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 昔、ユリティスの王国で最高峰の学び舎───聖都に属する一人の学徒がいた。

 聖都で学びたいと望む者は多く、それを許される者は少ない。その少ない学徒の中でも、魔法使いとして賢者の杖を得る者は更に一層少なかった。

 その青年は、早い段階から自分が賢者の杖を得るには至らないと、自身の能力の限界を悟っていた。けれども、そのことに失望したことはない。賢者の杖は得られずとも、聖都で得られる高度な知識は、今後どのような職業に就くことになったとしても、大きく役に立つ事はあるが、邪魔になることなど在り得ないからである。

 青年が得意とするのは、医学と薬学だった。より多くの知識を得るうちに、広大な王国の各地方に発生する独特の病や、特殊な地方でしか得られない薬草や薬の原料を知るに至り、聖都と師に学びと調査の旅に出る許可を求めた。

 向学心がある者に対して、聖都の学び舎は寛容かんようで、許可を取ることは難しくはなかった。そうして、若い学徒は研鑚けんさんと調査、見分を広める旅に出たのである。

 いずれ、得た知識を手土産に、学び舎に戻らなければならない旅である。そしてまた、しかるべき知識と経験を積んだあとには、戻らなければならない故郷があった。

 時を限られた旅の中で、青年は自己の知識の蓄積や研究、医療師や薬師くすしとしての経験を積むことを怠らなかった。だから、何も考えることなく、ただ感動と畏怖の念を持って眼前に広がる風景に見入ったのは、ヴェリヘルを訪れた時が初めてだったのである。

 青年は、海を見たことがなかった。

 世界の果てと称される北西の山脈の中腹にある聖都。

 その聖都をいだく山脈の広い・広い裾野の片隅にある青年の生まれ故郷は、何の変哲もない内陸の農村地帯。

 決して人が泳いで渡ることなど出来ない大河も、対岸が霞んで見えないほど巨大な湖も、旅の途中で見た。しかし、それらとは全く比較にならない見渡す限りの水。

 『海』という知識はあったが、これほどに圧倒的なものだとは想像もしていなかった。

 それ自体が生命を持っているかのように、海岸に打ち寄せる波。

 沖合で白波を立てる波頭。

 巨大な水の塊が起こす潮の満ち引きでさえ、内陸で育った青年には未知のもので、とても───そう、とても抗えないほどに魅力的だったのである。

 これほど違う環境があるのであれば、これまでに知ることがなかった病や風土病、見知らぬ薬の原料もあるのではないかと、いかにももっともらしい理由を見付けて、青年はしばらくこの地に留まることにした。

 さして日を置かずして、ヴェリヘルから程よく離れており、適度にひとけが少ない岬の近くに仮住まいの居を構えた。人里離れた王国最高峰の学び舎で、世界の成り立ちやその在り様、より良き未来を目指す為の勉学や研鑚に、日々粛々しゅくしゅくと励んで来た青年にとって、無数の人間の為だけに存在する都市は、少々わずらわしかったのである。

 それでも、時折ヴェリヘルを訪れては、旅の医療師兼薬師として働いては、日々の食料などの買い出しと見慣れない薬の原料になりそうな物を買い求め、毎日の研究は欠かさず行っていた。

 そして、手が空く時間を見付けては、岬の上から、海岸から、飽きることなく海を眺め続けたのである。


 やがて、海に魅せられた青年にが訪れる。


 皓々こうこうと空を渡る満月の蒼い光が、ゆるりと流れて行く絹のような雲に、この世ならぬ陰影をもたらす美しい夜だった。

 限られた時を惜しんで海を眺めていた青年は、すぐ近くで波が砕ける岩場で、一人の美しい娘に出会ったのである。

 僅かな風にもそよぐ、月光にも似た幻のような長い銀の髪。

 水玉アクアを思わせる淡い色の瞳。

 透けるような美貌は、月の光が見せる幻にも似て……。

 一目で、青年の魂は、初めて出会った娘のものになった。

 そしてその娘もまた、動かない青年を、小首を傾げてしばらく見詰め、近付いては来なかったものの柔らかく微笑み掛けてくれた。

 こんな夜更よふけのひとけがない岩場の海岸に、何故一人で居たのか。

 そもそもお互いが何者で、どんな立場に居る者なのか。

 後々考えれば、訊くべきことはいくらでもあったように思う。だが、この夜、この時には、そんな疑問は何一つ浮かばなかった。一言の言葉も交わすことなく、ただひたすらに、お互いを見ていただけである。

