対照的に、この場における最も強者である筈の女主人の声は、地を這い、周囲を満たす海水を重く震わせるように低い。

「確かに、我が子が先に旅立ってしまうのは、言葉に尽くせないほど哀しいだろう。だが、それが不慮ふりょの死などではなく、我が子が無事に大人になり、生涯の伴侶を得て、幸福の内にその一生を終えることが出来たのなら、それを喜んで、めてやるのが親の勤めだろう。なのにおまえは、自らの執着に捕らわれてそれを拒んだ」

「たかが陸の人間風情が、判ったような口を───」

「判るとも、俺も親だからな。抱く気持ちに種族の違いなど関係あるまい。その事実を認めたくないのなら、それもいいだろう。だが、おまえの在り様がおまえの子供達にとってどんなに迷惑であっても、俺達には関係ないことだ。だから、俺の妻は返して貰う。金輪際、俺達に係わるな」

 強い言葉で断言したティルダールは、未だ伝説の海の娘の魂を表面化させているシルヴィアの腕を取り、あっさり海の民の女主人に背を向けた。話は終わったとばかりに。

「いけません、まだ───」

 フィーリアの叫びと、愛と生命の賛歌だった姉娘の歌声とは全く異なる、重くとどろくような歌声が響くのは、ほぼ同時───それは、怒りと嘆き、哀しみと絶望を歌う、失意の歌だった。


 繰り返される哀しみ。

 繰り返される喪失感。

 繰り返される怒りと絶望。


 過ぎた事だと忘れようとしても忘れられず、深く心を傾けていただけに、折に触れて蘇る愛しさ───大切に慈しんでいた分だけ、失った哀しみは絶えることなく、それらは時の流れの内に混ざり合い、変質して、狂気を孕んだ怒りへと転化する。その愛憎入り乱れる想いが歌になり、大広間を満たす海水に影響を与え、閉じられたこの場で発生する筈がない潮流を生み出そうとしていた。

「ナムチ、シルヴとフィーリア殿を」

 短い道行きの同行者とはいえ、困難を共に乗り越えた海蛇かいだへの信頼は厚い。すでに頭をフィーリアに寄せていたナムチは、ティルダールの呼び掛けに応えて、喉の奥を小鳥のように鳴らした。

「残っては駄目、あなたも一緒に」

 すでにティルダールに腕を捕らわれていたシルヴィア=海の娘は、捕らわれた腕ごと彼を引く。

 そして彼女は、間近に引き寄せて初めて、ティルダールの右手に握られた直剣に気付いて息を呑んだ。

 かつて、通りすがりの旅の戦士から譲られ、サイト老によって『祝福が籠められている』と評された短めの直剣───その『祝福』の力は、魔力を持つ彼女には覚えがあるものだった。

殿しんがりが必要だ。おまえは先に行け。アルフが待っている」

 驚いたように見開かれたティルダールを振り返る双眸は、未だメロウ特有の漆黒の玻璃細工はりざいくのままだ。その玻璃細工の向こうに居るシルヴィアに向かって、ティルダールは微笑みさえ浮かべて云う。彼は───最初からそのつもりだったのだ。

「あなた───テュール・シン……?」

 美しくも人外のものだった双眸が、見る間に人間のそれに変わっていく。光を取り込んで宝石のようなきらめきを放つ玻璃細工の瞳から、すっかり見慣れた生気を宿す黒曜石の瞳に。

「行け」

 シルヴィアが戻った事を確認したティルダールは、いつも眼光鋭い目元も柔らかく和ませた。そして、彼女の手に自分の長剣を強引に持たせ、短い言葉と共に掴んでいた彼女の腕を放し、ナムチの方へと背を押して流れに乗せる。徐々に速くなる潮流に乗って、シルヴィアの身体は、彼の思惑通りにフィーリアとナムチの方に流されて行き、優しい、柔らかな腕がシルヴィアを抱き留めた。フィーリアの腕だ───何故か、見ることもなく、それが判る。

