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 まだ仄暗ほのぐらい夜明け前、サイト老の家がある岬の根元の岩場に立った時、ティルダールの心は不思議なほど静かにいでいた。

 眼前に広がるのは、ここしばらく続いている、今にも泣き出しそうな重苦しい灰色の空。夜明けを告げる微かな光の中でも判る、白波を立てる荒れた海。ここから一歩先は、普通の人間は知ることが出来ない海の中の世界が待っている。

 それでも、おくする気持ちは微塵みじんも湧いて来ず、ただ静かだ。



 一服盛られた強制的な眠りの中で、何十年も昔から現在に至る若い二人の物語が微かに聞こえていた。

 百年以上昔にあったという、コ・ルース・リィンの領主と海の娘の物語。

 今もなお続いている、シロウ・サイトと海の娘・フィーリアの物語。

 非常に似た物語ながら、真逆の過程を辿る二つの物語は、ティルダールとエリア・シルヴィアの身の上に起こった出来事と、決して無縁ではなかった。───眠りの中に居ながらも、ずっとそんなことを考えていたような気がする。

 そして、ティルダールが目覚めた時、アルフェスとサイト老は、熾火おきびになった暖炉の側で寄り添うように眠っていた。

 晩秋の夜明け前は、酷く冷え込むことが多い。ましてや、長く続く天候不良で大気も湿っている。ティルダールは二人を起こさないように細心の注意を払って、暖炉の火を熾し、気配を消したまま身支度を整えた。

 愛用の長剣をいつものように右腰に下げ、“祝福”が籠められていると云われた直剣を背中に負う。そして、普段は身に付けていない革の防具───左肩からたすきのように掛ける心臓を中心に守る物、肘や膝などの関節を守る物を身に付け、少し考えて膝は外した。水分を吸った革は重い。そして、さすがのティルダールも完全な水中での戦闘は未経験───泳ぐ時の負担の方が大きいと思える物は、極力置いて行った方がいいという判断である。

 腰には通常身に付けている物より幅広の革帯を巻き、腰の後ろに大振りの短剣を仕込む。足元は、馬と共に過ごす生活を長く過ごしている為、革の長靴ちょうかを履いている。水の中では、強い抵抗を生む長靴を脱いで出ることも考えたが、海底がどういう状況にあるか判らない以上、素足で無駄に傷を負うことは避けたい。考えた末、長靴の開口部を革紐できつく縛ることで妥協する。本格的に邪魔になれば、脱ぎ捨てればいいのだ。加えて、長靴を革紐で固定することで、長靴と革紐の間に通常の長さの短刀を二本余分に持って行ける。両腕には薄い革で作られた帯を防具の代わりに巻き付け、そこに小柄こづかと呼ばれる小刀を可能な限りの数収めた。

 これらが、今現在彼が持っている装備のすべてだった。

 それらの準備が終わると、普段使いをしていた革帯の縫い目を解き、僅かな隙間から金貨ほどの大きさの物を取り出す。それは、十六歳でコ・ルース・リィンを離れてから、一度も───エリア・シルヴィアにさえ、一度も見せたことのない物だ。もしも、何か有事が在った時の為にと、義父である領主が持たせてくれたのだ。王国のあらゆる公式の場所で、コ・ルース・リィンの領主に繋がる者だと証明出来る紋章───七つの秘宝と称される手法で作られた精密な工芸品で、コ・ルース・リィン領主一族の紋章が象嵌ぞうがんされており、その裏面には、持ち主がティルダールであることを示す鷲の文様が彫られている。

 それを食卓の上に置こうとして、ティルダールは一枚の書き置きを見付けた。

『待っているからね』

 たった一言書かれているのは、よく知っているアルフェスの文字。他にも云いたいことは沢山あっただろうに、多くの想いが籠められた一言だけが書かれていた。

 その一文を何度も読み返したティルダールは、その部分だけを破り取ってふところに収め、残りの空白に紋章がコ・ルース・リィンの正式な紋章であること───それだけを書き添え、重石替わりに紋章と手持ちの路銀のすべてを置いた。おそらく、それでサイト老は、ティルダールが何を思ってそうしたのかを察してくれるだろう。

 最愛の一人息子の顔をもっとよく見ておこうとすれば、間違いなく二人を起こしてしまうだろう。だから、ティルダールはそうはしなかった。名残が尽きる筈もなく、別れを惜しんでいては切りがない。

 アルフェスは大丈夫。最愛の息子を信じている。すでに、伝えるべきことは伝えたのだから。



 岬のふもとの岩場に着いた時、打ち寄せる波はより激しいものになっていた。まるで、ティルダールの来訪を拒むように。

 豊かなる海。

 すべての生命を送り出した母なる海。

 しかし海は、人間には懐の深さをなかなか見せようとはせず、時には酷薄な面をあらわにすることがある。

 今が、まさにその時だった。

 身ひとつで───しかも、魔法が使えるわけでもなく、特殊な魔力を持ち合わせているわけでもないただの人間が、この荒れた海の底に向かおうとするなど、正気の沙汰ではない。岩に砕ける高波を見ているだけで、本能的な恐怖が腹の底から湧いて来るのは、ティルダールとて同じだった。

