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海草の森を抜け、一気に居城を懐深く抱く岩山を目指したティルダール一行は、ナムチの素晴らしい速度の泳ぎに助けられて、人間一人が立っていられるだけの広さしかない狭い通路に、何とか滑り込むことが出来た。
しかし、だからといって、警備の
刃物が食い込む筈のない岩に突き刺さる三叉鉾。
ティルダールは「ナムチ、少し待ってくれ」と声を掛けて
「待たせた。すぐに追っ手が来る。出来るだけ見通しの悪い曲がり角が近くにないか? 追っ手の足止めをしたい」
その言葉を承諾したナムチは、鳥が喉を鳴らすようなクルクルという声で答え、即座に行動に移った。首の後ろにティルダールを乗せたまま、蛇族独特の流れるような泳ぎで、迷いなく先へと進む。幾らも行かないうちに、ほぼ直角に曲がる角があり、曲がった先にもう一つ鋭角に曲がるという、非常に進みにくい通路があった。
「すごいな、ナムチ。最高だ」
地形を把握すると、ティルダールはすぐさま行動に移っていた。
ナムチに運んでもらっている間に、準備は済んでいる。回収した三叉鉾に薄い革を裂いて繋げた革紐を括り付け、最初の角を曲がってすぐの死角に突き立てた。そして、もう一本を対角線上に突き立て、更にもう一本を岩壁に突き立てて、三点を結ぶ革紐の罠を仕掛ける。強い抑止力を持たない単純な罠だが、その場にない筈のものが存在すれば、一瞬の隙が生まれるものだ。敵が勢いのまま飛び込んで来てくれれば、なおさらである。
元々、人数でも機動力でも戦力でも、後れをとっている相手なのだ。ほんの僅かなものであっても隙を作り、それを効果的に突かなければ、勝機などある筈がない。
革紐の罠は考えていたが、刃が簡単には通らない岩壁に、どうやって仕掛けるかが問題だった。だが、その手段は敵が提供してくれた。普段からこの環境で暮らしている海の民故に、三叉鉾には岩をも突き通す刃の技術があるか、何らかの魔力が施されているのかもしれない。短刀をチーズに刺すように、簡単に岩に突き刺さる。早い段階でそれを得ることが出来たのは、運が有るといえるのだろう。
とにかくティルダールは、シルヴィア=エリア・シルヴィアを救い出し、アルフェスの元に、コ・ルース・リィンに帰さなければならないのだ。そしてティルダール自身も、生還する道を探すことを諦めるわけにはいかない。最愛の息子とそう約束したのだから。
罠を張り終わるとほぼ同時に、ティルダールとナムチを追跡していた海の民が、雪崩のように狭い通路に飛び込んで来た。それなりに長身のティルダールより、一回りも大きな肉体を持つ複数の海の民───地の利があるという油断と、おのおの手にした三叉鉾など、幾つかの要因が
一撃で仕留めるのは難しい相手だ。狙うのは目や喉や腕の腱───最小の損傷で、戦うことに最大の影響が出る場所である。
先陣を切っていた者の進攻が急に止まると、隊列を組んでいた背後の者が次々とその場に溜まり、密集状態になった。それが狭い通路を選んだ理由の一つだ。
「ナムチ、来るな」
傍らに居る
最初から、すべての追っ手を無力化出来るとは思っていない。先頭集団の数人を落とせば、彼らこそが追っ手にとっての障害物になる。二つ目の狭い場所での有利な点だ。そして三つ目───幾分なりとも冷静な者達が、三叉鉾での反撃に出る。
追っ手に対してそれなりの痛手を与え、長く留まることをせずに離脱する。ティルダールはナムチの巧みな補佐を受けながら、敵が立て直す前に次の角を曲がって姿を晦ました。
見失ってなるものかと、無傷の追っ手達は単純な罠を抜け出し、負傷者を残したまま更に泳ぐ速度を上げて、侵入者を追う。
