メロウの涙

─── 1 ───

 ただならぬ物音を聞いてサイト老が目覚めたのは、寝室の中に夕刻の気配が濃く迫る時刻だった。ここしばらくの間で見慣れた雨雲のせいで、夕陽も夕焼けも存在せず、ただ光量が落ちるだけの暮れ時である。

 隣の食堂兼居間で、人が動き回る気配がしていた。そしてもう一度、何かが床に落ちたような大きな物音を聞き、まだ未練のある寝台から離れて様子を見に行く気になった。

 扉を開けると、灯りも点さない薄明りの中にティルダールがいた。床に自分の荷を広げ、何やら慌てているようにも見える。

 出会って一日足らずだが、サイト老はすでにこの青年に好感をいだいていた。

 昨夜、差し迫った状況だというのに、初対面のサイト老に礼節を持って接し、それでいて自分より弱い者をかばい・支えていた。

 幾つかの事柄について話をすれば、かなり高い水準の教育を受け、基礎となる知識の上に自分の経験を積み重ねて考えることが出来る知性があり、深く洞察する力もある。そして、六年以上の年月、生死不明の伴侶を捜し続けているという、希望を捨てない強さも知った。

 素直で優しく、聡明な一人息子を一人で育てたということ。記憶を失って、猜疑心さいぎしんが強くなっていたシルヴィアの信頼を得ているということ。その二つの事実だけでも、信じるに足る青年だということが判る。

 それだけでも充分なのだが、一方では、自分の喜びを抑えることが出来ない若さも見た。これで、この青年を悪く思えるのなら、きっとそう思う方に問題があるのだろう。

 だが、今のこの様子は尋常じんじょうではない。

 物音を聞きつけて、別室で休んでいた子供までも扉から顔を出していたが、人の気配にさとい筈の剣士である青年は、全く気付いてもいないようだった。

 何かを捜していたティルダールが、目的の物を見付けては、投げるように食卓の上に出していく。普段から持ち歩いている長剣はすでに置かれていたが、通常では使用していないと思われる革の防具、長剣よりやや短い直剣、大ぶりの短刀、帯のような革の収納に並べられた多くの小剣までも取り出すに至って、とうとうサイト老も問わないわけにはいかなくなった。

「ワイズ殿、どげんされたとか?」

 本当に気配に気付いていなかったティルダールが、びくりと振り返る。その顔は蒼褪あおざめ、榛色はしばみいろの双眸は炯々けいけいと殺気すら放っていた。

「……すみません。シルヴを盗られました」

 噛み締めた歯の間から絞り出すように、ティルダールが云う。

「俺が付いていたというのに、みすみす目の前で───」

 自分の不甲斐無さと怒りと───渦巻く感情を抑えきれず、拳を床に叩きつける。

「まずは落ち着かな、ワイズ殿。そうやって無闇に追って、取り返せる状況なんか? わしに手助け出来ることもあるんと違うか? 何よりも、おまえさんがそうだと、坊が怯えるとぞ」

 そう指摘されて、ティルダールはやっと、扉に隠れるようにして息子が見ていることに気付いた。父親と同じように蒼褪め、大きな水色の瞳に零れる寸前の涙を湛えたまま。

 ほんの少し表情を緩めたティルダールが両腕を広げると、アルフェスは真っ直ぐにその腕の中に飛び込んで来る。そうなるともう、泣き出すのを止めることは出来なかった。

「何があったのか、話してくれんか」

 サイト老の静かな促しに、少しだけ冷静になったティルダールは、二人が眠ったあとの出来事を、シルヴィアから聞いた話も含めて、途切れ途切れに話した。



 岬の家の居室は二つ。

 通常は主人の寝室として使われている部屋は、昨夜からアルフェスの病室になっており、まれに訪れる客の為の予備の部屋にサイト老が休むことになった。かつては、シルヴィアも寝泊まりした部屋だ。ティルダールとシルヴィアは、普段から野営に慣れている為、食堂兼居間である部屋の何処ででも休める。雨風をしのげる屋根や壁があるのだから、充分過ぎるほどだ。

