─── 3 ───

 雨が止んでいた。

 顔を上げた先に両開きの窓があり、玻璃はりめこまれている。強い海風から玻璃を守る為に狭い間隔で格子が作られていたが、その隙間からでも空が見えた。

 平坦な灰色一色の曇り空───雨は降っていないが、この数日ずっと灰色の濃淡だけの空ばかりなので、時間の経過をそれだけで判断することは出来ない。確かに判ることは、少なくとも夜は明けているということだった。

 ティルダールはしばらく前に目覚めていたが、動くことが出来ないまま、ただぼんやりと窓から覗く狭い空を見ていた。

 泥のような疲れに引き摺られて眠りはしたものの、完全には気を緩められない緊張感故に、浅い眠りと覚醒の間を漂っていた気がする。勿論、そんな眠りで疲れが完全に取れるわけもない。けれども、ティルダールが動かないのは、それが理由ではなかった。

 右肩にもたれる温かく柔らかい重みが、彼に動くことを躊躇ためらわせるのだ。

 ほんの少し視線を向けると、純白の絹糸のような髪があり、静かに保っているティルダールの呼吸にさえ、微かに揺れる。昨夜の記憶の最後の部分の通りに、シルヴィアが彼に寄り掛かったまま眠っているのだ。

 シルヴィア=エリア・シルヴィア説は、愛息子にも彼女本人にも受け入れられていないが、ティルダールの中ではすでに確定事項になっている。だからこそ、彼女の眠りをさまたげるのを躊躇い、この温もりから離れ難く、少しでも長く感じていたいと思ってしまったのだ。

 しかし、そろそろ限界だった。長時間同じ姿勢を続けていた為、節々が痛み出している。それに、彼自身がそうであるように、シルヴィアもまた、こんな体勢では充分な休息を得ることは出来ないだろう。

 ティルダールは、シルヴィアを起こさないようにゆっくりと体を動かし、二人で座っていた寝椅子に彼女を横たえた。

 体の向きが変わってなお、シルヴィアが目覚める気配はない。

 無理もない。

 ただでさえ、長旅の疲れがあった。ようやく少しゆっくり休める筈だったのに、思い掛けない騒動があり、ろくに休息出来ないままに一夜の強行軍───最後には泣き疲れて眠ったのだ。しばらくの間は、目覚めなくて当然だろう。

 いつもより遥かに頼りなげに見える寝姿に、手近にあった毛布を掛けてやり、自分は木の床に直接座る。昨夜から続いた事態に、ティルダールも自身の体を重いと感じるほどの疲れが残っていたが、眠気はきれいさっぱり無くなっていた。


 そう、昨夜───到着したばかりのヴェリヘルから、脱出を余儀なくされたのだ。

 長引く季節外れの雨と、不可解な出港不能による物流の停滞に、ヴェリヘルの民の不満と不安は途轍とてつもなく大きくなっていた。そこに、海の司神リール・ネ・ネイディスの神殿からお告げが下る。『白い髪の若い女を神殿に捧げよ』と。

 当然、行き場のない不安を抱えていた民達は、そのお告げに飛び付き、ままならぬ不安は怒りへと簡単に転化したのだ。そして、霧雨の中でそれぞれに灯りを掲げた人々は、本来『女を捕らえる』だけであれば必要のない武器となる物をたずさえる暴徒だった。

 泊まる筈だった宿に出口は一つだけ───だが、危険が迫る前に脱出を決行した一行は、少なくとも乗馬を連れて宿を出ることには成功した。けれども、そのまま誰にも見つからずに街を出るには、あまりにも多勢に無勢過ぎた。そして、夜半に乗馬を連れた子連れの一行は、誰何すいかするには充分過ぎるほど不審だったのである。

 足止めをされ、言葉を交わせば、いずれ顔を見られる。シルヴィアの白い髪も。

 挙動不審な一行として複数の人間に行く手をさえぎられた時、彼らには強行突破の一手しか残されていなかった。

 行商の馬車隊や船の護衛である戦闘要員や、荒くれ者と紙一重の船乗りもかなりいたが、彼らとて剣士や戦士のような戦闘の専門家ではない。ましてや、街の住人達は、武器を携えただけの非戦闘員だ。それでも、数が揃えば手加減をするのは難しかった。可能な限り少ない手数で戦闘不能にしなければ、物量に押されてすぐに捕縛されてしまう。そうなってしまった場合、シルヴィアが、そして用のないティルダールとアルフェスが、どのような扱いを受けるのか考えるまでもない。

