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 ティルダールは、フィーリアから借り受けた海蛇かいだ・ナムチの力を借りて、ルーナ・ティアルの居城に一直線に向かった。フィーリアと会談した海草の森はルーナ・ティアルの居城の最も外縁部にあり、先へと進めば、巨大な岩山のようなものが半分以上砂に埋まる形で存在しているという。岩山の内部は、水の力で浸食された洞窟や、海の民によって作られた縦横の通路があって迷路の様相を呈しており、案内なくして踏破することは不可能とのことだった。その最深部が居城の中心部で、そこには大広間とも呼ぶべき巨大な空間が存在し、シルヴィアはまず間違いなくその場所に捕らわれているとフィーリアは云った。


───かつて母上は、この南海の母と称されるに相応しい方でした。慈しみを持って民を見守り、外敵を寄せ付けず、豊かな海を守り続けてくださっていたのです。ですが、後継ぎにと望んでいた最愛の娘であるわたくしの姉を失ってから、変わってしまったのです。


 入り組んだ高さも大きさも違う岩の群れと、それを苗床にする海草の森を、ナムチは器用に擦り抜けて進んで行く。フィーリアと共に暮らすナムチもまた、ルーナ・ティアルの居城周辺を知り尽くしているのだ。シルヴィアが捕らわれている場所へ案内する為の、ナムチの同行である。


───初めは、陸の人を愛し、海の娘メロウであることを捨て、母上の元に戻らなかった姉に、ほんの少し落胆し、とても淋しがっていただけでした。その頃の母上やわたくしは、半精霊族や幻獣達に比べて人の生命がどれほど短く・儚いものか、まるで知らなかったのです。

 そして、長い時を生きるわたくし達にとってはまたたきほどの間に、人として生きた姉の生命は失われました。それが人の寿命なのだと知識で理解していても、自らの感覚と感情は納得し難いものです。母上は姉を想うあまり知識と感情の折り合いがつかず、いつしかの地の人々が姉を亡きものにしたと思うようになっていったのです。そして、歯車は狂い始めました。


 身を隠すことが出来る海草の森の出口近くになると、さすがに居城の外を警戒する海の民ネレイドの姿が度々見えた。

 幸い、ナムチが巧みに死角を選んでくれた為、すぐに発見されることはなかった。そして代わりに、ティルダールは彼らを観察する機会を得ることが出来たのである。

 たおやかで繊細な姿形の海の娘に対して、海の民達は総じて筋骨逞しい男性の上半身と、決して一撃を食らいたくはないと思える尾鰭おひれを持ち合わせていた。ほとんどの者がそれぞれの手に三叉鉾さんさほこを持ち、腰に剣のような物や巻いたむちのような物を携えている者もいる。長物に属する三叉鉾は厄介だ。一対一ならともかく、多対一で囲まれると反撃するすべがない。しかも、陸の上での戦いとは違い、水中における機動力では、明らかにティルダールに分がないのだ。

 フィーリアもそのことを気遣ってくれて、居城内で通る場所は狭い通路を選ぶよう、ナムチに指示を出していた。

(敵の機動力を相殺する方法か……)

 気は焦るが、敵地に乗り込む以上、準備を整え過ぎるということはない。ティルダールは左腕に巻いた薄い革の帯を外し、装備していた小柄で縦に長く裂き、急ごしらえの革紐を作り始めた。

 まだ、もう少しなら時間がある筈───シルヴィアの元へは、先にフィーリアが向かってくれている。


───姉をめとった人間もとうに亡くなっており、恨みを向ける相手が居なかったこともあり、母上は人間を静かに恨んでいました。けれども、それ以上に待っていたのです。姉上の魂が、再びこの世に生を受ける時を。そして、とうとう現れたのが貴方の奥方だったのです。


 ユリティスの王国では、魂は生命の環を巡り、あらゆる生き物として転生するといわれている。転生した魂が草木や虫、野の獣になることもあるが、二度、三度、人や精霊に転生することもあるという。そうして生命の環を巡りながら、魂は世界と生命の在り様を識り、宝石のように研磨されて輝きを増すのだと信じられている。