 その広さも、どこまで続くか判らない水底の深みも、そこにむと伝えられる住人や幻獣達も、すべてが未知の領域に属するもの達なのだ。それらに対して、たかが人間一人など、無知で無力なあまりにも小さな生命体に過ぎないのだから。

 それでも、迷いは微塵もない。あるいは、覚悟を決め過ぎたティルダールは、もはや“正気”とはいえないのかもしれない。

 過去の人間相手の戦いとは全く違う、未知の環境・未知の存在との戦いになる。勝機があるかどうかも判らない、無謀むぼうな戦いだ。けれども、或る意味ではティルダールにとって、過去に遭遇したあらゆる戦いと同じだった。

 幼い頃から、数え切れないほど生命の危機にさらされ続けた少女がいた。少女の父親が、一つの豊かな領地の領主だというそれだけの理由で。

 ティルダールとて、初めから一人前の剣士だったわけではない。十歳に満たない少年の頃から、自分の半身であり、片翼である銀髪の少女を守る為に、あらゆる知恵を絞り、地の利を生かし、事前の準備を怠らず、子供の身でも可能な戦術を工夫・駆使をして、どれほどの数の戦いを切り抜けて来たか……。

 送り込まれて来た刺客を相手に、誘拐者を相手に、まれに出る造反者を相手に───時には、守るべき対象である少女自身が引き起こす様々ないざこざを相手に、未熟ななりに必死で戦い続け、どうにか守り抜いて共に生き延びて来た。行方知れずになった彼女を捜すのも、一度や二度や三度ではない。さらわれたり、監禁されたり、あろうことか彼女が自らの意思ですることですら稀ではなかったのだ。

 銀髪の半身を守り抜く。そしてその片翼を決して独りにしない為に、自分自身もまた生き抜く───自らの決意で自分に課した任務ではあったが、よくもまあ成し遂げて来たものだと、我が事ながらつい苦笑いが漏れる。もっとも、今回ばかりは随分と長い時間が掛かり、任務遂行の難易度は過去に例が無いほどだが、それでも選ぶ道は変わっていない。莫迦のひとつ覚えのように。

 例えば、古語の一つにロミア・ファムタルという言葉がある。現在の言葉でいえば、『約束の人』もしくは『運命の人』という意味だ。

 その人に出会う人間も居れば、出会わない人間も居る。その人が幸運をもたらす相手であることも、不運を齎す相手であることもある。自分の人生に密接に係わり、強い影響を及ぼす者───それが、ロミア・ファムタルなのだ。サイト老にとってのフィーリアがそうだったように、ティルダールにとってのそれは、エリア・シルヴィアに他ならなかった。

 頭上を足早に駆け抜ける黒雲も、頬を叩く雨風も、足元に押し寄せる白い波の牙までもが、揃ってを思い起こさせた。エリア・シルヴィアを守り続けるという、幼い自分自身に課した役割を果たせなかったただ一度のを。

 どうして変わることなどあるだろう。

 故郷や友人や仲間達より、自分の矜持きょうじや自分の生命より、大切な魂の半身を見失ったあの日───あの瞬間から、ティルダールの中の時は止まっていた。心の時間は止まったまま、身体が未熟な青年から成長を終えた成人に変わっただけだ。最愛の息子であるアルフェスの存在が、辛うじて現実世界とティルダールの架け橋になってはいたものの、時間の流れは心の表面を無意味に滑って行ったに過ぎなかった。

 もう二度と、同じ経験を繰り返すつもりはない。その為にここまで来たのだ。不条理に引き離された片翼を取り戻し、再び時を刻む為に。

 想い描くという必要すらないほど、心の中はたった一人に占められている。シルヴィア・リューイン───もしくは、エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラルという名のただ一人に。

 あの、どこまでも澄み切った雪解け水色の瞳=黒曜石の瞳。微妙な光の加減で輝きを変える銀色の髪=純白の髪。笑う時も怒る時も、彼女の心は真っ直ぐに飛び込んで来て、受け取った者の精神に爽やかでありながら強烈な印象を残す。

 笑った顔、泣いた顔、怒った顔───ありとあらゆる表情が、ティルダールの記憶に鮮やかに焼き付いている。そして、風になびく髪の一筋一筋の光彩を、剣を振るう時の細い指の形を、しなやかな身体がどんなふうに滑らかに動くかを、あの澄んだ双眸がどれほど雄弁に心の内を語り、紅い唇がどんなふうに形を変えるかを、ティルダールは誰よりもよく知っているのだ。

『別に、無理に付いて来いとはいわないけれど?』

 かつて、若い彼女がもっと若かった時に云った小生意気な台詞が、ティルダールの脳裏に鮮やかに蘇った。

『だって、きっとわたくし達、すっごく気が合いますわ。義兄妹きょうだいになるより、方が楽しそうですもの』

 初めて出会った時には、多くの言葉を交わしたわけでもないのに、いきなりそう云ったのだ。ただでさえ輝きに満ちた瞳を、周囲の大人達が蒼褪あおざめるほどに生き生きときらめかせて。