 最初は、アルフェスを抱えたティルダールをかばい、シルヴィアが閃光の速さで暴徒を退けた。───が、呼子が鳴らされ、暴徒が集まって来る状況になった時点で、アルフェスはシルヴィアの手に渡り、ティルダールが先陣を切った。

 唯一有利だったのは、どれほど数多くの人々が夜間の捜索に出ていたとしても、南方海岸部随一の港湾都市のすべての道を、統制されていない群衆が封鎖するのは不可能だということ。更に、人々が灯りを掲げていることが、手薄な場所を知る手掛かりになった。乗馬した高い視点からそれを見極め、暴徒が少ない場所を狙って突破して行く。武器を交えたのは、最初に発見された時と、入り組んだ場所で一度、街を出る大門の前でもう一度───計三回だけだ。

 それでも、何人かには致命傷を与えてしまったかもしれない。重軽傷者に至っては、どれほどの人を傷付けてしまったかも判らない。

 個々に対峙したのであれば、ティルダールやシルヴィアの方が強いことは自明で、傷付けずに倒すことも可能だっただろう。だが、あまりにも多数を相手にした時、手加減している余裕は、体力的にも時間的にも無かった。

 ティルダールが活路を切り開いている間、アルフェスはシルヴィアの手にゆだねられていた。敏捷さが最大の武器である彼女にとって、庇護者の存在は、さぞ足手まといになった筈だ。けれども、互いの役割を代えるわけにはいかなかった。人垣を切り崩し、力業で強引に道を開く戦闘は、女のシルヴィアには荷が勝ち過ぎるからだ。

 そして、シルヴィアは見事にアルフェスを守り抜いた。勿論、それが出来ると信じていたからこそ息子を預けたのだが、それでも戦闘の端々で垣間見る彼女の戦い振りは、信頼に応えてあまりあるものだったのである。

 自分の体の動きを最小限に抑え、射程距離に来た者だけを確実に倒す技術もさることながら、我が身で子供を庇い、それでいて決して退かないという行動は、男でもおいそれと出来ることではない。

 突破口を開きながら背後に気を配っていたティルダールは、シルヴィアのその姿を美しいと感じた。

 単なる造形の“美”ではない。全身から炎のごとくほとばしる生命力、漆黒の双眸に宿る気迫───美しいだけの造形物には決して持ち得ない、熱を伴う“美”だ。今は滅び去ったガイエという王国に、我が子を守る為に鬼神となった母の物語があるという。例えば、その鬼神は目の前の戦う女のようだったかもしれないと思わせる、そんな美しさだった。

 しかし、彼らの最大の苦境は、ヴェリヘルを脱出したあとに訪れた。

 待ち構えていたのは、自然の脅威───絶えず降り続ける凍てつく雨である。こればかりは、人の力の及ぶところではない。頭に血が上った暴徒達も、夜の悪天候の中までは追って来ない。それほどに無謀な行為だった。

 取り敢えずは、シルヴィアが云っていた恩人の所に行くことにしていたものの、その場所まで徒歩で半日───馬があるとはいえ、夜の悪天候下ではどのくらいの時間が必要なのか……。最大の問題は、大人でも体温を奪われて消耗する冷たい雨の中で、アルフェスの体力がどこまで持つかということだった。

 ティルダールはいつものように鞍の前に息子を乗せ、自分の肩布で小さな体を覆った。そして案内をするシルヴィアを先に立て、話す間を惜しんで馬を駆ったのである。

 あとは、時間との競争だった。

 元々微熱があったアルフェスの体は、時が過ぎるにつれて熱くなり、抑えきれない震えが大きくなっている。こんな状態でさぞ辛いだろうに、状況を理解して泣き言ひとつ云わない息子に、ティルダールは苦い誇りを感じていた。

 ひたすら先を急いで、海岸沿いを西に走る。先を急げば急ぐほど、向かい風で更に体温が奪われることになる。それでも、ただ前へ進むしかないのだ。

 ティルダールが酒場で買っておいた一瓶の果実酒が、僅かな慰めになった。馬を止めないまま、少しずつ三人で回し飲みにする。酒精で微かに得られる体温も、次の瞬間には風に奪われる儚いものではあったが、それでもないよりはましというものだ。