 恋に落ちる瞬間というものは、誰しもそんなものなのかもしれない。

 例え相手が、暗い水中にひるがえる幻の魚のごとき銀の鱗に覆われた下半身を持つ、半人半魚の海の民だったのだとしても……。



「その女の人はメロウだったの? フィーリアって人?」

「そげんたい。その夜は、結局どうやって家に帰ったかも覚えとらんとよ。朝に目が覚めて、『ああ、なんか昨夜は、ものごっつよか夢みたぁ』とか思っとったと」

「どうして? ちゃんと会ったんでしょう?」

「会ったいうても、見ただけで触ったわけでなし、この世のものとは思えんほど美しかったけん、本当のことと思えんかったとさ」

 あの日から何十年と経ったが、今でも鮮明に甦る。

 細かな水滴に月光が宿り、それを全身にまとった幻のような海の娘。

 その娘に魂を捕らわれたことを、後悔したことは一度もない。

 だが、出会った翌日の午後になる頃には、夢のような出来事を本当に夢だったのだと思い始めていた。何故なら、幻のように美しい海の娘に自分が魂を捕らわれるのは判るとして、その海の娘が自分に微笑んでくれる理由がないからだ。

 青年=シロウ・サイトは、確かに聖都の学徒で、他の学び舎の学徒よりは優秀な部類に入るのかもしれない。だが、それだけだ。

 特に見目麗しいわけでもなく、筋骨逞しい部類でもない。何の変哲もない黒い瞳と若々しさに欠けると自分でも思う灰茶色の髪、身長は多少高いが『特に』というほどではない。新薬になる物の探索で野山を動き回る為、肌は農夫や漁師のように日焼けして、元の色がどうだったのか、もはや自分でもよくは覚えていなかった。

 そんな自分が、異性に対して魅力があるとはとても思えない。ましてや、あんなにも美しい海の娘に対してなど、とてもとても……。

 だから、あれは夢だった。

 夢でなければ、辻褄が合わない。

 夢の中でしか起こり得ないから夢だ。

 青年が、夢幻が入り込む余地のない陽の光の下で、そう結論付けたのは無理もない話だった。

 そしてまた、その夜半に同じ波打ち際の岩場を訪れてしまったこともまた、恋に魂を奪われた青年の行動としては、無理もない話だったのである。

 縁は異なもの───と、数々の文献や経験者は語る。

 それは、エルフ族や精霊族の中間に属する半精霊族の海の娘にとっても、同じことだったらしい。

 あれは夢で、夢だったことを確かめる為に同じ場所に行くのだ───と、半ば自分に言い訳をしながら岩場を訪れた青年を、月光を編んで生命を吹き込んだようにも見えるメロウは待っていたのだ。

 信じられなかった。

 信じられなかったが、言葉に尽くせぬほどに嬉しかった。

 そして二人は、二度目に出会った時から言葉を交わした。

 海の娘は、見知らぬ地上の話を聞きたがり、青年は、人知の及ばぬ海の話を興味深く聞いた。幸い、聖都の学徒である青年はそれなりに博識だったので、彼女が興味を持つ話題には事欠かなかった。そして彼女も、海の娘達の中でも身分の高い者だったらしく、青年の探求心を満たしてくれるだけの話をしてくれた。

 続く毎晩、二人は互いの姿を求めて海岸を訪れ、見つめ合い、語り合う日々が続き───いつしか手を取り合い、唇を重ね合わせたのも自然の成り行きだったといえる。

 それが、同じ種族の男女だったのならば……。

「わたくしは、陸に上がり、貴方様と共に行くことは出来ません」

 青年が、そろそろ学び舎に戻る時期が来たことを告げると、彼女は哀しげに、それでもきっぱりと云った。

「わたくしの母上は、かつて同じ理由で娘を一人失っています。わたくしの姉であり、多くの兄弟姉妹の中で最も慈しんだ娘を。母上は、ずっとその姉上を後継ぎとして考えていたのでとても深く傷つき、今でもそのことで苦しんでいます。それなのに、更にわたくしが同じことなど出来ません」

