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 水中での機動力にけた圧倒的多数の敵を、曲がりくねった狭い通路を利用して何とかかわし、ティルダールは一人・二人と戦闘不能にしながら、その場その場の機転とナムチの正確な道案内を頼りに、ただ先へ先へと進んだ。

 勿論、どんなに巧妙に立ち回ったとしても、一対多数の攻防で全くの無傷では済まない。最初の頬の傷に始まり、深手を免れているとはいえ、幾度も受ける負傷は衣服や革の防具をも切り裂いていく。消耗品に近い十数本の小柄こづかはほとんど使い切った。気付かぬうちに髪を束ねていた革紐も失われた。肩に届く長さの髪が水に泳いで視界の邪魔になったので、自ら短剣で襟足から切り落とした。

 そうやってどうにかしのぎながら、進み続け───一つの角を曲がった時、歪な形に区切られた光が見えた。

 通路の壁の輪郭しか判別出来ない暗がりの中に居た身には、あまりに唐突な眩し過ぎる光。その光が視界に入った瞬間から、首元にティルダールを乗せたナムチが速度を上げる。

 目的地が近いのだ。

 ナムチが歪な光の輪を潜り抜けた瞬間、光の奔流に視界が焼けた。一片の光もない洞窟に慣れた目には、海の水を透過して降り注ぐ淡い光でさえ、真昼の陽光にも似た輝きを持っていたのである。

 水中独特の光の帯が緩やかに踊る中、ナムチは広大な空間の中空に躍り出ていた。そして、鳥の歌声にも似た声で、怒りと警戒を露わにした叫びを放つ。

 ようやく目が慣れて来たティルダールが、ナムチの声に反応して周囲を見渡すのと、ナムチが一点を目指して矢のごとく泳ぐ速度を上げたこと、そして進行方向から待ち望んだ声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

「テュール・シンっ!」

 ナムチの進行方向───目測でほぼ十間(約18m)下と思われる方向に、見間違える筈もない白銀の髪が見えた、

「シルヴっ!」

 無事でいてくれた───いや、ルーナ・ティアルが彼女を欲しがっていた以上、生命の心配だけはないと考えていたが、シルヴィア自身の意思でティルダールを呼ぶことが出来るぐらいには、無事でいてくれた。ルーナ・ティアルは、人間の記憶を奪うほどの魔力を有しているのだ。最悪の場合、シルヴィアの人格さえ奪われているのではないかと案じていたのである。

 明るい南の海の色をした温厚な海蛇かいだの進撃は、人が───いや、海蛇が変わったように激しく、凄まじいものだった。

 自分達を追撃して来た海の民ネレイドを瞬く間に引き離し、その長大な尾を振るって自らの主とシルヴィアを取り囲んでいる者達を薙ぎ倒したのである。一連のナムチの動きは、蛇に酷似したその姿に相応しく、海の色の鱗に宿る淡い光を含む全てが流れるように滑らかで、動きが計算された殺陣たてのように流麗で、美しさに比例するように容赦が無かった。

 海の民と海蛇は共生していると聞いた。

 ナムチにとってのフィーリアが、主人なのか友人なのか、ある意味での伴侶なのかは判らないが、誰に命令されたわけでもないナムチの行動が、彼らの絆の深さを物語っている。それ故に、速やかに囚われの二人の元に辿り着けたのだから、ティルダールはただ感謝するばかりだった。

「テュール・シン、フィーリアが……」

 すぐ近くに降り立ったティルダールを振り向きながら、勢い込んでシルヴィアが云う───云おうとした。

 しかし、ティルダールはそれ以上の勢いで駆け寄り、問答無用でシルヴィアを両腕で抱き締めたのだ。利き手である左手に愛用の長剣を握ったまま、戦闘の跡も明らかな自分の姿を気にも留めず、ただ広い胸に深く抱き込んだ。

「ちょっ……ちょっと、テュール・シン、今はそれどころじゃあ───おい、苦しい。そんな力を入れたら苦しいからっ!」

 相変わらず言葉が足りない男の唐突な行動に、シルヴィアはひたすらに戸惑い、必死で抗議の声を上げた。すると今度は、一度全身で無事を確かめて満足したのか、簡単にシルヴィアを開放してさっさと倒れているフィーリアに向かう。

