─── 4 ───
まだ
眼前に広がるのは、ここしばらく続いている、今にも泣き出しそうな重苦しい灰色の空。夜明けを告げる微かな光の中でも判る、白波を立てる荒れた海。ここから一歩先は、普通の人間は知ることが出来ない海の中の世界が待っている。
それでも、
一服盛られた強制的な眠りの中で、何十年も昔から現在に至る若い二人の物語が微かに聞こえていた。
百年以上昔にあったという、コ・ルース・リィンの領主と海の娘の物語。
今もなお続いている、シロウ・サイトと海の娘・フィーリアの物語。
非常に似た物語ながら、真逆の過程を辿る二つの物語は、ティルダールとエリア・シルヴィアの身の上に起こった出来事と、決して無縁ではなかった。───眠りの中に居ながらも、ずっとそんなことを考えていたような気がする。
そして、ティルダールが目覚めた時、アルフェスとサイト老は、
晩秋の夜明け前は、酷く冷え込むことが多い。ましてや、長く続く天候不良で大気も湿っている。ティルダールは二人を起こさないように細心の注意を払って、暖炉の火を熾し、気配を消したまま身支度を整えた。
愛用の長剣をいつものように右腰に下げ、“祝福”が籠められていると云われた直剣を背中に負う。そして、普段は身に付けていない革の防具───左肩から
腰には通常身に付けている物より幅広の革帯を巻き、腰の後ろに大振りの短剣を仕込む。足元は、馬と共に過ごす生活を長く過ごしている為、革の
これらが、今現在彼が持っている装備のすべてだった。
それらの準備が終わると、普段使いをしていた革帯の縫い目を解き、僅かな隙間から金貨ほどの大きさの物を取り出す。それは、十六歳でコ・ルース・リィンを離れてから、一度も───エリア・シルヴィアにさえ、一度も見せたことのない物だ。もしも、何か有事が在った時の為にと、義父である領主が持たせてくれたのだ。王国のあらゆる公式の場所で、コ・ルース・リィンの領主に繋がる者だと証明出来る紋章───七つの秘宝と称される手法で作られた精密な工芸品で、コ・ルース・リィン領主一族の紋章が
それを食卓の上に置こうとして、ティルダールは一枚の書き置きを見付けた。
『待っているからね』
たった一言書かれているのは、よく知っているアルフェスの文字。他にも云いたいことは沢山あっただろうに、多くの想いが籠められた一言だけが書かれていた。
その一文を何度も読み返したティルダールは、その部分だけを破り取って
最愛の一人息子の顔をもっとよく見ておこうとすれば、間違いなく二人を起こしてしまうだろう。だから、ティルダールはそうはしなかった。名残が尽きる筈もなく、別れを惜しんでいては切りがない。
アルフェスは大丈夫。最愛の息子を信じている。すでに、伝えるべきことは伝えたのだから。
岬の
豊かなる海。
すべての生命を送り出した母なる海。
しかし海は、人間には懐の深さをなかなか見せようとはせず、時には酷薄な面を
今が、まさにその時だった。
身ひとつで───しかも、魔法が使えるわけでもなく、特殊な魔力を持ち合わせているわけでもないただの人間が、この荒れた海の底に向かおうとするなど、正気の沙汰ではない。岩に砕ける高波を見ているだけで、本能的な恐怖が腹の底から湧いて来るのは、ティルダールとて同じだった。
その広さも、どこまで続くか判らない水底の深みも、そこに
それでも、迷いは微塵もない。あるいは、覚悟を決め過ぎたティルダールは、もはや“正気”とはいえないのかもしれない。
過去の人間相手の戦いとは全く違う、未知の環境・未知の存在との戦いになる。勝機があるかどうかも判らない、
幼い頃から、数え切れないほど生命の危機に
ティルダールとて、初めから一人前の剣士だったわけではない。十歳に満たない少年の頃から、自分の半身であり、片翼である銀髪の少女を守る為に、あらゆる知恵を絞り、地の利を生かし、事前の準備を怠らず、子供の身でも可能な戦術を工夫・駆使をして、どれほどの数の戦いを切り抜けて来たか……。
送り込まれて来た刺客を相手に、誘拐者を相手に、
銀髪の半身を守り抜く。そしてその片翼を決して独りにしない為に、自分自身もまた生き抜く───自らの決意で自分に課した任務ではあったが、よくもまあ成し遂げて来たものだと、我が事ながらつい苦笑いが漏れる。もっとも、今回ばかりは随分と長い時間が掛かり、任務遂行の難易度は過去に例が無いほどだが、それでも選ぶ道は変わっていない。莫迦のひとつ覚えのように。
例えば、古語の一つにロミア・ファムタルという言葉がある。現在の言葉でいえば、『約束の人』もしくは『運命の人』という意味だ。
その人に出会う人間も居れば、出会わない人間も居る。その人が幸運を
頭上を足早に駆け抜ける黒雲も、頬を叩く雨風も、足元に押し寄せる白い波の牙までもが、揃ってあの日を思い起こさせた。エリア・シルヴィアを守り続けるという、幼い自分自身に課した役割を果たせなかったただ一度のあの日を。