 そう云われた時、初めて青年は、自分が彼女と離れ離れになることなど出来なくなっていることに気付いた。そして、彼女もまた同じ想いだったのだろう、或る提案をして来たのである。

「あなたが来て下さいませんか? わたくしの住む海へ」

 しかし、青年もまた、そうするわけにはいかない事情があった。故郷には、学業を終えた彼の帰りを待っている人が居る。年老いた両親や幼い弟妹───彼が生活を支えなければならない家人が居るのだ。

「では、こうしないか?」

 今すぐには行くことが出来ない───その事情を話したあとで、青年はひとつの提案をした。

 すぐに行くことは出来ないが、彼は聖都に戻ることを止めてこの地に留まる。そして、家人を養う義務を終えた時には、喜んで彼女のむ海へと行こうと。

 彼女はその提案に同意して、青年がいつでも海に来られるようにと、彼女自身の『メロウの涙』と呼子笛を渡した。海蛇かいだの抜けた歯で作られた呼子笛は、歯の持ち主である海蛇と呼応している。この呼子笛は、彼女が親友と呼ぶ海蛇と呼応するものだった。

 その約束がなされた時、海の娘はまだまだ地上の物事にうとく、青年は未来の約束を信じられるほどに若かった。

 青年は、これまでの旅で得た知識と研究資料、新薬を開発出来る可能性がある素材の詳細な標本を一つの荷物にまとめ、聖都と師に対して、復学出来なくなった経緯と心からの謝罪、これまでの厚遇と高度な指導に対しての感謝を丁寧に手紙にしたためて同封した。それを、料金は高額だが、信頼出来る商隊に託し、以後聖都の学び舎に戻ることはなかった。

 そして、海岸沿いの仮住まいを引き払い、見晴らしが気に入っていた岬の頂上に本格的な居を構えた。高い場所を選んだのは、月光に輝く銀の髪が波間を縫ってやって来るのを、誰よりも早く見付けたかったからだ。それに、高い場所に灯りを掲げておけば、彼女の方でも、青年の在宅を確かめることが出来る。

 そうやって、他の人間の目に触れない深夜の逢瀬おうせを重ねながら、青年は人間の世界でも生活をしていた。

 港湾都市ヴェリヘルからやや離れているとはいえ、この地に根を下ろしても青年が生活に困ることはなかった。何時いかなる時でも、どんな地方でも、医療師や薬師はどれほど居ても足りるということはない。ましてや青年は、聖都仕込みの知識を有する者なのだから。

 青年は、ヴェリヘルの街中に小さな診療所を構え、数日に一度の買い出しを兼ねて診療所を開いた。日常で発生する小さな怪我から、重篤な難病まで、訪れて来る人は後を断たない。時には、目が離せない患者の為にヴェリヘルに留まることもあったが、決して住まいを街中に移そうとはしなかった。そうこうするうちに、何らかの評判が広がったのだろう。遠方からの患者や高貴な身分の者が、岬の家を訪ねて来るようにもなった。

 おかげで、帰郷することは叶わなかったものの、故郷の家人には充分な仕送りをすることが出来た。青年自身は、華美な生活を望んだことはなく、生活と医療や薬の必要経費があれば充分だったのである。

 やがて時が過ぎ、二度と戻ることがなかった故郷に、養う者が居なくなる日がやって来る。祖父母や両親は年老いて亡くなり、幼かった弟妹は長じて仕事を持ち、それぞれの家庭を持ち───そんなふうに遠い、実感を伴わない物事が、時折届く、徐々に短くなっていく手紙に書かれていた。

 その長い日々、青年は変わらず海の娘を愛し続け───青年は、いつしか『青年』ではなくなっていた。

 運命的な恋や、深い愛ですべてを捨てることが出来るのは、若者が持つ情熱と盲目的な無謀さが持つ特権であることに気付くのに、多くの時間は必要ではなかった。

 百年に満たない寿命の人間と、精霊族に近い長い生命を持つメロウとでは、時間に関する概念も、自らの生を全うする為の生き方の概念も、あまりにも違い過ぎたのである。

 何度となく重ねた話し合いの末、ようやくそのことを理解した海の娘は、嘆き、哀しみ───それでも最終的には納得せざるを得なかった。同じ時を生きる機会を、彼らは永遠に逸したのである。