 どこまでも言葉足らずで、自分都合で行動する男だ。

 だが、ティルダールの有無をいわせぬ抱擁は、彼がどれほどシルヴィアを心配していたか、無事な姿を見てどれほど安心したかを、幾千の言葉を尽くすより雄弁に語っている。それが嬉しくない女が、どれほど居るだろう。ましてや、相手を憎からず想っているのであれば、尚更に。

 そして、いくらティルダールが優れた剣士とはいえ、シルヴィアと同じに魔法も魔力も持たない陸の人間が一人増えただけだというのに、たったそれだけのことがこんなにも心強い。

「状況は? フィーリア殿を拘束している、網のようなものは何だ?」

 ティルダールもまた、フィーリアに触れようとして叶わず、青い光の編み細工に似たものを淡々と観察し、シルヴィアの方を振り返りもせずに訊いた。

「推測だが、結界の一種だと思う。フィーリアはその結界に動きを奪われ、その後、ルーナ・ティアルの意向に反する言動をした為に、何らかの魔力で意識を奪われた」

 状況説明をしながらも、シルヴィアはティルダールの後ろ姿に胸が痛む。

 切り裂かれた防具や衣服、うなじの部分まで短くなった癖のある黒髪───この場所に来るまでに並々ならぬ戦闘があったことを、否が応でも思い知らされる。つい先程、自分で傷付けた左掌からの出血が続いていることは、血が流れ出る感触で判る。しかし、赤い筈の血は、掌の中でのみ淡紅色に見えるだけで、たちまち海水に溶けて判らなくなってしまう。それならば、ティルダールが傷を負っていても、同じことになっているのではないだろうか?───身に付けた物があれほど切り裂かれていて、体が無傷だとは、とても考えられない。

「なるほど、だから触れることが出来ないと……」

「それともう一つ、わたしの血を媒介にして、このサークレットに記憶が封じられているといっていた」

 手に取ったままの真紅の水玉アクアで作られたサークレットを示すと、ティルダールは一瞬だけ禍々しいほどに紅い宝玉を振り返り、シルヴィアだけに聞こえる低い声で、「判った」と答える。

 彼らが手短に情報交換をしている間、ナムチはフィーリアを含む三人を長大な体で囲い、周囲を警戒しながらも、時折フィーリアを振り返って小鳥が喉を鳴らすような細い声を掛けていた。ナムチはナムチ自身の想いとして、心からフィーリアを心配しているのだ。

「邪魔な陸の男が一人と若い海蛇が加わったとて、そなたらに何が出来るものか。我が城に招かれもせずに訪れただけでも不愉快極まりないが、今であれば、我が娘達を置いて地上に戻るなら見逃そう。これ以上、我が領土の事情に係わらなければな」

 束の間、蚊帳かやの外に置かれていたルーナ・ティアルが、自らの存在を誇示するように威丈高に云い放つ。この場の主人であり、支配者である筈の自分が、ほんの短い時間であったとしても、完全に無視されたことに我慢がならなかったのだ。

 シルヴィアは、本能の奥底から来る畏れに揺さ振られ、ルーナ・ティアルに反応しないことにかなりの努力が必要だった。無意識に視線でティルダールを探し、まるで何事もなく・何も聞こえなかったように、威圧的な声の主を振り返りもしない彼の姿に安堵の息が漏れる。独りではない。こんな所まで迎えに来てくれた彼が、ここに居る。未だ身体に残る抱擁の余韻とその事実が、どれほどシルヴィアにとって心強いか、彼に判るだろうか?

