青き薄暮の国

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 薄暗がりの中にありながら、それでも青い世界───どこかも判らない漠然とした空間を漂いながら、何故かまとまり難い思考を懸命に掻き集め、シルヴィアは為すべき事を考えていた。

 自分がどこに居るのかもはっきりしないのに、ろくに周囲の状況を把握することも出来ないまま動けば、すぐに手が詰まることが明白だったからである。ましてや、岬の家の敷地から出るつもりがなかったシルヴィアは、愛用の長剣すら持っていない。辛うじて装備している武器といえば、いつも長靴ちょうかの内側に潜ませている短剣が二本だけだった。

 考えている間も、何もしていなかったわけではない。

 シルヴィアが浮いて・漂っている場所の下───いわゆる地面に当たる場所は、細かい粒子の白い砂地だった。その砂地に降りて、少しずつ慎重に周囲を確かめる。妙に軽く感じる身体を、シルヴィアの意思に従わせるにはかなり要領がいったが、根気よく続けることで多少の状況が判明した。

 地表を覆う砂は、シルヴィア苦労してやんわりと着地しただけでも白い粒子が舞う。指先で軽く撫でるとなおのこと、何の抵抗もなく崩れる灰のようにふわりと浮き上がった。自分を含む、それらすべての動きが緩慢かんまんなこと、空を飛んでいるわけでもないのに宙に浮いていたこと、身体は軽いのに一つひとつの動作が難しく、妙な抵抗を感じること───そして、こうなる前に起こった出来事の数々や、岬の家で話していた諸々を合わせて考えると、或る結論が導き出せる。

 どうやら自分は、水中───おそらく海の中に居るらしい。

 本来人間は、水中で生きることが出来る生き物ではない。それにも拘らず、何の苦も無く呼吸が出来ているのは何故なのか……。

 その理由を、シルヴィア自身は知っているような気がするのだが、どうにもはっきりとは思い当たらない。皆で岬の家で話していたあれこれも、ある程度は思い出せるのだが、記憶の感触が妙に遠く、きちんと系列立って覚えているのかどうか自信がない。どうしてこうも、何もかもが曖昧あいまいな気がするのだろう?

 しかし、それに関しては後回しだ。今のところ、理由は判らずとも問題なく動けるのであれば、疑問を追求するよりも為すべきことがある。早急に行うべきは、現状把握なのだ。

 着地した地点から、慎重に手探りで動ける場所を探っていると、その原因になっていると推測されるものに行き当たった。

 目印になる物がない為、着地地点にさやのままの短剣を立てて、四つ這いのまま、短剣から真っ直ぐに離れる形で砂地を探りながら進んだ。すると、目測で五尺(約1.5メートル)ほど離れたところで反応が起こる。何かに触れたわけでもないのに、伸ばしたシルヴィアの指先の進行が拒まれ、一瞬赤い光の輪が浮かびあがったのだ。驚いて手を退いたものの、痛みのようなものは一切感じない。ただ単に、拒まれただけである。

 四つ這いの低い姿勢でいた為、光の輪と思ったものが、本当に円状になっていたかは確認出来なかった。なので、今度は砂地に座り、足先を同じ場所に伸ばしてみる。するとやはり、瞬きの間ほど赤い輪が光った。そして同じく痛みに属するものはない。その先の空間に、手足を伸ばすのを拒まれただけである。

 目印に刺した短剣の位置は、ほぼ中心ではあったが、多少のずれもあった。それは後で修正するとして、赤い光が円状になっているからには、前後左右は半径五尺ほどの場所で進行を阻まれると推測出来る。では、上はどうだろう? 水中でならば、それなりに高く飛べるのではないか?

 シルヴィアは背伸びをして、頭上の空間を探ったが、何かに阻まれるということはなかった。見えない何かがあるかもしれないと思えば、体当たりで挑むにはそれなりの度胸が必要だが、幸いシルヴィアには周囲を呆れさせるほどの度胸の持ち合わせがある上、赤い光はシルヴィアの行動を妨げるだけで、危害を加えるものではないと判った以上、やってみないという選択肢はない。

 膝を使って軽く反動をつけ、垂直に跳躍する。赤い光はやはりシルヴィアの行動を妨げ、緩やかに彼女を地面に押し戻した。どうしても光が現れた場所から先に、彼女を行かせる気はなさそうだった。その高さはおよそ九尺(約2.7メートル)───それだけではなく、頭上に発生した光は地面に現れた光と反応して、シルヴィアを囲む網のような全貌を、ほんの数秒間露わにしたのである。

 少し縦長の、卵の上半分のような半球状の網が、シルヴィアの周囲に張り巡らされているのだ。

 赤い光が描いたのは、華麗な編み物細工のような精緻な模様で、一目見た時は魔法陣だと思った───が、その模様のどこにも古語を表すようなものはなく、シルヴィアに危害を加えない時点で『違う』と判断する。もっとも、半精霊族の使う魔法が人間と同じ筈はないので、もしかしたら魔法陣なのかもしれない。けれども、シルヴィアを裏切ったことがない直感が、『違う』とそう云っていた。

(だとすると、結界のたぐいか?)