 疲労からか、少しふらつきのあるサイト老の寝支度にティルダールが付いて行き、シルヴィアはアルフェスに食後の薬を飲ませる役割を請け負う。

 シルヴィアは、眠るまで傍に居て欲しいという子供の要求に喜んで応え、落ち着いた寝息が聞こえて来るまで、寝台の傍でずっと手を握っていた。やがて、子供が完全に眠ったのを見計らって居間に戻ると、そこには誰も居なかった。音を立てないように注意して客間を覗くと、日除けを降ろして薄暗い部屋には、ひっそりとした寝息が一つ。居間を改めて観察すれば、暖炉の傍に干してあったティルダールの衣服一式がない。───と、いうことは……と、まだ少し湿っている自分の服に着替え、いつもの格好で家の外に出る。

 ティルダールが向かうとすれば、まずは馬屋だろうと当たりを付けて行くと、案の定、見慣れた後姿が馬達の世話をしていた。

(長旅には欠かせない大事な馬達だが、それ以上に馬が好きなんだろうな。コ・ルース・リィンは名馬の産地だといっていたから)

 一ヶ月半ほどの付き合いだが、ティルダールが体を動かすことを惜しむ姿を見た事がない。だからだろうか───狩って来た獲物の処理をしていたり、野営の設営をしていたり、サジムの村では農作業に励んでいたりと、働いている後姿を何度も見て、その背中をいつの間にか見慣れていることに、今更ながらに気付いた。

 そんな細やかな気付きに、少しだけくすぐったい温かな気持ちになる理由は、今はまだ判らない。

「サイト老は、随分と旅慣れた方なのだろうな」

 振り返りもせずに声を掛けられて、鼓動が一つ跳ねる。

 やや離れた場所から眺めていたとはいえ、剣士であるティルダールが人の気配に気付かない筈はないのに、自分の物思いに気を取られてそんなことすら失念していた。

「昨夜のあの状況での短い時間で、必要な世話をしてくださっている。余程手馴れていないと出来ないことだ」

「……以前、ここでお世話になっていた時に、旅の話を幾度も聞いた。聖都を出られてから、かなりあちらこちらを回ったそうだ」

 声に動揺が表れないよう、充分に気を付けながらいつものように返す。我がことながら、昨夜から今日に掛けてのシルヴィアは、かつてないほど感情の起伏が大きくて、少々自分を持て余し気味なのだ。

 馬達の状態を確認したティルダールはようやく振り返り、改めて正面からシルヴィアと向き合った。

「それで、シルヴは何の用だ? もう少し休んだ方がいいのではないか? それとも、二人に何か……」

「いや、そうじゃない。二人ともよく眠っている。それよりも───おまえと少し話がしたい」

 ふむと肯いたティルダールは、馬屋から少し離れ、海と海岸を一望できる場所にある適当な岩に腰掛け、シルヴィアを手の動きだけで招いた。改めて───となると、何やら気恥ずかしい気もするが、自分から云い出した手前、シルヴィアも大人しく歩み寄り、ちょうどアルフェスが居たらそこに座るような一人分の間を空けて、似たような岩に座る。正直なところを云えば、色々と整理出来ていない今は、あまり近過ぎる距離に座る気にならなかったのだ。

 シルヴィアが空けた一人分の距離に、ティルダールは束の間複雑な色の視線を落としたが、特に何かを云うことはしなかった。

 並んで座って見る風景は、相変わらず灰色の濃淡だけの空と重い色合いの青灰色の海、だらだらと続く白い砂浜と暗緑色の防風林だけだった。控え目にいっても心が浮き立つ景色ではない。

「それで?」

 相変わらずの少ない言葉で、ティルダールが話を促す。もう少し、こう───相手が話し易い対応をする気はないのだろうか?