 故に、死は生者との哀しく・辛い別れであると同時に、魂の新たなる旅立ちでもあるのだ。


───母上の呼び声を聞き、この海で普通に生きていられることからしても、貴方の奥方は間違いなく姉上の魂を持つ者です。ですが、彼女は母上を受け入れはしなかった。決して……。


 当たり前だ───と、ティルダールは云った。

 同じ魂を持った者だとしても、エリア・シルヴィアは新しく生まれ落ちた新たな生命だ。

 その生の中にも、家族や友人や故郷がある。生を受けてから成長していくまでに得た、記憶も経験もあるのだ。もはや、欠片かけらの記憶すらない幾代か前の生よりも、今現在生きている人生を選ぶのは、至極当然のことなのだと。


───ですが、母上は、それこそが我慢がならないことだったのです。姉の魂が転生した先が、この南海ではなく彼の地であったことも、呼び寄せた貴方の奥方が、母を受け入れなかったことも。


 フィーリアの話を聞いて、ティルダールの怒りは沸点を超えた。すでに、どの部分から怒っていいのか判らなくなるほどに、腹の底で重い怒りがどろどろと渦巻いた。


───わたくし自身は、居城の中心部に行くことを咎められることはありません。ですから、母上と奥方の元に行き、可能な限り時間を稼ぎます。出来ることならば、今一度、母上を説得したいと思っています。けれども、これまでのことを考えると……。


 彼女はそこで言葉を濁したが、フィーリアが母親を説得出来る可能性が少ないことは察せられた。だから、ティルダールの到着を待つと、フィーリアは云っているのだ。

 それで充分だ───と、ティルダールは答えた。

 元々、自分自身で決着を付けるつもりだったのだし、フィーリアの話を聞いて、ティルダールがルーナ・ティアルと対峙しなければ、エリア・シルヴィア=シルヴィアを取り戻すことは出来ないのだと確信したからだ。

 フィーリアとの会話を思い出しながらの手作業を終え、ティルダールはナムチの首を軽く叩いた。

「そろそろ行こう。準備は出来た。俺達の事情に付き合ってくれて感謝している、ナムチ。君自身が危険になるようなら、俺を置いて安全な場所に逃げてくれ」

 ティルダールが話し掛けている間、ナムチは宝石のような瞳で彼を見詰めていた。初めて出会った時もそうだ。ナムチの瞳には明らかな知性の光があり、人の言葉を理解しているのだと、自然にそう感じられた。

 その証拠のように、ナムチは喉の奥で抗議の声を漏らす。

「君にとって、フィーリア殿のめいが最優先なのは判っている。だが、そのフィーリア殿を独りにしてはいけない。いよいよの時には、俺よりも自分の命を守って欲しい。その時までは、頼りにしている」

 ナムチは、ティルダールの言葉の意味を咀嚼そしゃくしているかのような間を置き、そして二つに分かれた舌先で彼の顔を軽く舐めた。言葉の意味を理解し、彼の気遣いに感謝するように。

「よし、では行こう」

 一人と一匹は、人馬一体ならぬ人蛇一体となって、ルーナ・ティアルの居城に全速力で突入した。



 シルヴィアがよく知っている森は、ほんの微かな空気の流れでも無数の葉が触れ合い、笑いささめく音にも似た、遠く微かに聴こえる音楽のような音がしていた。

 小川のせせらぎは子供達の笑い声を思わせ、静まり返った小さな池では、時折思い出したように小魚が跳ねる水音や、水場に立ち寄る数々の小鳥の声が重なり合いながら聞こえていた。

 それに比べて、ここはなんて静かなんだろう───瞑想状態を保ちながらシルヴィアは、海底の静けさに思いを馳せる。

 皮膚に触れる緩やかな水流が存在するのに、それに呼応して鳴る音すらない。時折、隊列を組んで通りすがる小魚の群れがいて、大広間にも似た巨大な空間の端々には樹木のように茂る海草も生えているが、水流に反応しているそれらは、ほとんど何の音も立てずに揺れ動いている。

 人間のみならず、木も草も、野の獣達も鳥達も、天候や季節や様々な現象と共に、賑やかな生命の息吹に満ちた陸上に慣れているシルヴィアにとって、音の無い世界はそれだけで奇妙な異世界だった。