 その後の日々も、彼は岬の上に住み、彼女を愛し続けた。人間のままで。

 海の娘は、明るい月夜の晩に、岬の灯火を頼りに海辺に通い続けた。メロウのままで。

 それは、コ・ルース・リィンに残る口伝くでんと似て非なる、もう一つの愛の在り様の物語だった。



「おじいさんは……それでよかったの? おうちの人達とは会えないままだったんでしょう? なのに、大好きな人とも一緒に暮らせなくて───それで本当によかったの?」

「後悔はしとらんとよ。家族と会えなくなっても、わしはフィーリアの近くに居たかったと。フィーリアと夫婦めおとになれんでも、フィーリアと共に生きたかったとさ。今は彼女も、それでいいと云ってくれとう。そしてどういうわけか、リューインと巡り会うた。加えて、ワイズ殿が最も必要としとう物を、わしが持っとると来た。これこそを神の采配いうんやろうな」

 アルフェスから見れは、不思議なほど晴れ晴れとサイト老が云った。

 『後悔はない』というのは本当なのだろう。そして、最愛の人に貰った宝を、必要な者に渡せたという達成感もあるのかもしれない。

 岬の家の主人が辿った歳月と想いの変遷へんせんを推し量ることすら出来ない子供は、大人達がそれぞれに成そうとしていることを、ただ黙って見ていることしか出来ない。小さな両手一杯に自分の不安と心細さを抱え込んで、ただ泣き出さないように耐えていることしか出来ないのだ。

「坊も偉かった。ワイズ殿を───父上を、ちゃんと送り出すんやけん」

 耐えているのに、サイト老が優しく髪を撫でるから、固く閉めた筈の心の扉が開いてしまいそうだった。せめて、ティルダールを送り出すまでは、耐えていなくてはならないのに……。

「───やせがまんしているだけだよ」

「大人でも、その痩せ我慢が出来んとよ。子供ならもっとやろ」

「シルヴに帰って来て欲しいし、テュールにも無事でいてほしい。僕がわがままをいって付いて行っても、足手まといになるだけで、何にもできることがないから……」

 ぼそぼそと云いながら、本当に泣いてしまいそうだった。大好きな二人の為に何かをしたいのに、子供の自分には何も出来ることがない。

「足手まといというのは、まあそげんかもしれんとやけど、出来ることが無いというのはないんじゃないとかな?」

「僕にできることがあるの?」

「坊が、ここで待っとうというんが重要なんくさ」

 出来ることがあると、一瞬希望を抱いただけに、落胆は大きかった。それが、二人の為になることだと、アルフェスには思えなかったからである。

「まあ、そう判り易くがっかりせんと、ちゃんと話を聞き。坊が、この最終局面のかなめなんやけん」

「僕が?」

「そう、坊が───ワイズ殿とリューインが、どれほど坊を溺愛しとるか、わしにもよう判っとうとよ。坊がここで待っている限り、二人はどげな手を使こうてでも、死にもの狂いで戻って来ようとするやろう。いうなれば坊は、二人を海から釣り上げる為の極上の餌やけん。無事に、安全に、しっかりとここで待っとかな」

 餌呼ばわりにはやや不満があったが、サイト老の云うことは理解出来た。アルフェスが居ることで、『二人一緒なら、生命を賭ける価値がある』というティルダールやシルヴィアの気持ちが、『三人で生きる為に帰る』に変換されるのなら、本当に待っているだけのことにも意味があるのかもしれない。

「ついでに、まあ、坊が良ければなんやけど───どれだけ怪我をして帰って来るか判らん二人の為に、出来るだけ沢山の薬を用意しとかないかんけん、待っている間にわしの助手をしてくれると助かるんやけど?」

「うん───うん、僕わかったよ。ちゃんとここで待ってる。お手伝いもするよ。ありがとう、おじいさん」

 憂いが晴れたように云う子供に、サイト老は深く肯いてみせた。

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