 それはそれでたちが悪い。シルヴィアに自由行動をさせない為の結界ならば、結界を織り成した力はその一点に特化している。それならば、魔法も魔力も持たないシルヴィアには、手の打ちようがないほどの強度がある筈だ。

 改めて周囲を観察すると、誰も居ないだだっ広い砂地の向こうには、巨大な岩の壁があって、天井まで続いているように見えた。ほのかな灯りが届いていることを考えれば、天井近くに明り取りの窓のようなものが仕切られているのだろうが、その光源の位置は見えない。

 気になるのは、岩壁の高い場所の一角に、露台のように見える広すぎる平らな場所があることだ。見ようによっては、玉座のように見えなくもない。

 そこに座する誰かが存在するのだろうか?

 存在するのであれば、その者はどれほどの権威と力を持っているのか?

 今はそこに居ないその存在を思い浮かべるだけで、腹の底から湧き上がる恐れがある。あるいは、失った記憶の中で、自分はその存在にまみえたことがあるのかもしれない。

 だが当面は、結界の内側に居るのは、肌理きめの細かい砂地とシルヴィアだけ───この状態で、何の抵抗をする準備が出来るだろう?

 これでは、単に捕らわれただけだ。今の自分に出来ることはなにもない───泥に埋もれるような重い無力感に捕らわれそうになった時、陸に残して来た数少ない親しい人々の言葉が鮮やかに蘇った。

『リューイン、正直に』

 父親のように慕う恩人がそう云う。自分の心が素直に求めるところに、正直であれと……。

『シルヴが母さまだったらいいのに』

 もうすっかり情が移ってしまった優しくて賢い子供が、少し寂しそうに、けれども大好きな父親を心配してそう云った。

『俺がおまえを間違えるわけがないからな』

 あの無口な男の自信がどこから来るのか、判るようで全く判らない。

 けれども、あの言葉がシルヴィアと同じような直感に基づくものであるならば、むしろ何よりも信じられるような気がした。

 彼らのところに帰りたい。

 あの暖かな場所へ。

 帰りたい───絶対に……。

 気になることは幾つもあるが、封じ込められている現在のシルヴィアに出来ることはないのだ。だから、目印にしていた短剣の元に戻り、回収した貴重な武器を再び長靴の内側に収めた。そして、出来るだけ楽な姿勢で座り込み、両目を閉じる。

 眠る為ではない。神経を張り巡らせつつ、それでいて自然体を保てるようにと、いわゆる瞑想状態を保つことにしたのだ。

 敵は、長年シルヴィアを放し飼いにしていたにも拘らず、今になって強引過ぎるほどの手段を使って彼女をこの場所に連れて来た。そのことには必ず理由がある筈で、このままずっと放置されるとは考えられない。

 それならば、多くの時間を浪費することなく、何らかの接触があるに違いない。こちらから打つ手がない以上、敵が接触を計った時にどう動くか───それが重要になるのだ。

 戦闘になるのか、交渉になるのか、シルヴィアには予想のしようもなかったが、その時を万全の状態で迎える準備に専念することにしたのである。



 迎えに訪れた海蛇かいだの首にまたがって、一気に海中に潜ることになったティルダールだったが、思わぬ海蛇の速度に、しばらく目を開けることが出来なかった。

 不思議と、かなり冷たいと予想していた全身を包む海水は、晩秋という時期に反して冷たいものではなかった。もっとも、温かいというほどでもなかったのだが。

 ある程度の深度に至ったのか、うねるように泳ぐ海蛇の速度が緩やかになり、ようやくティルダールは周囲の様子を見ることが出来た。

 最初に認識したのは、重なり、舞い踊る、生きた光の布───それは、天から吊り下げられた、無数の長大な帯のようだった。

 天を───遥か頭上の水面を仰ぐと、光の帯が生まれる場所が見えた。間断なく動き続ける水面から、夜明けを迎えたばかりの薄日が差し込んで来る。それは、水面の変化と共に降り注ぐ角度を変え、複雑に入り乱れる水流の影響で、風にたなびく布のように多様な変化を繰り返した。