 そうやって自分が知る陸と、海の中との違いを確認しながら、体力を温存しつつ瞑想状態を保って、どのくらいの時間が過ぎただろう───待ち兼ねていた変化が、ようやく訪れる兆しを感じた。

 何か───あるいは誰かの、強く・大きな気配が近付いて来るのが判る。通常の人間や、野に棲む生き物達とはあまりに異なる、巨大な存在感を持つ誰か───記憶を持たないシルヴィアが相手を知る筈もないのだが、それでもその“誰か”を知っているような、奇妙な既視感きしかんがあった。

 シルヴィアしか居ない大広間に来るのであれば、シルヴィアに用があるのだろう。そして、これほどまでに大きな存在感を持つ相手であるのなら、の玉座に座する者に違いない。

 瞑想を解いたシルヴィアは、今はまだ空席の玉座に正対し、来訪者を待った。相手がどれほど強大な相手でも、折れる気は微塵もない。自分は、あの暖かい場所に必ず戻るのだから。

 静かだった大広間に、強い水流が巻き起こる。

 視界には入らない周囲から近付いて来る気配は、複数───最初に感じた強大過ぎる気配と、もう少し小さい気配が十前後だろうか。螺旋らせんを描くように近付いて来ていた。

 この岩壁に囲まれた大広間の何処から来るのだろう?───シルヴィアが海底の中空を仰いだのと、彼らが姿を現したのは、ほとんど同時だった。

 巨大過ぎる大広間は、シルヴィアが認識していたより広かったらしく、単なる岩壁に見えていた場所には数々の亀裂があったようだ。しかも、その一つひとつが、人より少し大きな生き物が二~三人同時に通れるほど大きかったらしい。

(ネレイドとメロウ?)

 姿を露わにしたのは、人の上半身と魚類の下半身を持ち合わせた海の民達だった。一様に長く伸ばした髪と鱗の色は様々だったが、人間であれば耳に当たる場所に広がった蝶の羽のような鰭は、皆が皆、絹のような繊細な光沢を持っていた。

 彼らは、舞うように滑らかに泳いで砂地に降り立ち、距離を置いてシルヴィアを円形に取り囲むと、申し合わせたようにひざまずいて深く頭を垂れる。シルヴィアに対してではない。すぐに、彼らの主がやって来るのだ。

 感知していた気配に引かれて頭上を仰ぐと、遥かな天井から降り注ぐ仄かに青い光の中を、円を描きながら緩やかに降りて来る者がある。微かな光にすら輝く銀色の髪と豊かな胸が見て取れ、その気配の持ち主がメロウであることが判った。

 しかし、海の民を統べる者が、ただのメロウである筈もない。

 シルヴィアと己の民の上を掠めながら通り過ぎ、玉座に至った者は、目測だけでも身の丈九尺(約2.7メートル)は軽く超えていた。

 それでもなお、予測していたよりも小さい───と、シルヴィアは感じた。彼女がずっと感知していた強く・大きな存在感と息が詰まるような圧迫感は、眼前に現れた姿よりもっと巨大な姿を連想させるものだったのだ。

 海の民の女主人は、滑らかな泳ぎで玉座に治まり、冠のように結い上げてなお腰まで届く長い銀髪が、優雅に舞いながら彼女の動きに従った。たったそれだけの動きでありながら、そのすべてが計算され尽くしたもののように美しい。魚の尾を持つ下半身は、虹色の光彩を孕んだ銀色の鱗で覆われており、人間の基準では成熟した年齢の女性に見える容姿は、美しく、気高く───恐ろしかった。

「ようやく───ようやく、わたくしの元に戻ったな。我が後継者にして、最愛の我が娘よ」

 静まり返った大広間に、聞く者を打つ重々しい女主人の声が云う。

 だが、音楽的にさえ聞こえるその声は、不思議な響きを帯びていた。音が届かなくなってしまったようにさえ感じる聴覚に、籠った音として届いているような、意識の中に直接飛び込んで来るような、奇妙な感じがする。そして───その違和感には、どうしてか微かな覚えがあった。

「わたしには、貴女が何をいっているのか判らない。過去の記憶を持たないわたしだが、今のわたしの名はシルヴィア・リューイン。陸に生きる人間で、海の娘メロウの一族ではない」

 いつものように、はっきり、毅然きぜんと───云えただろうか?