 これが彼の性分なのだと判っているのだから、今更とやかくいっても仕方がない。薄い溜め息一つでそれを諦めて、シルヴィアは単刀直入に本題を切り出した。

「正直にいって、今日のテュール・シンと老の話は、わたしにはさっぱりだ。実感がないことこの上ない。おまえは本当に、わたしとおまえの奥方が同じ人間だと思っているのか?」

「勿論」

「だが、わたしの記憶が戻らないままだったり、万が一にも違ったらどうする気なんだ?」

「記憶の件はどうなるか判らないが、病や怪我のような、自然発生的なものではないと考えている。それならば、解決策は捜せるだろう。それに、エリィとシルヴが別人だということは在り得ない」

「何故そう云い切れる?」

「俺がおまえを間違えるわけがないからだ」

 或る意味、取りつく島もない台詞に、シルヴィアはもどかしくて髪を掻きむしりたい気分になった。ティルダールの確信は彼だけのもので、シルヴィア自身は微塵みじんも同調出来ない。同調出来ないが故の葛藤を、どう話したらこの鈍い男に解らせることが出来るのだろう?

「俺の言葉だけでは信じられないなら、皆でコ・ルース・リィンに帰ってみるのもいい。義父上とエリィの弟のシェインが居る。二人も色々と戸惑うだろうが、しばらく共に過ごせば、シルヴがエリィであることは二人にもすぐに解ることだ」

 それでいいかもしれない。けれども、シルヴィアの不安は別の所にあるのだ。

「では、こう考えてみてくれ。テュール・シンの言い分を丸呑みすれば、わたしはアルフの母親、おまえはわたしの夫ということになる。それが嫌だといっているわけではないんだ」

 『嫌なわけではない』と正直に云うのは、かなりの抵抗と無視出来ない羞恥しゅうちがあったが、この先を話す為には云わないわけにはいかなかった。

「記憶はなくてもなのだと自分を納得させて、旅をするなり、どこかに腰を落ち着かせるなりして暮らしていたとする。そこにもしも、本物の奥方が現れたら───わたしはどうすればいいんだ?」

 シルヴィアに考えろと云われたので、ティルダールも真面目にその状況を考えてみた。

 過去の一部を共有していなくとも、家族として平穏な生活(おそらく)をしているとして、そこに本物のエリア・シルヴィアが帰って来る。ティルダールとしては、シルヴィア=エリア・シルヴィアは確定なのでかなり難しい想像だったが、状況だけなら思い浮かべることが出来なくはない。帰って来たエリア・シルヴィアが、容姿も記憶も揃っているならば、そちらが本物だということになる。一方で、過去の自分を失っているシルヴィアは、偽物の類似人物ということだ。のみならず、ティルダール達と出会ってからその時に至るまでの、立ち位置や自分の存在意義まで失ってしまうだろう───つまり、彼女が恐れているのは、自分が何者か確信出来ないことなのだ。それは理解出来た。

 けれども、無意味な想定だとしか感じない。何故なら、同じ人間が同時に二人存在することなど在り得ないからだ。それほどまでにティルダールにとっては、シルヴィア=エリア・シルヴィアの図式に疑いがないのだ。

 だとすると、問題はシルヴィアの気持ちということになる。

「───考えてみた」

「それで?」

「別に、どうもしなくていいんじゃないか?」

 この男、本当にぶった切ってやろうか───シルヴィアの脳裏を、かなり本気の殺意が奔り抜けた。勿論、熟練の剣士であるティルダールに、その殺気が察知されることなど想定済みだ。

「いや、本気で怒る前にとにかく聞け。適当なことをいっているわけじゃない。つまり、シルヴの抱えている不安は理解した。だが、シルヴと別にエリィが存在することは絶対にないから、それは大丈夫だ」