 光そのものが個々の動きを持つ光の帯となり、触れ合い、離れ、再び触れ合っては重なって、その色合いや輝きを生き物のように変えていく沈黙の輪舞ロンド───その華麗な揺らめきの水中の空を、様々な種類の魚達が鳥のように横切って行った。

 これまでの人生の中で一度も見た事が無い、異質で美しい世界───徐々に遠退いて行くそれらを、ティルダールは言葉もなく見送った。

 海蛇は、首の後ろに乗せたティルダールの存在を全く気にすることなく、明解な目的地を目指して淡々と深度を深めて行く。

 地上とは全く違う光が踊る世界が遠くなり、どこまでも長く続く光の帯は、徐々に青や碧の色彩を深めた。移動を続ける自分達の体の周囲で生まれる気泡に気付いた時、ようやくティルダールは普通に呼吸をしている自分を知った。それが、『メロウの涙』の効果なのだと判っていても、これほどまでに自然に、違和感なく移行するものだとは予想もしていなかった。魔力を帯びた物を特に行使した経験がないので、それが当たり前のことなのか、それとも不自然なことなのかも判らない。

 一般教養程度のことは知っているが、実践の基礎知識もない事柄をいつまでも気にしていても仕方がないと、あっさり考えることを止め、海蛇の向かう先に目を向ける。ティルダールの度胸が据わっていることは確かだが、思慮深いような顔をして、わりと行き当たりばったりな彼の本性を、最愛の息子が見ていないのは幸いだったといえるだろう。

 遠くに視線を向ければ、青い光の帯を透かしてそれなりの距離があると思われる場所に、森のように見える植物の群生が見えた。過去、湖や河で泳いだ経験から視界はかなり悪いものと思っていたが、予想以上に視界は利く。水に深く潜るほどに強まる筈の圧力も、動き難くはあるが、予想していたほどには強くない。これもまた、『メロウの涙』の効果なのだろう。だが、聴覚の方はまるで役に立っていないのか、音らしきものは聞こえなかった。

 それはそれで、あまり良いことではない。聴覚といえば音だけのように思えるが、実は耳で感じ取ることは音以外にも多いのだ。その最たるものが人の───敵の気配である。殺気や闘気、気配を消している敵の存在を感知するのは、耳であり皮膚感覚である。五感すべてを研ぎ澄ませて戦う者にとって、その一つを封じられる不利はあまりにも大きい。戦闘に入って感じる不具合は当然あるとして、現時点で予測出来る不利な条件は、あらかじめきちんと把握しておかなければならない。

 『メロウの涙』の効果と推測されるが、呼吸が確保されているだけでも得難い恩恵だ。その上、水温や水圧の負担が予想以上に軽いのは、今後の行動を考えると非常にありがたい。一方で、衣服や装備が濡れないということはないらしく、布や髪は体に貼り付き、革で作られた物は重量を増している。加えて、聴覚の減退は大きい。

 今のところは安全な場所で、陸上の戦闘と水中での戦闘の違いを確認していたティルダールは、薄緑と明朗な青の色彩を帯びた海蛇が動きを変えたことで、自らの思索を打ち切った。

 緩やかになったと感じていた海蛇の速度が更に遅くなり、チチチ……とやはり小鳥が鳴くような声で彼の注意を促す。

 金属の光沢を持つ滑らかな鼻先が示す先を見ると、視界が利くぎりぎりのところを、数体の魚影のようなものが横切って行くところだった。

 ただの魚影であれば、海蛇がわざわざ注意を促しはしないだろう。そう思って観察してみれば、距離を考えればその魚影はかなり大きなものだった。おそらく、近くで見れば人間よりやや大きいかもしれない。それに、ただの魚にしては全体の形状が違うようだ。

海の民ネレイドか?)