「あそこだ」

 掠れた聞き取り辛い声でシルヴィアが云ったのは、ヴェリヘルの影と灯りが遥か後方に消え去り、夜半をとうに過ぎてからだった。

 宿場町がある街道沿いからも離れた場所で、辺りにはうずくまる影のような漁師小屋がぼつぼつとあるだけという、さびれた岬───その岬の海に突き出た断崖の上に、目指す場所があるという。

 いわれてみれば、闇と雨に煙る視界に居座る岬の影の先端に、行く手を示す微かな灯りが見えた───見えることは一応見えたが、岬を登って行く必要がある為、未だ距離は遠い。

 シルヴィアが最後に言葉を発してからのち、最後の道程をどうやって辿ったのか、ティルダールでさえ覚えていなかった。岬の上に建つ一軒の家の前に着いた時には、寒さと疲労でシルヴィアは鞍から落ちかかっており、ティルダールがその手綱を握っていた。アルフェスに至っては、ずいぶん前から意識がない。

 足元も覚束おぼつかない闇の中に、四角く切り取られた灯りがある。

 そう気付いて、ティルダールは朦朧もうろうとしていた意識を最後の気力で引き締め、馬から降りて真っ直ぐに背筋を伸ばした。

 岬の家の主人が、戸口で彼らを待ち受けていたのだ。

「突然、夜分遅くに申し訳ない。一夜の宿を───」

 ティルダールの声は、自分でもそれと判らないほどにしわがれていた。

 主人は、彼の言葉を遮るように鷹揚おうようと肯き、彼らを差し招いた。

「話はあとで。まずは中へ入るとよか」

 暗さに慣れた目に、主人は黒い影としか映らない。この当然のような成り行きを不審に思っても、ここで別の行動を起こす余力はティルダールにすらなかった。

 主人は無言で二本の手綱を受け取り、自ら納屋へ馬を引いて行ってくれる。その間にティルダールは、左肩にアルフェスを担ぎ、右手でシルヴィアを抱き支えて、光りの輪の中に踏み入った。

 家の中に入ると、岬のふもとからも見えた灯りがひどく眩しく、束の間、目がくらむ───と同時に、緊張していた体から力が抜けそうなほどの暖かさに包まれる。

 ティルダールはようやく深く息を吐きながら、取り敢えず目に入った寝椅子に、自分で立てないシルヴィアを座らせた。たったそれだけのことをしている間に、この家の主人が戻って来る。

 光に慣れ始めた目で見た彼の主人は、灰色の髪をした初老の男だった。船乗りや農夫のように長い時間を野外で働く人々と同じような、陽に焼けて荒れた肌の色をしている。けれども、真っ直ぐに伸びた背筋も、黒い両目に宿る光も、およそ老いとは無縁のようにも見えた。

「老……サイト老───アルフを、子供をどうか……」

 辛うじて意識を保っていたシルヴィアが、掠れた声を必死に絞り出す。

「判っとうよ、リューイン。ぼちぼち来ると思うとった。愛し子は任せときなさい」

 なまりの強い言葉だったが、意味は通じた。そして、この家の主人が多くを承知していることも。

「あなたは、いったい……」

 呟きに近い問いを発したティルダールに、サイト老と呼ばれた主人は、我が子を見るような温かな笑みを返す。

「こんな老人やけど、若い時分には聖都で学んどった。多少の予見と医療の知識はあるけん、坊やのことは引き受けよう。おまえさん達は、まず自分の体を温めんと。そこに、手拭いと湯を用意しとるけん使いなさい」

 聖都で学んだ。

 学びの程度も色々あるが、それが事実であるのならば、ユリティスの王国においてこれほど信頼に値することはない。魔法と知識の殿堂・聖都───この王国の知性の最高峰がその都に存在するのだ。

 それぞれ各地方で、各々発達した知識・技術・文化はあるが、それでも総合力で聖都に勝る学び舎はない。聖都で学んだ者は、どこへ行っても相応の敬意を持って遇され、その知識を信頼される。更に、聖都の知識を極めて自らの杖を得て、魔法使い、もしくは賢者と称される者に至っては、万人の尊敬を得るに値するのだ。