どうして変わることなどあるだろう。
故郷や友人や仲間達より、自分の
もう二度と、同じ経験を繰り返すつもりはない。その為にここまで来たのだ。不条理に引き離された片翼を取り戻し、再び時を刻む為に。
想い描くという必要すらないほど、心の中はたった一人に占められている。シルヴィア・リューイン───もしくは、エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラルという名のただ一人に。
あの、どこまでも澄み切った雪解け水色の瞳=黒曜石の瞳。微妙な光の加減で輝きを変える銀色の髪=純白の髪。笑う時も怒る時も、彼女の心は真っ直ぐに飛び込んで来て、受け取った者の精神に爽やかでありながら強烈な印象を残す。
笑った顔、泣いた顔、怒った顔───ありとあらゆる表情が、ティルダールの記憶に鮮やかに焼き付いている。そして、風になびく髪の一筋一筋の光彩を、剣を振るう時の細い指の形を、しなやかな身体がどんなふうに滑らかに動くかを、あの澄んだ双眸がどれほど雄弁に心の内を語り、紅い唇がどんなふうに形を変えるかを、ティルダールは誰よりもよく知っているのだ。
『別に、無理に付いて来いとはいわないけれど?』
かつて、若い彼女がもっと若かった時に云った小生意気な台詞が、ティルダールの脳裏に鮮やかに蘇った。
『だって、きっとわたくし達、すっごく気が合いますわ。
初めて出会った時には、多くの言葉を交わしたわけでもないのに、いきなりそう云ったのだ。ただでさえ輝きに満ちた瞳を、周囲の大人達が
『なにも、おまえに責任を取れとはいっていないぞ』
これは、自ら行方を
『おまえ、わたしとじゃ嫌なのか?』
諸々の過程を経て、最終的にはお互いを伴侶に選ぶ方がいいのではないかという結論に達しかけた時、少々───いや、かなり難色を示したティルダールに対して、全く以って心外だとほとんど憤慨しながら云った一言。
実に千差万別な、どうしたらここまで品揃えが出来るのかと感心してしまうほど、様々な想いと経験をさせられた。その苦難の歴史を───幸福な日々を、改めて噛み締める。
『わたしがしでかしたことにしては、上出来だったろう?』
「全く、世話の掛かる奴だ」
事は、そんな台詞で済まされるほど簡単ではない。しかし、ティルダールの顔に浮かんだのは笑みだった。
どれほどの問題が山積していようと、例え自らの死すら念頭に置かなくてはならないとしても、“
ティルダールは、サイト老から受け取った呼子笛を取り出し、気性の荒い野生馬が暴れているような波頭しか存在しない海に向かい、肺の中の空気すべてを使って、高く、長く吹き鳴らした。
その音は───蒼穹に高らかに歌う鳥の声にも似ていた。
遠く、どこまでも遠く響き渡る、高く澄んだ鳥の歌声───掌に収まる大きさの呼子笛から鳴るとはとても考えられないような……。そして、数呼吸おいて、彼方から応える声が聞こえた。耳を
応じる声に向かって、もう一度呼子笛を鳴らす。すると、先程より早く、僅かに近い距離から
鱗が金属質の光沢を持つのは同じだったが、身に帯びる色彩はまるで違う。ルーナ・ティアルの海蛇は黒に近い深い藍色だったが、この海蛇は晴れた日の明るい南の海の色───薄緑と明朗な青を混ぜ合わせた美しい色彩を持っていた。唯一、頭頂の左右に存在する
「君は───フィーリア殿の海蛇なのか?」
現れはしたものの、それ以上の反応がない海蛇に、臆することなくティルダールは話しかけた。金とも黄色ともつかない瞳が、敵意のない穏やかな視線で彼を見詰めていたからだ。
本来、野の生き物は、生存と繁殖を脅かされる時、そして食料とする時以外は、他の生き物を襲わないということも知っている。ましてやこの海蛇は、人間に与えられた呼子笛に応えて、自ら近付いて来てくれたのだ。
海蛇は、フィーリアの名を聞いてゆるりと頭を下げ、先端が二つに割れた舌で軽い挨拶をしてくれた。
「そうなんだな───来てくれてありがとう。フィーリア殿の所まで案内してくれるだろうか?」
人間の言葉が通じているかどうかは判らないが、海蛇は首に捕まることを勧めるかのように、姿勢を低く下げてくれる。フィーリアという名前に、単に反応しているだけなのかもしれないが。
ティルダールは、懐から出した『メロウの涙』を一息に飲み込み、
「では、頼む」
そう云うと、海蛇は頭を上げ、先程の呼子笛によく似た───だが、桁違いに大きい、鳥の歌声に似た美しい鳴き声を上げた。
その声は、荒波や雨風が立てる音を切り裂いて遥か遠くまで響き渡り───残響が消えるのを待たずに、海蛇は一息に海中へと身を沈めて行った。
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