 薄暮の母ルーナ・ティアルと称される相手がシルヴィアを連れて行ったのならば、女性対の海の娘メロウも、男性体の海の民ネレイドも、すべて彼女の手の者と考えた方がいい。ティルダールは、彼らを確認しそこに含まれる危険を理解したことを、海蛇の首を優しく叩くことで伝えると、海蛇は小さな声で答え、目指していた海の底の森に向かって速度を速めた。多分その森が、最初の目的地なのだろう。


 ほどなく辿り着いた海の森は、海底にある大小の岩の上に成長した種々雑多な海草の群生地だった。植物部分だけであれば地上の森に比べてやや丈が低いが、基盤に岩自体の大きさと高さがある為、人間の大きさの生物はもとより、それなりの建築物であれば隠すことが出来るほどの大きさと広さを持つ立派な森である。

 その森に、海蛇はなんの躊躇ためらいもなく分け入った。最初の目的地であるのなら当たり前だが、よく知っている場所なのだろう。あるいは、この海蛇の巣があるのかもしれない。

 実際に入ってみると、海の森は陸の森と大きく違っていた。

 まず何より、樹の幹や枝がない。正確には、枝のように見える物もあるのだが、すべてが柔らかく、僅かな水の動きにさえ揺れ動いている。おそらく、海が荒れて強い水流が襲って来た時に、その圧倒的な力を受け流す為にそのように進化したのだろう。大き過ぎる力に対して堅い幹や枝を持って対抗すれば、根こそぎ折られ、千切り取られてしまうからだ。

 森全体が、緩やかな流れや海蛇の動きに影響されて揺れ動く様は、乾燥地帯で稀に発生するという蜃気楼のようだった。ゆらゆらと形を変える植物達は、幻のようでありながら触れれば実体があるという点に、視覚と触覚が噛み合わない大きな違和感がある。それら多様な海草の狭間では様々な魚達が生活をしているらしく、時折鮮やかな色彩が視界を横切って行った。

 そして、海の森の最深部にあったのは、広場のように開けた空間と、ティルダールを待ち兼ねていた一人の海の娘メロウの姿だった。

(エリィ?───いや、違う。そんな筈はない。だが、これは……)

 広場の中央には、腰の高さほどの大岩がある。その岩が、海草の苗床になっている他の岩に比べて幾分丸みを帯びているのは、遮るものもなく水の流れに長く晒されていた為だろうか───海の娘は、その上に優雅に腰掛けていた。

 緩やかな水流に揺らめきながらも、腰まで届く長い髪は月光を紡いだような銀。

 同じ銀の睫毛に縁取られた双眸は、青と表現するにはあまりにも淡い水色で───エリア・シルヴィアと違うのは、人間の瞳にはある虹彩や瞳孔のようなものがなく、玻璃はりで出来た珠にも似た単色であることだ。

 腰から下に足は存在せず、虹色の光沢を持つ鱗に覆われた魚の下半身になっており、それらのすべてが青味を帯びた繊細な銀細工のようだった。

 しかし、ティルダールが真に驚いたのは、彼女を見た時に受けた印象や雰囲気───そして、どことは指摘出来ないが、確かに感じる相似である。

 もしも、エリア・シルヴィアが海の娘として生まれついたのであれば、彼女のようだっただろう。そして、もしも彼女が人間として生まれついたのであれば、エリア・シルヴィアのようだっただろう───そう思わせるだけの何かが、確かに有るのだ。

 コ・ルース・リィンに伝わる百年以上前の伝承───事ここに至って、その伝承がただの御伽噺ではないことを、ティルダールは確信していた。

「お待ちしておりました。わたくしがフィーリアです」

 張りのある音楽的な高い声は、不思議な響きを帯びていた。

 鈍化した聴覚に籠りながら届いているような、直接意識の中に明解に響いているような、奇妙な感じがする。

「お話は、サイト老に───シロウ・サイト殿に伺っています」

 反射的に返答したティルダールの声もまた、酷く籠っているように自分には聞こえ、実際に発声出来ているのかどうか確信が持てない。しかし、彼女には問題ないようだ。

「わたくしも、シロウからおおよその状況と経緯は聞いています。翼の守護を持つ陸の御方、貴方としなければならない話があって、こうしてわたくしの海蛇・ナムチに、しばし安全を確保できる場所に案内させました」

 彼女はそこまで云うと、真っ直ぐにティルダールに向けていた眼差しを僅かに逸らし、瞳を閉じて何かを迷うように───一つの決意を固めるように、束の間沈黙する。

 ここまで来た以上、ティルダールはもはや先を促しはしなかった。この先、彼がシルヴィアの救出に成功するか否かは、すべて彼女の協力次第なのだから。

「このあと、どのように行動するにしても、先にお話しておかなければなりません。我が母であるルーナ・ティアルと、貴方の奥方に関する話です」

 数呼吸の沈黙ののち、フィーリアは一息にそう云った。

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