 先程まで深く沈み込んでいた意識の底で、シルヴィアはの海の娘の言動や想いを、我が事のように感じていた。そして今、急激に浮上して行く自らの意識の中で、血の記憶の底に戻って行く彼女の祈るような叫びもまた、はっきりと聞こえていたのである。

『我が君───ユリティスに在りし唯一なる我が王よ、我が愛し子の末裔すえにどうか守護を……』

 ユリティスに王と呼ばれる存在は、ただ一人しか存在しない。神話や伝承の中にしか存在しない、それでも世界に在ると語られる唯一の王・竜の戦士。それは、ただの祈りなのかもしれない───けれども、ここには居ないその王へ、今、この時に願うことの意味が、シルヴィアには判らなかった。

 それよりも───。

 徐々に遠ざかる背中───視覚には映らなくても、速く、鋭くなっていく潮流に、やいばのような力と殺意が籠められていることが、剣士であるシルヴィアには判る。魔力を持つ半精霊族の力を注がれた冷気すら感じるその刃が、シルヴィア一行よりもむしろティルダールに向けられていることも……。

「テュール・シンっ!」

 シルヴィアが思わず叫んだ声と、潮流の狭間に生まれた刃があらゆる方向からティルダールに襲い掛かるのは、ほぼ同時だった。

 瞼の裏に、次の瞬間に起こる事の幻影が映る。

 シルヴィアを抱きしめた温かく大きな体や腕を無数の刃が襲い、彼の周囲は淡紅色の液体に覆われるだろう。癖のある髪も、衣服も、肉も切り裂かれ、身体の一部が色付いた海流に流されて行く───そんな幻影が……。

 しかし、その幻影は現実にはならなかった。

 一人残ったティルダールは、不安定な水中で身構えると、右手にあった直剣を利き手の左手に持ち替えて、見えざる凶刃を迎え撃ったのである。

 使い慣れた長剣とは違う、短い尺の直剣だ。それでもティルダールは、襲い来る不可視の凶刃を間近に引き寄せ、戦いに身を置く者だけが持ち得る感覚でその存在を捕らえて巧みに弾き返した。

 通常の人間が持つ武器であれば、為し得ないことだった。魔力を帯びた攻撃に対抗するには、それなりの力を持つ武器が必要になる。シルヴィアは、何の変哲もない短い剣に見えるその直剣が、何者かの祝福を得た物だということを知らない。ただ、繋がったもう一つの魂の驚愕と、古びた直剣に感じた力に対する或る種の確信を感じ取っていた。

 通りすがりの旅人に貰ったという剣に、何故そのような力が籠められているのかは判らない。それでも、その直剣が持つ力だけが、魔力による攻撃に対抗する為の唯一の武器なのだ。

 短い海中での旅で、ある程度動くコツを覚えたのか、ティルダールの身のこなしは様になっている。だが、頼れる足場もない場所での戦闘には限界があった。ましてや、周囲を取り巻く海水すべてが、ルーナ・ティアルの怒りに呼応している状況では、なおのこと……。

 現に、無数に迫る凶刃のすべてをかわし切ることは出来ず、掠める刃が少しずつ彼に手傷を追わせていく様が、徐々に遠ざかるシルヴィアには判った。

 一方で、ルーナ・ティアルと娘達の話が終わるまで控えていた海の民ネレイドの戦士達が、シルヴィア達を追う為に、ティルダールを囲い込む為に、再び集まり始めているのも見える。

(駄目だ・駄目だ───駄目だ……)

 同じ言葉が、思考の中をぐるぐると回る。何が駄目なのか、それがどうしてなのか───論理的な考えがまとまるより先に、先程まで融合していた魂の内より迸り出る叫びがあった。

 コ・ルース・リィンの伝説に残る海の娘が信頼する、力を貸してくれるもう一つの存在に向けて。

「ミヅハ───もう一人のわたしの大切な友。この声が聞こえるなら、どうかここへ。今一度、わたしに力を貸して」

 高らかに呼ぶ声は、もはや海の娘メロウの一族のものではなく、シルヴィア本来の人間の声だ。それでも、応えがある。蒼穹にどこまでも響く鳥の歌のような声が、さして遠くはない場所で聞こえた───シルヴィアに応える海蛇の声が。