 フィーリアに視線を向けたまま完全にルーナ・ティアルを無視したティルダールは、背中に負った直剣を右手で抜くと、躊躇ためらいのない動作で結界に拘束されている海の娘メロウに向かって振り下ろした。

 その唐突な行動に動揺しなかったのはシルヴィアだけ───ティルダール自身とアルフェスの父親への絶対的な信頼を信じているからだ。けれども、周囲を取り囲んでいるすべての海の民からは悲鳴が上がった。

 例え、海の民の女主人の不況を買ったとはいえ、いわばフィーリアは王女ともいえる存在なのだ。その臣下たる民が動揺しないわけがない。

 だが、ティルダールの直剣が切ったのはフィーリアではなく、彼女を拘束している青い光の結界のみである。人が着ている衣服一枚や、動く人間の表皮だけを狙うことが出来るティルダールの腕ならば、フィーリアを傷つけずに結界だけを切るなど造作もないことだ───と、シルヴィアは思った。そして、思うと同時に疑問が湧く。


 ここまでの旅の何処かで、そんな場面を見たことがあっただろうか?


 よく……判らない。見たような気もするし、見ていないような気もする。ただ、自分はそれを知っているという確信だけがあった。

 美しくさえあった青い光の結界が霧散すると、すぐにフィーリアは息を吹き返した。白い喉が呼吸を求めて反り、虹色の光沢を持つ銀細工のごとき尾鰭が、微かにもがく。

「フィーリアっ!」

 視界の端にそれを捕らえたシルヴィアは、自らの物思いを振り切って、華奢なメロウを抱き起こした。

 無意識の行動だった───その筈だった。

 だが、水中を素早く、滑らかに泳げるように作られた華奢な身体に触れた時、シルヴィアの意識の更に奥底で息づいていた何かの琴線に触れるものがあったのだ。

「フィーリア、しっかりして───お願い、フィーリアっ!」

 海の娘に触れたのは初めてのこと。それでも、いつか・どこかで触れたことがあるという確信がある。陸の人間より低い体温も、絹のように肌理きめ細やかな肌も、陸の人間の耳に当たる部分に扇のように広がる虹色の光沢を持つ鰭も、間違いなくよく知っていて、幾度も触れたことがある───という確信が存在する。その確信が、指先で触れることが出来るほどに強いものになった時、シルヴィアであってシルヴィアではないが、魂が裏返ったように表面に出て来た。それを抑えようと、考える間もなく……。

 シルヴィアの喉から泉の水が湧きだすように、蒼穹に高らかに歌う鳥のような声が溢れる。愛と生命の賛歌とあらゆるものに癒しを与えるような、伸びやかで清しい声が海水に満たされた大広間に響き渡った。その歌声は、結界を切り裂いたあとナムチと共に周囲を警戒していたティルダールや、王女達を何とか無傷で取り返そうと窺っていた海の民達の動きを止めた。その場に居た誰も彼もが、その声の主が判らなかったのである。

「シルヴ……?」

 歌声は、確かにティルダールの背後から発せられた。ゆっくりと振り返りながらの半信半疑の呼び掛けも、無理もないことだった。舞台の上の役者が、衣装を一枚脱ぎ捨てることによって、それまでとは全く違う役柄に変容するように、歌声が響き渡ると共に、迎えに来た背後の半身の気配が変貌したのだ。

 ティルダールの目の前で、肩を覆う程度の長さだった白髪が、僅かな海水の流れに導かれるようにふわりと広がり、一息で腰を覆うほどまで伸びる。そして、躊躇いがちな呼び掛けが聞こえている証拠に、ひざまづいてフィーリアを抱き支えたまま、半分だけ振り返ってティルダールを見た。その瞳は、漆黒の色はそのままに、虹彩も瞳孔もない玻璃細工のようなメロウの瞳に変わっていた。

「……姉さま? 本当に……?」

「ごめんなさい、フィーリア、わたくしのせいで───苦労をかけましたね。本当に、ごめんなさい」

 人間の時間で数世代の時を隔てて再会した姉妹は、言葉少なに互いを気遣い合い、遠い昔に失った筈の互いの手をそうっと取り合った。

 時代を越えた麗しい姉妹愛───だが、それを見ているティルダールの心境は複雑だ。シルヴィアの下半身こそ人間のもののままだが、発する声もまた、鈍化した聴覚に籠りながら届いているような、直接意識の中に明解に響いているような、この海の底に来てから聞いたメロウ独特の響きに変わってしまっていたのである。

