─── 3 ───

 数日、サジムの村に逗留した。

 最初の予定より出立が少し遅れたが、期日を決めた旅ではないので問題はない。それよりも、捕縛した者達を確実に領主の使者に引き渡し、村の安全を計る方が重要だった。そして、その引き渡しが済んだ日の夜半、周囲に騒がれるのを好まなかった旅の一行は、サジム一家にだけ別れを告げてひっそりと出立した。

 アルフェスは、父親が操る騎馬の上で過ごすことに慣れ切っていた為、陽が昇るまでの時間のほとんどをうつらうつらと過ごし、夜明け前に大人達が仮眠を取る段階になって、ようやくはっきりと目が覚めた。───とはいっても、二人の保護者はこれから眠るところだったので、仕方なくそのまま父親と一緒に毛布にくるまることになった。

 アルフェスとしては、自分も寝足りていないのは確かなので、出来れば一緒に眠りたかったが、目覚めたばかりではさすがに難しい。かといって下手に動けば、野宿の仮眠時には警戒を解いていない二人が、おちおち眠ってなどいられないだろう。ここ何日もの間、二人は本当に大変だったのだから、少しの休憩ぐらいはちゃんと休ませてあげたい。だから、数日の間に起こった出来事に関して、考えを巡らせていることしかすることはなかった。

 サジムの村に入る前にティルダールが、「次の場所では少しゆっくり出来る」と云っていた言葉は、見事なまでに裏切られた。しかも、彼らのせいではなく。

 小さな農村で起こった事件のせいで、村に滞在している期間、アルフェスは大好きな二人より、サジム一家と居る時間の方が長かった。それは、仕方がないことだとは理解しているので不満はない。

 けれども、戦う二人を見ている間に、とても気になる事があったのだ。

 サジムと一緒にいたアルフェスは、二人が戦っている間は村の広場の近くにいて、シルヴィアが自称“竜の戦士”と戦う姿をずっと見ていた。一方で、ティルダールが側近五人と自称“魔法使い”を追っていったのも判っていたが、常日頃から父親の強さを間近で見ているので、特に心配はしていなかった。ティルダールは、いつも必ず勝って、アルフェスの所に帰って来てくれることを信じているから。

 一人息子の盤石ばんじゃくの信頼に応えて、ティルダールは無事に広場に戻って来た。そして───。

 いまだシルヴィアが戦っていることを知り、ティルダールが二本の剣で鳴らした甲高い金属音───それが、いつまでも耳に残って離れない。

 あの時、本当は何が起こったのだろう?

 一対一の戦いの勝敗を決めたのは、豹変したシルヴィアの動きと剣技───その切っ掛けとなった合図。まるで、二人の間だけで、何らかの決め事があったかのようだった。

 事後処理で村に滞在している間、シルヴィアと二人だけで話す機会があった時に、そのことを訊いてみたことがある。けれどもシルヴィアは、アルフェスが気にしていた合図を、ほとんど覚えてはいなかったのだ。「聞いた……ような気もするが、あの時は体に任せていて、何も考えていなかったからな」と、いうことらしい。

 ティルダールに訊けば、教えてくれるのかもしれない。だけど、ティルダールは嘘を吐かない代わりに、話す時期ではないことは云わない。顔も覚えていない母親=エリア・シルヴィアのことでも、息子の成長に合わせて、話して聞かせられることを選んで、少しずつ教えてくれているような気がするのだ。

 息が掛かるほど間近にある父親の寝顔を見ながら、アルフェスは淋しいような哀しいような、七歳の子供の手には余る感情を伴う光景を思い出してしまった。

 ずいぶん前───それがいつの出来事だったか、明快に覚えてはいない。自分が何歳の時のことだったかも。

 とある深夜、ふと目が覚めたのだ。とても珍しいことだったので、どうして目が覚めたのか、自分でも理由が判らなかった。宿の部屋の灯りはすべて落とされ、月がない夜だったのか、窓から射し込む淡い光もない。そして、いつも感じていた父親の温もりが隣にないことに気付いた時、夜の深淵しんえんに一人取り残された気がして、寝台から出ることすら出来ないほどの心細さに襲われた。

(テュール……どこに行ったの?)

 身動みじろきをすると暗い夜が圧し掛かってくるようで、見える筈のない部屋の中にすがるように視線だけを巡らせる。そして、その暗闇の中にティルダールの姿を見つけた。正確には、父親の形をした影を。

 月明かりがなくとも、窓は部屋の中よりほんの少しだけ青く見える。その青さの中に切り取られた父親の影───窓際に置かれた椅子に座り、テーブルに肘を付き、両手で頭を抱えたまま彫像のように動かない黒い影。

 打ちのめされたようなその形───そんなティルダールの姿を、アルフェスは見たことがなかった。

(泣いているの?)

 涙が見えるわけではない。泣き声が聞こえるわけでも、荒い呼吸音が聞こえるわけでもない。けれども、夜更けに、一緒に眠っていた息子にすら気付かれないように、頑なに動きを止めてしまった父親の影は、深い悲しみの底で泣いているように見えた。

 アルフェスは、その夜のことを父親に話したことはない。勿論、他の誰にも。

 それからは時折───そう、数十日に一度あるかないかの深夜に、同じような事があった。アルフェスがそれを見るのはいつも偶然で、ティルダールが寝台を抜け出すことに気付いたためしはない。だた、ふと夜中に目覚めた時、微かな気配すら放つことなく、夜の底のしじまと同化したような父親の影を見る。