 間を置かず、天井近くから舞い降りて来る新たなる海蛇があった。ナムチより大きく、ルーナ・ティアルの海蛇よりは小さい。その鱗の色は青金石ラピスラズリよりやや明るい青。だが、海蛇の鱗が持つ金属質な光沢に金彩のごとき煌めきを宿しているが故、なおのこと青金石で造形された生き物のように見える。その新たなる海蛇は、周囲の状況や他の者には目もくれず、まっしぐらにシルヴィアの元へとやって来た。

「ありがとう、ミヅハ、来てくれて───貴方を残して行ったわたし達を許してくれるの?」

 それはかつて、コ・ルース・リィンにした伝説の海の娘と共生していた海蛇だった。片割れがこの海を去った後も別の共生者を選ばず、この海に留まり続けていたのだ。

「わたしが判るのね? 力を貸してくれる?」

 云いながらシルヴィアは、腰に回されているフィーリアの腕をそっと外した。背後で息を呑む気配。

「いけません、危険です。どうかあの方のお気持ちを……」

「判っている。けれど、わたしだって、あいつを残しては行けない」

 地上ではあの子が、アルフェスが待っている。

 優しいあの子は、シルヴィアが戻らなくても哀しんでくれるだろうが、ティルダールが戻らなければ、より一層哀しむだろう。ティルダールを伴わずして、どの面を下げてあの子に会えるものか───二人一緒に戻らなくては、意味がないのだ。

 シルヴィアはナムチからミヅハに移りながら、儚げな銀細工のごとき海の娘を振り返った。

「わたし達を助けようとしてくれてありがとう、フィーリア。心の底から───あなたの無事と幸福を願っている」

 深く、静かな海の森で、産まれた時から慈しんできた。愛情深く、心優しい末の妹───その想いの残り香が、まだシルヴィアの内に漂っている。だが、それは遠い過去に失われた想いだ。シルヴィア自身の想いではない。ただ、伝えられなかった温かな想いは、受け取り手に届ける為だけに、シルヴィアの内に残されたような気さえしていた。

 伝言者としての務めを終えるとシルヴィアは、きっぱりとフィーリアから視線を切り、今の自分が想いを向けるべき相手へと気持ちを切り替え、身を寄せたミヅハの首を優しく叩いた。

「あいつの側に連れて行ってくれ」

 新たに現れた海蛇は、喉の奥で柔らかく応えた。



 独り残して来た、幼い息子の弾けるような笑顔が脳裏をよぎる。

 自分によく似た黒髪の癖毛と、何者にも代え難い相棒とそっくりな雪解け水色の瞳を持つ、最愛の一人息子───どちらかといえば激しい気性の相棒や、表面上取り繕っているとはいえ穏やかとは言い難い自分とは違い、優しくて聡く、穏やかな気質の自慢の息子だ。性格的には、母親であるエリア・シルヴィアの弟、シェイン・フィルに似たのかもしれない。

 無心に剣を振るっていると、いつも大切な者達の顔が浮かぶ。

 剣士の修行を積み、常に危険に曝される相棒を護る為に過酷な戦いを越えて来たティルダールは、本来一人でさばくことが不可能な無数の凶刃に対峙し、本能に従って剣を振るっていた。一つひとつ考えていては間に合わないほどの危機にひんした時、考えることを放棄して、生存本能に生命を託す他ないのだと、これまでの戦いで学んでいる。

 けれども、自分がしている戦いが時間稼ぎであることを、ティルダールは充分に判っていた。ルーナ・ティアルという強大な魔力を持つ女主人が率いる海の民達に対し、戦況を逆転させる決定打をティルダールは持たない。それでも彼らの前に立ち塞がるのは、シルヴィアが逃げる為の時間を得る為だ。なによりも、シルヴィアをアルフェスの元に帰す為だった。