 抑えようもなく震える唇を噛み締めて、シルヴィアは海の民の女主人に据えた視線を逸らさないよう、必死に耐えていた。

 相対した相手が、特別な存在だからだとか、強大な力を感じさせる相手だからだという理由ではなく、もっと深い───シルヴィア自身が把握出来ないほど深い意識の底から、問答無用の畏れが湧き上がって来るのだ。恐怖にも似た畏怖がどこかに存在していて、シルヴィアの意思に圧力をかけている。

「そなたは、未だにそういうのだな。今の名は仮名に過ぎないだろうに。わたくしは、もう長い───永い間、そなたの帰還を待ち続けていたというのに、過去の記憶を無くしてなお、そうして陸に拘り続けているのだな」

 そう云いながら向けられた視線が、シルヴィアと初めて正面から合わさる。人間のような虹彩も瞳孔もない、玻璃細工で作られたような水に溶ける淡い色の眼差し───人外のものの瞳でありながら、どこかアルフェスの瞳に似ているような気がした。その淡い色合いの中に、苛立ちと哀しみ・怒りと喜びといった相反する様々な感情が、虹玉石オパールの内に現れるファイアのように入れ代わり立ち代わり揺らめいている。

(最愛の娘と呼ぶのに、まるで憎まれているようだ)

 思った瞬間、シルヴィアから乖離かいりした場所にある意識の底で、雷のような悲嘆が奔った。シルヴィア自身の感情とは思えないのに、彼女の胸にまで痛みが届く悲鳴のような……。

(これは、何だ? わたしの中に誰か……)

「わたくしは充分に待った。これ以上は待ちとうない。帰っておいで、我が娘。もう一度、陸の記憶のすべてを取り除けば、今度こそわたくしの元に戻って来るだろう」

 女主人が云うと同時に、赤い光で編まれた華麗な細工の結界が再び現れる。今度は触れてもいないというのに。

 シルヴィアの行動を制限する美しい鳥籠───だがシルヴィアは、結界の存在よりも、女主人が発した言葉に捕らわれていた。

「……もう一度?───もう一度といったのか? 今度こそというのは、どういう意味だ?」

 意図せずに零れた問いに、返る答えはなかった。ただ、女主人の紅い唇が笑みの形に動いただけである。温もりも、優しさも含まれない、形だけの笑みに───。

「では……では、かつて一度、わたしが記憶を失ったのは、貴女が意図したことなのか? わたしが、わたしとして生きていた記憶のすべてを、貴女が消したのか?」

「そうだ───と、いったら?」

 シルヴィアの脳裏に真っ白な閃光が奔り、六年に及ぶ放浪の旅の記憶が、不規則に再生されながら駆け巡った。

 何も判らなかった。本当に何一つとして、自分の内に残っているものは無かった。生まれも、育ちも、自分自身の名前さえも。

 そんな自分に手を差し伸べてくれたシロウ・サイトは、『何一つ覚えておらんのやったら、このまま、わしの娘んなって暮らさんか?』と、そこまで心配してくれた。けれどもシルヴィアは、何も覚えておらず、何も知らなくとも、ただの村娘として生きて行くことを選ぶことは出来なかったのだ。

 言葉は理解出来た。食事や着替えなどの、生活に必要なことも出来た。けれども、他には何もない。生活に必要な道具や食材も、サイト老が連れ出してくれたヴェリヘルの街の情景も、それがどんなものかは判っても、全く知らない物事であることには違いはなかった。

 外からの情報や刺激に対して、シルヴィアの内にある茫漠たる空白に反応する部分はなかったのである。

 しかし、その茫漠の彼方から、それでもシルヴィアを急き立てるものが在ったのだ。自分が何者かも判らないのに、何処かから、彼女に襲い掛かる激しい衝動が存在していたのだ。その衝動に背を押される形で、最低限の準備だけで旅に出た。

 何処へ行っても、見知らぬ風景。

 誰と会っても、見知らぬ人々。

 自分が何を求めているのかも判らないのに、落胆ばかりが深くて、うずくまって立ち止まってしまいたい。いっそ、サイト老の岬の家に戻りたいと思ったことも、数限りなくあった。けれども、シルヴィアを急き立てる衝動は、そうすることを許さなかったのだ。