 勿論、サジムの村で出会った女占者のように、個人の資質による差異は存在するのだが。

 今この時、出会ったばかりのこの家の主人が、信頼に値する相手かどうかを判断することは出来ない。また、それを確かめる時間的余裕もない。ティルダールとしては、シルヴィアが信頼している人物という一点に重きを置くしかなかった。

「どうか、お願いします」

 何とか声を絞り出し、腕の中にある二つとない宝をゆだねる。

 主人は深く頷くと、慎重にその宝を受け取り、寝室と思われる奥の部屋へと入って行った。父親であるティルダールの不安を煽らない為にか、扉は開いたままにしてある。

 一度信じると決めた以上、おろおろとしていても仕方がない。父親とはいえ、今のティルダールが一人息子にしてやれることはないのだ。

 主人とアルフェスを見送ったあと、ティルダールは凍えて強張った体をのろのろと動かし、膝上まであるシルヴィアの長靴を脱がせた。

 寝椅子に座り込み、ぐったりと動かないシルヴィアは、半ば気を失っているのかされるがままになっている。とにかく、体温を奪う濡れた衣服を何とかしなければならず、ティルダールはずぶ濡れの肩布や革の胴着、剣帯などを外していった。

(さすがに、目のやり場に困るか……)

 ほんの少しそう思う。ただでさえ、剣を振るう動きを妨げないよう、布の総量を多過ぎず少な過ぎず、男物と同じように作られたシルヴィアの服は、芯まですっかり濡れて肌に貼り付き、体の線が判るどころではない状態になっていたのだ。

 けれどもティルダールは、正面から彼女を見据えたまま作業を行った。本来は非礼極まりない行為であることは、充分に判っている。だが、さしもの彼も限界が近づいていた。自分の手元・足元を確認しながらでなければ、必要なことすら出来そうになかったのだ。

 細やかな慰めは、疲弊ひへいして冷え切ったシルヴィアに助力したあとに、余分なよこしまな気持ちを抱いたり、息子には決していえないよからぬことをする元気すらなかったことだろう。

 困難な単純作業を終えて、シルヴィアを毛布で包んでから、たらいに用意してあった湯を張って白い足を浸す。そこまで終えてから、ようやく自分の服を脱ぎに掛かった。正直なところ、庇護したい二人の用事が済めば、自分のことはどうでもいいような気がしていたが、現状で怠惰なことをすれば病人が二人になることも判っていた。だから、アルフェスやシルヴィアに対するように、注意を払って・丁寧に───とはいかないが、濡れた服を脱いで乾いた毛布にくるまるところまでは何とか……二人分の濡れた衣服が小山になったが、その始末はもうあとでいいだろう。そして、シルヴィアの足元に座り込み、自分の両手を温めるのと同時に、強張った彼女の足を揉み解し始める。かつて、初めての妊娠の臨月の頃、足の痛みを訴えるエリア・シルヴィアにそうしていたように。