 『まさか』───とは思う。

 彼女の中には、本当に先祖に当たる伝説の海の娘の魂が眠っていたのだ。故郷に戻ってその魂が表面に出て来たとはいえ、シルヴィア=エリア・シルヴィアの魂は、それに押し潰されて消えてしまうような軟弱な魂ではない。それに、彼の海の娘は、コ・ルース・リィンを愛した魂の持ち主でもあるのだ。断じて敵ではない。

 それでも、『まさか、あるいは…』と考えてしまうティルダールを、弱いという者はいないだろう。

 言葉もなく最愛の相棒を見守る男の気配を感じたのか、伝説の海の娘の魂を持つ女がほんの少し振り返り、柔らかく微笑むと唇の動きだけで『必ず』と短く云った。

 それがどういう意味かは判らない。『必ず共に帰る』なのか、『必ず元に戻る』なのか───ともあれ、ティルダールが心配するようなことはないという意味なのだと、それだけは確かに理解出来た。───充分だ。

「ようやく帰って来ましたね、最愛の我が娘、わたくしの後継ぎ。長い……長い間、そなたが戻るのを待っていました」

 一連の出来事が一つの決着を迎えたと踏んだのか、ルーナ・ティアルがそれまでとは打って変わった声音で云う。意図的に相手を怯えさせようとしているとしか思えない、威丈高で高圧的な口調は影を潜め、柔らかく慈愛に満ちた口調で、一度は失われた愛娘に呼び掛けた。これまで硬質さしか伝えて来なかった眼差しも、冷たい笑みを浮かべていた唇も、誰もが見た覚えのある優しい母親の顔に変わっている。

 その時、メロウの母娘間の問題なのだと一旦蚊帳の外に出されたティルダールは、ルーナ・ティアルの二人の娘、それぞれの白皙に浮かんだ種類の違う痛みを見逃さなかった。

 砂地に座ったまま、上半身だけをシルヴィア=姉に支えられたフィーリアは、諦めたように銀の光を宿す睫毛を伏せて俯く。何かに耐えるように、愁眉しゅうびを寄せながら。

 そんな妹を痛ましげに見ていたシルヴィア=姉は、切なげな表情と共にやはり両目を閉じた。切なさや痛ましさがあってなお、何らかの決意を固めるように。

 そして再びその双眸を開いた時、シルヴィア=伝説の海の娘は、妹の銀の髪に触れるだけのくちづけをした後、ティルダールと視線を合わせることで妹を託したのである。彼女には、彼女が為さなければならないことがあるが故に。

「長い間、御挨拶に伺うこともままならず、御無礼をいたしました。母上」

 ティルダールが肯いてフィーリアの傍らに来るのを待って、シルヴィアの身体を借りたメロウの王女は立ち上がり、母である海の民の女主人へ、丁寧な言葉と共に最上級の礼をする。それはティルダールにとって、見慣れた陸の人間の様式の礼ではあったが、彼女の動きと共に流れる長い白銀の髪と、気品に溢れた滑らかな動きが舞踊にも似て、他の者には為し得ない優雅さを醸し出していた。

「それはもうよいのです。そなたがこうして、わたくしの元に戻って───」

「母上」

 喜びも露わに言葉を続けようとしたルーナ・ティアルを、後継ぎと目されている伝説の海の娘がきっぱりと遮った。

此度こたびは、かつて為し得なかったおいとまを申し上げに参りました」

 毅然きぜんと顔を上げ、誤解の入る余地のない言葉を伝える。

「何を……?」

 その意味を受け入れ難いのか、あるいは意外過ぎて理解出来ないのか、ルーナ・ティアルは次の言葉を詰まらせた。

「遥か遠方の地だったとはいえ、わたくしを慈しんでくださった母上に、一言のお暇すら告げることが出来なかったことが心残りでした。彼の地で、わたくしは自らの生を託すに足る愛しき方と出会い、結ばれ、望んだ生を全うすることが出来ました。今は、束の間の再会にございます。ずいぶんと遅くはなりましたが、そのご報告と、母上と母上を何より大切に考えているフィーリアと共に、これより永きご健勝をお祈り申し上げます」