 今なら───あの衝動の意味が判る。

 シルヴィアは帰りたかったのだ。

 全く覚えていない何処かに。

 その何処かにいる誰かの処に。

 ただ、帰りたかったのだ。

 そう……それはきっと、ティルダールとアルフェスが居る場所に、ただ、帰りたかったのだ。


 知らず知らずのうちに、温かな涙が溢れていた。それを手で拭うと、海水に溶ける筈の涙は真珠のような珠となって掌に残った。無意識に珠を握り締め、シルヴィアは決然と顔を上げ、全身全霊で海の民の女主人と対峙する。

「我が名はシルヴィア・リューイン。そして、貴女が奪い、我が下に戻らぬ名は、エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラル。風が統べる処コ・ルース・リィンに属する者だ。もう一度わたしの記憶を奪うというのならば、やってみるがいい。幾度白紙に戻されようと、わたしはわたし自身のものだ。必ず我が名を取り戻し、わたしが属するところに戻ってみせる。わたしは貴女の所有物ではない」

 シルヴィアの宣言と同時に、海の民の女主人の双眸が蒼い炎を宿し、シルヴィアを捕らえる赤い結界が輝きを増した。

「では、記憶を消し去るだけではなく、無垢の赤子に戻してしまおうか。そうすれば、そなたは我が元から去ることは出来ず、美しい娘に成長する頃には、そなたが拘る陸の人間達は死に絶えている頃合いぞ」

 凍るような言葉を浴びせられて、シルヴィアは震えあがった。

 この女主人は、人間の時を巻き戻すほどの力を持っているというのか?

 魔力や魔術に対して、シルヴィアは対抗するすべを持たない。本気で彼女がそうするというのであれば、抵抗することは出来ない。だとすると、本来の彼女を知っているという人々───コ・ルース・リィンに居るという実父と実弟や旧友にも、寄る辺のない身の上の彼女を支えてくれたサイト老にも、何よりもティルダールとアルフェスに二度と再び会うことが出来なくなるということだ。

(そんなことには耐えられない。そうまでして生きていたくはない。それならばいっそ……)

 シルヴィアの手元には、二本の短剣が残されている。この状況で戦うには足りなくとも……。

 彼女がそう考えた時、聞き慣れない別の声が大広間に響き渡った。

「母上、もう止めてくださいっ!」

 大広間に集まっていたすべての者が、声の主を振り返る。

 そこには、青味を帯びた銀細工のような可憐な海の娘と、彼女に付き従う数匹の小型の海蛇が滑り込んで来るところだった。

「確かに彼女は、姉上の魂が生命の環を巡って来た者でしょう。わたくしもそう感じます。ですが───ですが、母上、彼女は陸に生を受け、わたくし達とは別の家族と故郷を持ち、わたくし達の知らない生を歩んでいる新しい生命なのです。力を持って、彼女の生を歪めることは許されることではありません」

 真っ直ぐに女主人の元に泳ぎ寄った海の娘は、母親より遥かに小さな体でありながら、一歩も退かない気迫をみなぎらせてそう云った。

「───おだまりなさい」

「いいえ、黙りません。母上は間違っておられます。他者の生命の在り様を歪める行為は、海の司神リール・ネ・ネイディスのみならず、六司神すべてに背くことです。どうか、彼女を在るべき所に、彼女が愛し、彼女を愛する者達のところへ帰してあげてください」

「おだまりといっておろうっ!」

 海の民の女主人が声を荒げると同時に、シルヴィアの行動を制限している結界とよく似た青い光の編み細工が海の娘の全身に覆い被さり、指先ひとつ動かせないほどきつく縛り上げた。当然、泳ぐことも出来なくなった海の娘は、小さく細い荷物のように緩やかな速度で海底に沈んで来る。

「いいたいことがあるのなら、後でゆっくり聞こう。我が娘を取り戻してから、ゆっくりとな……」

 『母上』と呼んでいた以上、この海の娘は女主人の実の娘の筈だ。それにも拘らず、こんな仕打ちに及ぶとは……。

(この女主人は───気が狂っている)

 背筋が凍る思いで、シルヴィアはそう確信していた。

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