「絶対……大丈夫って……確信持ち過ぎだろ、おまえ……」

「俺がおまえを間違えるわけがないからな」

 もう何度聞いたか判らなくなりそうな決まり文句を口にしたあと、ティルダールはしばし黙り込んで、次の瞬間吹き出した。

「テュール・シン───わたしは真剣なんだぞ」

 すでに機嫌が斜めになっていたシルヴィアの声が、これまで聞いたことがないほど地を這う。

「すまん、ふざけているつもりはないんだが───シルヴ、もしくはエリィが本当に二人居ることを考えたら、かなり大変そうだなと……」

「そ~れ~の~、どこがふざけてないんだっ!」

 ついにキレたシルヴィアは、一人分空けていた距離を詰め、抵抗する素振りもない男の胸倉を掴んで力一杯揺さ振った。頑丈な男だということは判っているので、もう遠慮なんかしない。事実、そうされてもティルダールはただ笑っていた。

「本当に、真面目に考えた。つまり、シルヴは自分をエリィと思えないから、エリィの立ち位置で俺達と一緒にいることが納得出来ないと、そういうことだろう?」

 核心を突かれて、シルヴィアの動きが止まる。

「それなら、エリィとしてではなく、シルヴとして一緒に居てくれないか?───つまり、俺が惚れている女として」

「は?」

 あまりに意表を突かれて、シルヴィアの反応はかなり間の抜けたものになった。実際、云われたことの意味は頭に入っていない。

「エリィとしてではなく、シルヴとして出会ったおまえに惚れている」

 予想だにしない言葉を聞かされて、シルヴィアはティルダールの胸倉を掴んだ体勢のまま固まった。そして、見る見る顔が朱に染まっていく。

「そんなの……聞いていないぞ」

「いっていないからな」

 短く言葉を交わしている間に、ティルダールは自分の胸倉にあるシルヴィアの腕を強く引き、惚れた女を腕の中に深く抱き込む。

「シルヴは大した女だ。男でも女でも、シルヴと同じ境遇に陥れば、恐れと不安で膝を抱えてうずくまり、自分の意思では動けなくなる方が普通だ。けれども、シルヴは動いた。失くした自分を取り戻す為に」

 計らずも、ティルダールの胸に頬と耳を当てる体勢になったシルヴィアは、彼の鼓動や息遣い、低い声の響きを至近距離で感じる羽目になった。

「そして、自身が彷徨さまよい人になりながらも、誰かを守ろうとする強さがおまえにはある。そんなおまえの在り様に、そうして戦う時に放つ輝きや、周囲の人々に見せるおまえの情の深さに惚れた。おまえは、まれにみるほど格好いい女だ」

 背中に回された腕の力強さや、肌で感じる体温や鼓動の速さ───そのすべてが、ティルダールの言葉が偽りではないと伝えて来た。それが嬉しくないと云えば、嘘になる。しかし───。

「……あまりに都合良過ぎる言い訳じゃないか? テュール・シンは、奥方を愛していると何度もいったじゃないか。奥方に惚れていたんだろう? だったら、結局いっていることは同じなんじゃないのか?」

「それは違う。エリィに対する気持ちと、シルヴに対する気持ちは違うものだ」

 ティルダールが、シルヴィア=エリア・シルヴィア説を唱え始めてから、初めて出る『違う』という言葉。だが、シルヴィアにはまだ、その違いが理解出来ない───そう顔に書いてあったのだろう。ティルダールはそのまま、『違う』ことを持てる言葉で説明を始めた。それは、元々口数が少なく、説明があまり得意ではなさそうな彼の、精一杯の誠意なのかもしれない。

「俺とエリィとエリィの弟のシェンは、幼い頃からずっと一緒に育って、ある意味では兄妹同然だった。同じ教育を受け、同じ鍛錬たんれんをして、コ・ルース・リィンを守るという同じ目的を共有していた。だが、初めて出会った時、すぐにお互い理解していたんだ。この相手は、自分の相棒で片翼、魂の半身であると───だから、兄妹のように育っても、決して兄妹には成り得なかった。そのことは、話したか?」

「ああ、確かにそう聞いた」

「エリィがいずれ政略結婚をするのは、領主の一人娘という立場から、避けようのないことだと判っていた。だから俺は、そのエリィの側近になって、一生あいつを近くで守るつもりでいた」