地の利で有利な彼らは、思ってもみなかっただろう。どういうわけか溺れる気配のない、逃げた筈の陸の人間が、深い角度で曲がった通路の死角に潜み、勢いのまま進んで来た彼らを彼ら自身の武器で狙っていようとは……。
彼ら海の民がこの南海において最も数で勝り、まとまった武力を持つ種族であることに間違いはない。しかし、それ故の慢心こそが付け入る隙になるのだ。この海の深くで、たかが陸の人間一人が反撃出来る筈がないのだと───その思い込みこそが、ティルダールの期待するところだった。
海の民が愛用する長尺の得物が、低い角度から彼らを襲う。狙われたのは、二番目に角を曲がった者だった。
並走する三つの輝きが、無防備に曝された腹部に吸い込まれる。三叉鉾は、一つの穂先しか持たない槍ほど深くは刺さらないが、三つの穂先それぞれに返しを持つが故に、簡単に抜けることもない。ティルダールはその特性を利用して、かなりの体重を持つ筈の相手を強引に三叉鉾ごと後続の勢に投げつけた。
身軽に体を返し、本来着地出来る筈もない天井部分に両足で着地したティルダールは、軽く舌打ちをした。深手は負わせたが、それでも浅い───片腕を切り落とすつもりの斬撃だったのだ。浮力故に体重が乗り切れないのは、ティルダールも同じだった。
ほんの一呼吸の攻防だった───が、意表を突かれたとはいえ、訓練された警備兵は早くも立て直しを計っている。ならば、ここは戦果の大小に拘らずに離脱することだ。少なくとも、二人は削ったのだから。
数限りない相手に、たかが二人を削っただけの戦果───そう感じる者も居るかもしれない。だが、たった一人の侵入者によって戦力を削られるという事実は、多くの者にとっては充分な精神的負荷となる。
そんな心理作戦だけで、どこまでやれるか───ナムチと共に追っ手を引き離し、更に曲がりくねった通路を進みながら必死で次の手を考える。無意識に、鋭い物が掠めた頬を手の甲で拭うと、淡い紅の液体が付着し、たちまち海水に溶けて消えた。おそらく出血していたのだろうが、どうやら短時間で海水に紛れてしまうらしい。通常の戦闘中であっても、余程の痛みでなければ意識に上らないことが多い。そのように訓練されているのだ。これは気を付けていなければ、自分の痛手の度合いを見誤るかもしれない。
判っていたことだが、敵は多く、手持ちの武器は少ない。同じ罠はもう通じないだろう。辛うじて明るい材料といえば、岩山を穿つ灯り一つない通路の奥に入って来てなお、不思議と周囲の様子が見て取れることだけだ。あるいはこれも、『メロウの涙』の恩恵なのかもしれない。
そして、どんな状況でも決して見失ってはならない目的がある。
どれほど不利な戦いに身を投じていようと、追って来る敵を撃破することが目的ではない。生きて、シルヴィアの元に辿り着くことが最重要目的なのだ。
漁で水揚げされた魚のように、実の母の放った力でがんじがらめにされ、白い砂の上に沈んで来た
しかし一方では、ふつふつと勢いよく湧き上がる怒りもまた存在し、少々のことでは抑えることは出来なかった。
「なんてことをするんだっ! この女性は、貴女の御息女ではないのかっ?! こんな───こんな結界で縛って、荷物のように扱うなんて……何故、こんな酷いことが出来るんだっ!」
激情に任せたシルヴィアの怒声に、海の民の女主人は優雅な、優しくさえ見える微笑を浮かべて、
「それは、我が末娘───フィーリアが、わたくしの意に背くから。以前、ようやく手元に呼び寄せたそなたを地上に逃がしたのもこのフィーリア。そしてこの度もまた、こうして異を唱えに来た」
シルヴィアを逃がした? この海の娘・フィーリアが?