『なにも、おまえに責任を取れとはいっていないぞ』

 これは、自ら行方をくらませた彼女を見付け出した時、彼女が一人になる機会を狙って襲って来た誘拐犯を撃破した時に、ぶっきらぼうに云われた言葉。少々高飛車な物言いの裏には、自己判断において行動した結果、自ら危険を招いたのであれば、それは自己責任なのだから、ティルダールが責を負う必要はないという、彼女なりの思いやりが籠められた言葉でもあった。

『おまえ、わたしとじゃ嫌なのか?』

 諸々の過程を経て、最終的にはお互いを伴侶に選ぶ方がいいのではないかという結論に達しかけた時、少々───いや、かなり難色を示したティルダールに対して、全く以って心外だとほとんど憤慨しながら云った一言。

 実に千差万別な、どうしたらここまで品揃えが出来るのかと感心してしまうほど、様々な想いと経験を。その苦難の歴史を───幸福な日々を、改めて噛み締める。

『わたしがしでかしたことにしては、上出来だったろう?』

 疲弊ひへいしてやつれた彼女が、どこまでも神々しく、胸が詰まるほど美しく見えた日───アルフェスが誕生した夜明けに、かすれた声で誇らしげに云った言葉が、感慨にふけっていたティルダールの背中を柔らかく促した。

「全く、世話の掛かる奴だ」

 事は、そんな台詞で済まされるほど簡単ではない。しかし、ティルダールの顔に浮かんだのは笑みだった。

 どれほどの問題が山積していようと、例え自らの死すら念頭に置かなくてはならないとしても、“約束された最愛の人ロミア・ファムタル”を迎えに行くことが出来るということは、幸福なことだと思えるのだ。その人の安否も生死も判らないまま、ただ探し続けるしかない濃霧の中にいるような日々を思えば……。

 ティルダールは、サイト老から受け取った呼子笛を取り出し、気性の荒い野生馬が暴れているような波頭しか存在しない海に向かい、肺の中の空気すべてを使って、高く、長く吹き鳴らした。

 その音は───蒼穹に高らかに歌う鳥の声にも似ていた。

 遠く、どこまでも遠く響き渡る、高く澄んだ鳥の歌声───掌に収まる大きさの呼子笛から鳴るとはとても考えられないような……。そして、数呼吸おいて、彼方から応える声が聞こえた。耳をろうする波風の咆哮の隙間を縫って、微かに。

 応じる声に向かって、もう一度呼子笛を鳴らす。すると、先程より早く、僅かに近い距離からいらえがあった。幾度かそれを繰り返し、極近距離で応えがあったと思った瞬間、荒れる白い波頭を割って、一頭の海蛇かいだが姿を現す。昨日、シルヴィアを連れ去った巨大な海蛇ではなく、その半分もない大きさの海蛇だった。

 鱗が金属質の光沢を持つのは同じだったが、身に帯びる色彩はまるで違う。ルーナ・ティアルの海蛇は黒に近い深い藍色だったが、この海蛇は晴れた日の明るい南の海の色───薄緑と明朗な青を混ぜ合わせた美しい色彩を持っていた。唯一、頭頂の左右に存在するひれが絹にも似た繊細な光沢を持っていることだけが、昨日の海蛇と同じだ。

「君は───フィーリア殿の海蛇なのか?」

 現れはしたものの、それ以上の反応がない海蛇に、臆することなくティルダールは話しかけた。金とも黄色ともつかない瞳が、敵意のない穏やかな視線で彼を見詰めていたからだ。

 本来、野の生き物は、生存と繁殖を脅かされる時、そして食料とする時以外は、他の生き物を襲わないということも知っている。ましてやこの海蛇は、人間に与えられた呼子笛に応えて、自ら近付いて来てくれたのだ。

 海蛇は、フィーリアの名を聞いてゆるりと頭を下げ、先端が二つに割れた舌で軽い挨拶をしてくれた。

「そうなんだな───来てくれてありがとう。フィーリア殿の所まで案内してくれるだろうか?」

 人間の言葉が通じているかどうかは判らないが、海蛇は首に捕まることを勧めるかのように、姿勢を低く下げてくれる。フィーリアという名前に、単に反応しているだけなのかもしれないが。

 ティルダールは、懐から出した『メロウの涙』を一息に飲み込み、躊躇ためらうことなく海蛇の首の後ろにまたがった。馬と違って姿勢を保つのが難しそうだが、ちょうど両手の辺りにくる鰭を掴むことで対応出来そうだった。

「では、頼む」

 そう云うと、海蛇は頭を上げ、先程の呼子笛によく似た───だが、桁違いに大きい、鳥の歌声に似た美しい鳴き声を上げた。

 その声は、荒波や雨風が立てる音を切り裂いて遥か遠くまで響き渡り───残響が消えるのを待たずに、海蛇は一息に海中へと身を沈めて行った。

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