「そして、それが出来なくなって、離れることも出来ずに故郷を出奔したといってたな」

「そうだ」

 故郷を出てからのことを思い出したのか、ティルダールは考えをまとめるようにしばし黙り込み、ゆっくりとその先を続けた。

「初めの頃は、どこかに腰を落ち着け、それぞれに伴侶を見付けて家庭を持つことになるかもと、そんな話もしていた。しかし、旅先で色々とあって、もしもお互いが連れて来た伴侶がロクデナシだった場合、あるいは伴侶の方をより大切にし始めた場合、お互いがそれを黙って見ていられるか・いられないかという話になって……」

「結局は、それは見ていられない・黙ってもいられない。お互いに相手を一番大切に思っていて、一番愛してもいるのだから、危険な橋は渡らずに一緒になってしまおうと、単純に考えたわけだ」

 やや刺々しいシルヴィアの言葉に、ティルダールは苦笑いを浮かべながら答えた。

「まあ、つまりそういうことだ」

「いいのか、生涯の伴侶をそんなに簡単に決めて」

「簡単ではなかった。けれどエリィの方が、思いっきりが良かったな」

 まだ、シルヴィア=エリア・シルヴィア説を承認したわけではなかったが、自分の行動をかんがみるに、どう『思いっきりが良かった』のか、何となく判るような気がした。ここは、敢えて訊かない方が、自分の為かもしれない。

「それで? 今一つ要領を得ないが、結局何が違うんだ?」

「エリィとの間では、『お互いに別の伴侶を選ぶ』ということが考えられた───ということだ。最愛の伴侶で最高の相棒だったが、惚れ合ってはいなかったのだと、今なら判る。だが、シルヴは駄目だ」

「駄目? 何が?」

「おまえは、他の奴にはやれない。どこの馬の骨だろうと、領主の一族だろうと、絶対に渡さない」

 これほど明け透けな告白はないだろう。

 そして、これほど自分勝手な言い分も。

「ちょっと───ちょっと待てっ!」

 シルヴィアは全身の力を籠めて、抱き締められている体勢から、ほんの少しだけティルダールの胸から距離を取った。そうでもしないと、彼の顔を見ることが出来なかったからだ。

 自分の顔が紅潮しているのは仕方がないとして、この無粋で不愛想な男は、どんな顔でこんな小恥ずかしい告白をしているのか?

 それに、本当に大事な話をしている時に、相手の顔を見ない・見られないというのは、あんまりではないのか?

「そんなの聞いていないぞ」

「いっていないからな」

「いったい、いつからそんなふうに……」

「割と最近だな」

 ティルダールの表情はいつもと変わらないふうだったが、シルヴィアは見逃さなかった。癖のある髪に半ば隠れた耳が、彼らしくなく真っ赤になっていることを。

 恥じらっているのが自分だけではないことが判って、ほんの少しだけシルヴィアに余裕が生まれる。

「わたしの自由意志はどうなるんだ? もしも、わたしが別の男性を選びたいといったら、おまえはどうするんだ?」

「勿論、シルヴの意思は尊重したい。だが、判っているか? おまえの回し蹴りを食らって、平然としている男がどの程度いる? 誰か判らないその男の生命と心の安全の為にも、俺を選ぶのがだ。何しろ俺は、おまえ専用に特化して鍛えられた男だからな」

「人を危険人物みたいに……」

 けれども、ティルダールのいう通りだ。自分の各種行動を顧みれば、並の技量の男性ではシルヴィアの相手に成り得ない。対等かそれ以上の男性か、アルフェスのように彼女が守る対象でなければ、普通に付き合うことも難しいだろう。

「……もう一つ訊かせてくれ。愛した女性が奥方で、惚れた相手がわたしで、どうやら奥方とわたしは同一人物らしいが、そのことはどう考えているんだ?」

「多少順番が逆になったような気もするが、愛したエリィと惚れたシルヴが一人のおまえだったのだから、得をしたというか、幸運だったと思っている。いい忘れていたが、俺を選べば、漏れなくアルフも付いてくるぞ」