 エリア・シルヴィアを見失ってから、放浪する旅の日々の中だったとはいえ、ティルダールは六年もの間ずっとアルフェスと伴に居た。赤子だったアルフェスの成長を見守り、様々な表情に触れ、惜しみない愛情を注いで来た。だからもう充分だ───とは、嘘でも云えない。勿論、もっとずっと伴に居たい。これまで以上に慈しみ、幼さ故にまだ教えてやれていない様々なことを教えながら、日々の成長を伴に喜び、まだずっと、ずっと───やがてアルフェスが立派な青年になるまで、ずっと伴に一緒に居たい。

 しかしエリア・シルヴィア=シルヴィアは、ティルダールとアルフェスが二人で旅をしていた年月、記憶を失ったまま独りでさすらっていたのだ。もしも、ティルダールとシルヴィアの内どちらかしか戻れないのであれば、シルヴィアが戻るべきだ。今度は、シルヴィアがアルフェスと伴に過ごし、慈しみ、日々を重ねるべきなのだ。ティルダールは、エリア・シルヴィアと過ごした日々も、アルフェスと伴に過ごした日々も持っているが、アルフェスは母親を知らず、シルヴィア=エリア・シルヴィアもまた最愛の息子と過ごした日々を持たないのだから。

 明らかな殺意を持って、全方向から襲い来る凶刃を弾き返しながらも、徐々に手傷が増えていく。深手ではないとはいえ、シルヴィアの元に辿り着くまでの負傷を合わせると、決して軽視は出来ない状況になってきていた。瞬時に海水に溶け、視覚に捕らえることが出来なくとも、負った傷から出血し続けていることは体感で判る。思考が戦うことに集中している為、痛みはほとんど感じないが、このままでは突然動けなくなる瞬間が訪れるかもしれない。

 ティルダールがそう思い始めた時、実体を持たない海流の刃ではなく、肉を切り裂く本物の刃を持つ武器が身近に迫って来た。もはや見慣れたといってもいい、海の民の三叉鉾である。

 投擲とうてきされた二本はなんとか躱したが、海の民による包囲はほぼ完成しつつあった。

 この謁見の間ともいうべき大広間に辿り着くまでの攻防では、ナムチの巧みな案内と狭い通路を利用した戦術とで、何とか有利に事を進めることが出来た。だが、この全方向に開けた空間と余りにも差がある多勢に無勢では、活路などあろう筈もない。かくなる上はルーナ・ティアルに対して、致命傷は為し得なくとも、シルヴィアに対する執着を削ぐ一撃を───。

 生命を賭した賭けを決意しかけた時、ティルダールのすぐ近くに巨大な別の存在が滑り込んで来た。ほぼ同時に、ティルダールの傍らで翻る銀光と白銀の髪───彼に対する敵意や殺意を持たないが故に、全く気付かなかった別の存在。

「実体のある刃は任せろっ!」

 すでに聞き慣れた歯切れの良い声。それが誰かを、確認するまでもない。

「おまえは莫迦かっ! 何故戻って来たっ!」

「莫迦はどっちだっ! 死にたがりか、おまえはっ!」

「おまえを助けに来たんだから、おまえが無事に戻らなくては意味がないだろうっ!」

「わたしが一人で戻って、アルフに合わせる顔があるかっ!」

 軽妙に罵り合いながらも、二人は絶妙に息が合っていた。

 合流したその瞬間から互いに背中を合わせ、シルヴィアが投擲される三叉鉾の対応を、魔力に対抗できる直剣を持つティルダールが視覚で捕らえられない水の刃の対応を受け持つ。巧みに場所を入れ替えながら剣を振るう二人に近付く海の民を、新たに現れた海蛇・ミヅハが、その長大な身体を使って牽制した。

 一人対多数が、二人+一匹対多数になったからといって、戦況に大きな差異はない。だが、一人であることと一人ではないこととでは、少数派の戦意に大きな違いがあった。

「一点突破だ。一息に抜ける」

「判った」

 海の民の包囲網は、二人を中心にして外側から包囲を狭めて来る。それに対して、ルーナ・ティアルの感情と魔力に反応して襲って来る見えない刃は、ルーナ・ティアルを中央に広間の内側から攻めて来ることを、戦場に慣れている二人はすでに把握していた。故に、魔力に対抗し得る直剣を持つティルダールが背後を守り、ミヅハが示す脱出経路方面をシルヴィアが切り開く。