不思議には思っていたのだ。本来ならば、たかが人間の身で海底に捕らわれたのなら、逃げる
「わたくしの意に背くとはいえ、フィーリアもまたわたくしの愛しい末娘。案じなくとも、その結界はフィーリアを傷付けるものではない。この子の言葉は、そなたを手に入れたあとにゆっくり聞くことにする故、そなたが気にすることではない」
「ふざけるなっ!!」
女主人の台詞が終わるのを待つこともなく、シルヴィアは腹の底から怒鳴った。
「
『愛しい』ということを、シルヴィアはもう知っている。
賢くて、優しくて、健気で、父親を絶対的に信頼しながらも、自分なりの思い遣りで心配もしている幼い子供───父親似なのは黒髪の巻き毛だけで、柔らかな顔立ちと淡い水色の瞳は母親の血筋なのだという。共に過ごす時間が長くなり、知れば知るほどに愛しく想い、護ってあげたいと感じた子供。
その子が、自分の子かもしれないと知った時、
それなのに、薄暮の母の名を持つこの海の民の女主人は、自らの意に反するからというだけで、こんな暴力でしかない仕打ちを我が子に課している。それが信じられない。そういう存在が、母親などと名乗るのが許せない。
次に投げつけてやる言葉の為に深く息を吸い込んだ時、消え入るような声が聞こえた。シルヴィアの行動を遮る赤い結界の少し先、七尺ほど離れた青い結界の中から。
「今はまだ、耐えてください。貴女を迎えに来ている方が、この場所に辿り着くまで───もう少しだけ……」
迎えに来ている? 誰が?───反射的にそう考えて、次の瞬間にはそんな自分を
(本当に……どれだけ莫迦なんだ)
どれだけ勝率の低い賭けか、判断出来ないティルダールではない筈だ。どうやって海中まで追って来たのかは判らないが、聖都で学んだというサイト老が付いているのだから、何かしらかの手段を講じてくれたに違いない。それでも、未知の世界である海での行動や戦闘───相手が海の民で多勢に無勢となれば、無事に戻れる確率は無いに等しい。最愛の一人息子・アルフェスを残してこんな場所に来るとは、あの男はいったい何を考えているのか……。
記憶のすべてを無くした薄情な元妻のことなど、捨て置けばいいのだ。いや、もっと早い段階で諦めて故郷に戻るなり、他の伴侶を得ていれば、いらぬ苦労をすることもなかった筈だ。
心の内で数限りなく悪態を吐きはするものの、どうしても嬉しいという気持ちが湧き上がってくることが止められない。
(わたしだって、こんなにも自分勝手で醜い)
相手の生命を危険に曝しているというのに、そうまでして来てくれたことが嬉しくて、嬉しくて───どうしたらいいのか判らないほど嬉しくて堪らないのも本当だった。これを身勝手といわずに、何というべきなのか。
「───あの人は、無事?」
フィーリアと同じく声を低めて、短く訊く。
「わたくしの友が同行しています。おそらく……」
「……ありがとう…」
それだけ判れば充分だった。
ならば、ティルダールがこの場に来るまでに、シルヴィアはシルヴィアに出来ることをしなければならない。
囚われの身でも。
対抗する
心も、身体も、生命のすべてを賭けて、自らに為し得ることをしなければならない。
帰るべき処に還る為に。
手を差し伸べてくれる人達に応える為に。
結果は───まるで同じだった。短い牙は何かを切ることも、何かに刺さることもなく、それを握るシルヴィアの手ごと押し戻される。直接触れることが出来れば、何らかの方法を見出せるかと思ったのだが、それすら叶わないのであれば、手段を講じるも何もない。
このまま、ただ単に捕らわれているしかないのかと、奥歯を強く噛み締めた時、思わぬ相手から鍵となる言葉が与えられた。
「無駄なこと───その結界は、決してそなたを傷付けることはなく、そなたを逃がすことはない。何故ならその結界は、陸の人間としてのそなたの血と記憶をわたくしの力で編んだのだから───いわば、そなた自身が己を封じているに等しいのだ。そう、わたくしがそなたに与えたその
真紅の水玉。
記憶を完全に失った時、シルヴィア・リューインの名をサイト老に貰う前から持っていた唯一の物。非常に珍しい稀な宝飾品故に、自分の身元を探る手掛かりになると信じて、敢えて人目に晒すように身に付け続けたサークレット───それは確かに、失った記憶に繋がる最も重要な鍵だったのである。
シルヴィアは、未だ身に付けていたサークレットを思わず手に取り、改めてその稀なる宝石を見詰めた。
「フィーリア、わたしはここから出たい。手段があれば教えて欲しい」
視線を薄暮の母に据えたまま、低く抑えた声でシルヴィアが問う。魔法や魔力の知識がないシルヴィアとしては、この場でただ一人の味方であり、魔力を持っている筈のフィーリアに頼るしかなかった。
一方で、実の母から放たれた結界の網に捕らわれ、身動きもままならないフィーリアは、自分を呼ぶ声の響きに鼓動が一つ跳ねるのを感じた。自分は、彼女に名前を告げただろうか?───いや、それは先程母親が口にしていた。けれども、その母親の名をも彼女は呼んでいた。事前にシロウ・サイトが教えていたのだろうか?