「……ずるい…」

 最初は、無口で不愛想な真面目な男と思っていた。

 口説かれているのは判っているが、ここぞという時のこの能弁さは、さすが領主一族の側近を務めていただけのことはある。こうまで云われれば、シルヴィアの選択肢はあまりにも限られていた。

「おまえはずるい。これでは、わたしが選べる道がないじゃないか……」

「当然だ。もう二度と、おまえを手放す気などないからな」

 しくじった───と思った。

 ティルダールの胸と多少の距離を作ってしまった為に、間近に見つめ合うことになってしまった。軽い口調で話してはいるが、怖いほど真剣な少し茶色がかった榛色の瞳と、吐息が触れ合う距離で……。

 シルヴィアの背中と腰に回された腕の力がほんの少し強まり、ティルダールの顔が更に近付いて来て───僅かな恐れを抱えたまま、シルヴィアはやんわりと目を閉じた。



 海に突き出した岬の上の家。その家の周囲だけが平らにならされていて、家と馬屋を兼ねた倉庫といくばくかの樹木に占められている。海岸よりその家に至る道は一本のみ。辛うじて馬が通ることが可能な、急傾斜の道だ。

 そんな安全とはいい難い敷地の端を、シルヴィアが踊るような軽い足取りで歩いていた。数歩あとを歩いているティルダールも、彼女の運動能力と身軽さを承知しているので、敢えて止めもしない。

「テュール・シン、この下を覗いてみたか? 真下は海なんだぞ」

「いや───だが、シルヴ、大丈夫なのか? 青は好きではないのでは?」

「ああ、そうなんだが……」

 そういえばそうだったと云いかねない口調で答えながら、シルヴィアは敷地の切れ目を背に、ティルダールを振り返る。

「何だか変な気分だ。海が、ただ当たり前に海に見える。空も今日は青灰色だが、ただの空だ。おまえもただのおまえで、わたしもただのわたし───単純にそう思えることが、何だか不思議だ」

 何か重いものから解き放たれたように、晴れ晴れと笑いながら、当たり前のことを嬉しそうにシルヴィアが云う。

 そうか───と、やっとティルダールは納得した。過去を失ったシルヴィアにとって、すべての物・すべての人々が未知の世界の物事だったのだ。だが、ここに至ってようやく、自他の接点が持てたということなのだろう。その理由はつまり……。

「それは良かったな」

「それでは困るのだ。やっと我が手に取り戻したというのに」

 ティルダールの他愛もない相槌に被さるように、シルヴィアの口から彼女では無い声が発せられた。ティルダールには聞き覚えのある、シルヴィアには全く覚えのない、威圧的な声が。

 黒曜石の双眸が驚愕と恐怖に見開かれ、たちまち顔が蒼褪めていく。前回と違って、今度は彼女の意識は保たれたままなのだ。

「シルヴ、こっちへっ!」

 ティルダールの叫びと同時に、シルヴィアの背後に巨大な影が出現する。岬の家を覗き込む巨大な生き物───蛇に酷似こくじした藍色の鱗に覆われた頭頂部分。その左右には、虹色に光を反射する絹地のようなひれ───海蛇かいだだ。しかも、特別に巨大な。

 本来ならば、恐怖に負けて萎縮いしゅくする彼女ではない。動かないのは、動けないからだ。声の主に、体をも拘束されている。

 ほんの数歩───その絶望的な距離。

「翼の祝福を受けた陸の男よ。我が娘、確かに返してもらったぞ」

 宣言と同時に海蛇の舌がシルヴィアに巻き付き、彼女の足が陸から離れる。

 確保されると同時に呪縛が解けたのか、海蛇の舌に捕らわれたシルヴィアは激しく暴れた。辛うじて自由に動かせる右手を、眼下のティルダールに必死に伸ばして……。

「嫌だっ! テュールっ!」

 血を吐くような叫びを残し、空中へ───そして海へと彼女は消えた。あまりにも、一瞬の出来事だった。

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