 やがて、湯を含むそれらの温もりが徐々に体に回り始めたのか、蒼褪あおざめるのを通り越して紙のように白くなっていたシルヴィアの頬が、痙攣けいれんのように微かに動く。

「…アルフは……?」

 色の無い唇が最初に紡いだのは、子供を案じる言葉だった。

「今、ここの御主人が看てくださっている。サイト老とおっしゃったか?」

 ティルダールの応えを、かなりの時間を掛けて飲み込むと、シルヴィアは緩慢かんまんに肯いた。

「それなら大丈夫だ。あのお方は、ヴェリヘルの領主が直接訪ねて来るほどの医療師だから」

 平静な声を保つのにかなりの努力を払っている証拠に、シルヴィアの声は小刻みに震え、潤んだ黒い瞳は不安げに大きく見開かれていた。

「テュール・シン、済まない。わたしのせいで───」

 そう云った途端に、抑えきれない涙が頬の上を転がり落ちた。

「どうしよう……あの子にもしものことがあったら、どうすればいい? アルフは何も悪くないのに───悪いのは、全部わたしなのに……」

 一旦溢れた涙は、最早止めることは出来なかった。シルヴィアは、歯の間から絞り出すような呟きを漏らし、両手で顔を覆って肩を震わせる。

「シルヴが悪いわけでもない」

 アルフェスを案じる同じ不安に捕らわれながらも、ティルダールは強さを増す別の感情にも耐えなければならなかった。

 限界ぎりぎりの疲労で心の障壁が降りて、これまで自分で誤魔化していた感情があらわになったのか、それともこの瞬間に新たに生まれた想いなのか、区別がつかない。


 この女が愛しい。


 抑えられない感情に身を焦がしながら、彼女はそれでも嗚咽を噛み殺し、細い肩を震わせて耐えようとしている。この激しくていじらしい、強くて健気な女を支えたい。

 支え、守り、愛したい。

 衝動に近いその想いが、必ずしもシルヴィア=エリア・シルヴィアの可能性に起因していないことに、ティルダールは初めて気付いた。

 この想いは、エリア・シルヴィアとの間で、互いに幼かった頃から育て上げて来た想いとは少し違う。彼女とティルダールの関係の中心に存在するのは、まず何よりも盤石ばんじゃくの信頼だ。事を成す時の相棒で、自分だけでは過不足のある諸々の部分をぴたりと補い合う半身───どこの誰であっても成り代わることが出来ない、魂の片翼。エリア・シルヴィアは、はぐれてしまった相棒を今も捜しているだろう。そして、ティルダールが彼女を捜し続けていることを、微塵も疑っていないだろう。

 勿論、今でも愛している。万が一、今後二度と会えなくなったとしても、僅かの揺らぎもなく生涯愛していると確信出来る。

 けれども、今・この時にシルヴィアに感じている想いは、少し違うようだ。現在目の前に存在しているを、どうしようもなく愛しいと感じるこの想いは───。

「大丈夫だ」

 だがティルダールは、自覚したばかりの想いをしっかりと隠し切った。今はそれどころではないのだから。

 もしも、現在の状況でティルダールが溢れる想いを吐露とろすれば、精神的にも体力的にも限界が近いシルヴィアが受け止めきれる筈もなく、更に追い詰めることになりかねない。ティルダールがいくら疲れ切っているとはいえ、それが判らなくなるほどには思考を手放してはいなかった。

「大丈夫、アルフは強い子だ。俺の息子だからな。そう簡単にどうこうなるようなやわな子じゃない」

 寝椅子の隣に座り、声もなく震える肩を抱き寄せ、冷たい白い髪にそっとくちづけをする。慰めと友愛以上のものを籠めないように、細心の注意を払いながら。

「シルヴは疲れ過ぎている。少し眠れ───何かあれば、必ず起こすと約束する。それに、今のおまえの顔をアルフが見たら、あの子の方が心配をして養生していられなくなるぞ」

 ぎこちない慰めに力無く肯き、ティルダールに子供のように寄り掛かると、シルヴィアの体から力が抜けた。ついに力尽きてしまったらしく、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始める。

 金銀の淡い色合いを帯びた長い睫毛に、溢れたばかりの涙が、小さな雫になって留まっていた。男とは違う繊細な造りの、それでもはっきりした顔立ちが、すぐ傍で無防備な寝顔を晒している。

 この六年以上の間で、彼女がシルヴィア・リューインとなってから、こんな表情を見たのはティルダールだけかもしれない。そう考えると、少しくすぐったいような得をした気分が、凍えた体の中をほんの少し温めた。

 かつて、エリア・シルヴィアと伴に過ごした日々の中でも、似たようなことを感じることがある。姫君にあるまじきした少女を見付けることが出来るのも、無謀な行動や飛躍的に暴走する気性をなだめることが出来るのも、少女の父親である領主以外ではティルダールしか居なかった。それらの事実はそのまま、野の獣のように自由で誇り高い姫君の信頼と、好意の存在によってなし得ることなのである。

 そのことが、少年時代のティルダールの誇りであり、寄る辺ない身の上の支えでもあったのだ。

 だからこそ、より強く・賢くなろうとしていた時代が存在した。彼女と義父である領主の信頼に、どんな時でも応えることが出来るようになる為に───領主の一人娘であるエリア・シルヴィアが、誘拐や暗殺の対象として狙われる度に、必ず護り通せるように……。

 遥かに遠い今は懐かしい日々を、エリア・シルヴィアを失って以来初めて、何の痛みもなく穏やかに思い出しながら、ティルダールはまだ乾き切っていない白い女の髪に、先程とは違う意味を籠めた触れるだけのくちづけをした。

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