 すると、じりじりと脱出可能な経路を辿り始めた一行に、しばらくの間沈黙を保っていた存在が、陥った闇の深さを感じさせる柔和な声で語り掛けてきた。

「この陸の男を押さえておけば、きっとおまえは戻ると思っていたよ───我が娘」

 どこかに狂気を孕んだその優しい口調が、肌が粟立つほどに恐ろしく、気味が悪い。

「おまえがわたくしの望むように再び海の娘となり、もう一度『メロウの涙』を手にすれば、この海でその男を海の民の伴侶として迎えることもできるだろう。おまえが、我が元に居るとそういうのであれば、それを許そう。おまえは我が娘、我が後継ぎ───やがて、この海の薄暮の母となる者なのだから」

 母の、親の愛情というものは、軌道を外れるとここまで盲目的になるものなのだろうか?───彼女の言葉を聞きながら、シルヴィアは手の震えを抑えることが出来なかった。

 この大広間で交わされた会話の多くが───シルヴィアやティルダールの言葉は勿論、彼女に訴えかけるフィーリアの言葉も、束の間蘇った姉娘の言葉も、何一つ届いていないように感じられる。そうであるならば、もしシルヴィアがルーナ・ティアルの娘として戻って来たとしても、彼女が満たされることはないだろう。誰の言葉一つ受け入れられないほどに心を閉ざしているのならば、何を得たとしても彼女の渇きが癒されることなどない。

 そんなルーナ・ティアルの言葉に応えたのは、今度もティルダールだった。

「まだ判らないようだな。例え未熟だったとしても、我が子を信じて送り出すのが親の勤めだろうに。俺は、あまりにも未熟だった俺達を、それでも信じて送り出してくれた親の姿を知っている。俺達は、信じてもらえたからこそ、その信頼に応えようとして来た。そういうものではないのか?」

 そこまで云って、ティルダールは口調をがらりと変えた。低く、恫喝どうかつするような剣呑なものに。

「なのに、おまえはそうしなかった。手元を離れた我が子が、遠い土地で人の短い一生を終えたことで、自分一人の哀しみに溺れ続け───挙句の果てに、おまえの娘の魂を宿したシルヴの意思と記憶を操り、あまつさえ人として生まれたシルヴの身体を利用して、本来の生を終えた娘の魂を本人達の意思を無視して蘇らせるなんてことは、まともな親が考えることじゃない。今のおまえは、おまえの哀しみに寄り添おうとしたフィーリア殿のことすら見えていないだろう。語るに落ちたな、今のシルヴは海の娘などではない。何にも縛られず、自由に吹き渡る風こそがこいつの本質だ。記憶のないこいつに銀の風シルヴィア・リューインの名を与えたサイト老の方が、余程慧眼だったぞ───ファタ・メイサ・モルガナ運命を与えられた乙女

 ティルダールが口にした名は、その場に居る少ない血族を除いて、誰も耳にしたことがない名だった。

 それは秘められた名───真名まなと呼ばれる、その者の魂を表す真実の名前。

 力ある魔法使いや強い魔力を持つ者に知られれば、魂まで支配されかねないほどに、名の持ち主の根源に深く係わる名だった。決して、ティルダールが知り得る筈のない……。

 真名は、力を持つ言霊ことだま───そして、軽々けいけいに口にしてはならない禁断の名前でもある。その名をティルダールが口にした次の瞬間、最も速く動いたのは誰だったか……。

 覚悟の上でその名を口にしたティルダールは、背後に居たシルヴィアをミズハの方へ突き飛ばし、瞬時に母親を止められないと悟ったフィーリアは、悲鳴のような声で一無二の王を呼んだ。そしてルーナ・ティアルは表情を凍らせ、優雅な指先から手加減無しの力を籠め、一陣の水の刃を放つ。

 シルヴィアは───何も出来なかった。

 様々なことが一瞬で起こり、一呼吸の後にティルダールの体から血飛沫が上がる様を、ただ見ていただけだった。

 海中ではすぐに散ってしまう筈の赤い液体が、花が咲くように広がる様を見ていた。

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