 愛娘の淀みない言葉を理解するにつれ、慈母の微笑みを浮かべていたルーナ・ティアルの表情は蒼褪め、元通りの感情が窺い知れないものに変化していく。

「……ならん───ならんぞ。わたくしが、どれほどそなたを待ち侘びたと思うておる。二度と再び、わたくしの元から去ることは許さぬ。そなたが我が後継者。わたくしの後を継ぎ、我が領土を引き継ぐ者」

「母上……今も変わらず敬愛するわたくしの母上、それはもはや叶わぬことなのです。わたくしはわたくしの生を終えました。この束の間の再会は、わたくしの血を濃く引いたこの子が、自らの時を少しだけわたくしに譲ってくれたが故の奇跡。どうかもう、わたくし達を帰してください。この子が愛し、この子を愛する家族の元へ。わたくしが愛した人が慈しみ、彼の魂が眠る愛しい地へ、わたくしを帰してください」

 シルヴィアの身体に宿る海の娘は、長い時の果てに再会した母親に向かって両腕を広げ、誤魔化しも偽りもない本心を真摯しんしに訴えた。彼女が敬愛する母であれば、誠意を持って語り合えば理解してくれるものと信じて。

 だが、彼女は知らなかった。最愛の娘を彼方の土地で亡くした喪失感と、その後に長く続いた孤独な年月が、ルーナ・ティアルの心を歪めてしまったことを。

「いや、それを決して許しはせぬ───ならぬこと。すでにその娘は、メロウとしての力に目覚めかけている。そして、その娘の人間としての血と記憶は、そこな水玉の内に封じたのだ。メロウとして目覚めようとしている娘の身体に、そなたの魂をわたくしの力で繋ぎ留め、新たな海の娘として産み落とそうぞ。さすればそなたらは、二人で一人の、紛うことなき我が娘となるのだ。そなたらはこの南海を治める我が娘にして、我が後継者。すべての生命を育む海の司神リール・ネ・ネイディスの恵みを一身に受ける、海の民の長になるのだ」

 ルーナ・ティアルの想いは、母の愛故ではあった。だがそれは、思い込みと執着に覆われた愛だ。自らが示す道が正しいと信じて疑わず、現実に対峙している我が子が真に望む幸福を、一分たりとも考慮してはいない。

 その妄執にも似た愛を向けられた相手は、ただ立ち竦むしかなかった。

 もはや、どれほど誠心誠意語り掛けたとしても、母の心に届くとは思えない哀しみに───自由意志など決して認めはしないと、宣言されたも同然の盲愛への恐れに……。

 母娘の擦れ違い過ぎた想いの狭間に、言葉を発することすらはばかられる沈黙が生まれる。二人の海の娘と一人の陸の男、一匹の海蛇を、ルーナ・ティアルの命令に従って包囲する海の民も同様だった。

 事の次第は、ルーナ・ティアルの一存に掛かっている。この海の民の女主人の意向がなければ、誰も動くことが叶わない───その場に居るほとんどの者がそう考え、時が凍り付いたように止まった。


 ただ一人───ティルダールを除いて。


 ふとした弾みでも切れかねないキリキリと張り詰めた緊張感の中で、ルーナ・ティアルが自分の勝ちを確信しかけた時、突然、底抜けに明るい笑い声が響き渡ったのだ。

 若い男の声であるそれは、嘲りや侮蔑などの陰の感情を全く含んでいない、ただ単に笑いたいから笑った───という、あっけらかんとした笑い声だった。

 誰しも予想すら出来なかった行動をした陸の男に、全ての者の視線が集まる。当の本人は、現状にそぐわない行動をしている自覚があるのか、どうにか笑いの衝動を抑えようとはしていた。けれども、それは全く叶わず、口元を手で覆いかけてはまた吹き出すを繰り返している。

「この場に無用な陸の男よ。何がそんなに可笑しい」

 問うルーナ・ティアルの声は、氷点下の冷たさを孕んでいた。

「可笑しいとも、薄暮の母よ。おまえ、偉そうに構えて難しい理屈を唱えているが、普通の人間の母親と少しも変わらないではないか」

 ティルダールの口から飛び出したとんでもない爆弾発言に、凍り付いていた海の民は、更に石像化することになった。

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