しかし、声量が抑えられているシルヴィアの声には強い意思が籠められており、その響きに胸苦しいほどの既視感がある。時に優しく、時に厳しく、慈しみを持って『フィーリア』と末の妹を呼んでくれた、遠い昔に失われた人───シルヴィアの声には、確かにその人の声と同じ響きがあったのだ。
(姉さま───本当にその方の中に……)
だが、それは口に出してはいけないこと。シルヴィアはシルヴィア自身で、今は別の生命を生きる別の人間なのだから、それを認めなければならないと、フィーリア自身が母親に云ったのだ。
「この海で普通に生きていられる貴女は、遠くとも確かに海の娘の血族です。貴女の人間としての存在で編まれた結界ならば、貴女の海の娘としての力と相殺する筈───」
「そういわれても、わたしに海の娘としての力なんて……」
云いかけて、左手の中に握り締めたままの物を思い出した。それが何かも判らないまま、反射的に手に取ったそれは……。
「これは? わたしの涙が珠のような物になった気がしたのだが」
流した涙が珠になる。それが、様々な奇跡を孕んだ『メロウの涙』という希石───サイト老がティルダールにしたその説明を、シルヴィアは知らない。
「それがあれば───その珠に、今の貴女の血を数滴。それで珠の力は目覚める筈……」
勢い込んで云ったフィーリアの体を、白い光が包み込んだ。
彼女を捕らえていた青い結界が白く輝き、魔力の圧力が言葉の続きと彼女の意識を奪う。
「余計なことを……」
忌々し気に呟く薄暮の母に、シルヴィアは殺気の籠った視線を投げた。
つい先程この女主人は、フィーリアを捕らえている結界を、彼女を傷付けるものではないと云った筈だ。けれども、強制的に従わせる為のものだということである。それは、身体的に傷付けることと何が違うというのか。
シルヴィアは、込み上げる憤りと共に、躊躇うことなく自らの左掌を持っていた短剣で傷付け、流れる血と共にメロウの涙を握り込んだ。
「そなたっ───わたくしが大切に傷付けないように、そなたを守っているというのに、自らを害するとは……」
「守る? 笑わせるな」
薄暮の母の言葉に応じるシルヴィアの声は、どこまでも低く地を這っていた。
「貴女の『守る』は、身体を傷付けないということだけだ。行動の自由を奪い、発言の自由を奪い、これまで生きて来たわたし自身の記憶をも奪うというのであれば、心や魂を傷付け、圧殺することと同じではないか。そんなふうに守られたいと願う者が、どこに居るものかっ!」
云い放つと同時に、シルヴィアは自らの血を吸わせたメロウの涙を、赤い結界に向かって投げ付けた。魔力を帯びた二つのものが触れ合った瞬間、メロウの涙も赤い鳥籠の結界も呆気なく霧散して消える。
シルヴィアはすぐさまフィーリアの傍へ向かった。
駆け出そうとして、水の抵抗で叶わず、半ば泳ぐようにしてすぐ近くのフィーリアの元へ───未だ意識が戻らない彼女を案じてのことだった。
フィーリアを拘束している結界は、白い光を消して元の青い編み細工に戻っていた。だが、シルヴィアが単に触れようとしても、やはり触れることすら出来ない。流れ者の女剣士として生きていたこの数年で初めて、シルヴィアは魔力に対抗できる何らかの手段を手に入れていなかったことを後悔した。
(どうする?)
危険を顧みず助力してくれたフィーリアを、このまま置いて行くことなど出来ない。必死に方法はないかと考えるシルヴィアに対して、薄暮の母が何かを云おうとした瞬間、大広間の天井近くで騒ぎが発生した。
移動しながら切り結んでいる集団と、一匹の海蛇が突然雪崩れ込んで来たのである。
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