 時には、窓辺で立ったまま月を眺めているような姿で。

 またある時には、淡い雨音に耳を傾けているような姿で。

 そんな夜は、まだまだ子供である自分をもどかしく思う。ティルダールが、アルフェスには見せない辛い何かを抱えていることは理解出来た。そして、おそらくそれが、顔も知らない母親のエリア・シルヴィアのことだろうと察することも出来た。

 けれども、夜に溶け込んでしまいそうな父親にしてあげられることや掛ける言葉は、何一つ思い浮かばない。

 せめて自分がもう少し大きかったら───少しなりとも父親の助けになれるだけの年齢であったなら、少しはティルダールの苦しみを分けて貰えたのかもしれないのに……。


「ねぼすけくん、そろそろ起きないか?」

 至近距離で突然声を掛けられて目を開けると、物凄く近くにシルヴィアの顔があった。

 アルフェスに伸し掛かるような体勢のせいで逆光になり、陽の光を受けて白銀に輝く髪に縁取られた顔の中で、漆黒の双眸が優しく覗き込んでいる。サラサラの髪も楽しそうに輝いている瞳も、唯一の彩りである額の赤い石のサークレットも、全部がきらきらと輝いていて眩しい。

 いつ眠ったか自覚がないアルフェスは、目が覚めた自覚も薄くて、夢の中に出て来る精霊のように美しい人を、ただぼんやりと『きれいなひとだなぁ……』と感動しながら見詰めていた。

「起きたのかい? 目が開いているだけで、寝ているのかい?」

 楽しそうに云いながら、優しい手が触れて来る。

 ティルダールの手も温かくて優しいが、それとは違いそうっと繊細に触れる柔らかい手だ。

「……シルヴ?」

「そうだよ」

「母さま……?」

 明らかに寝惚けている子供の言葉に、シルヴィアは激しく動揺した。

 似ている───とは、ティルダールから聞いている、それでも、違うとも。

「まぁだ起きてないだろう、ねぼすけくん。父上がご飯を作って待ってるぞ。特別に、このシルヴィアさんが担いで行ってあげよう」

 殊更ことさら陽気に云うと同時に、ほとんど荷物を運ぶ要領で、シルヴィアは文字通り子供を肩の上に担ぎ上げた。急な状況の変化に付いて行けてないアルフェスがジタバタするのをものともせず、カラカラと陽気に笑い声を上げる。

 だが内心は、とても穏やかとは言い難い。

 眠りの淵から醒めきっていないアルフェスが、『母さま……』と呼んだ時、胸の内側を感情の奔流が駆け抜けた。喜びと哀しみ・愛しさと鋭い苦しさ───決して在り得ないことだと判っているからこその遣り切れなさ───。

 これから先、この父子と行動を共にする限り、延々と付きまとう想いなのかもしれないと……初めて思い至った。



 サジムの村から離れ、以前と変わらぬ大河に沿って海に向かう旅に戻った一行には、これまでとは少し違う空気が漂っていた。

 ほんの少しずつ河幅を広げていく大河を左手に往く大きな街道筋は、擦れ違う隊商や旅人の数も増え、同時に宿場町も多くなって来ている。そして、いつの間にか街路樹に広葉樹が増えてきたことだけが、彼らが確実に南に向かっていることを示していた。

 では、何が違うのか?

 サジムの村で自称“魔法使い”の女が云った予言めいた言葉を、アルフェスを含む三人が三人とも聞いている。幼いアルフェスには深い意味を理解出来なかったが、その後、二人の保護者の様子が変わったことだけは判っていた。

 あの日以来、シルヴィア・リューインは落ち着きを無くしている。本人は隠しているつもりだろうが、子供であるアルフェスにも判る変化だった。

 夜も明けない朝早くから出発したがると思えば、度々休憩を取りたがり、休みを取っているとまた先を急ぎたがるという具合だ。何かを逡巡しゅんじゅんしていることは、推察するまでもない。

 対してティルダールの方といえば、あの日以来『ほおけている』としかいいようのない状態だった。

 シルヴィアのはっきりしない態度に対して、いつものティルダールであれば、痛烈な皮肉の一つも放ちそうなものだ。けれども今は、云われるがままに諾々だくだくと応じている。───と、いうより、もっと別の何かに気を取られていて、他の事柄に考えが及んでないように見えた。そうかと思えば、シルヴィアに気付かれないよう注意しながらも、彼女を穴が空くほど見ていたりもする。それでも、どんな言葉も口にしようとはしなかった。

 幼いアルフェスには、それらの些細な事柄が、どんな関連性と意味を持つのかは判らない。けれども、彼ら三人の間で、何らかの変化が訪れようとしていることだけは判っていた。


 村を出て数日経ったある日、彼ら旅の一行は大河に注ぎ込む澄んだ支流に遭遇し、野営続きで溜まった埃を、久々に落とすことにした。幸いにも、風すらない晴天で気温もかなり上がっている。これならば、秋とはいえども、風邪をひく心配もない。

 適当な岩陰を見付けて、馬から荷と鞍を降ろした。穏やかな天候に恵まれたこの南の地では、ほとんどの年で豊かな実りが保障されている。食料が満たされている土地では、盗賊団などの心配はほとんどない。もっとも、個人営業の追剥おいはぎはどこの土地にもいるものだが、この一行を襲った場合、逆に碌な目に合わないだろう。

 シルヴィアは大きな岩の陰になる上流側で服を脱ぎ、ティルダールは岩を挟んだ下流側で、二頭の馬と共に水辺に入った。しかしそんな状況でも、手が届く範囲に剣を置いているのは、二人とも同じだった。

 大人の男女は、湯浴みや水浴びを共にしないことだけは知っているアルフェスは、何の屈託もなく二人の間を行き来している。

「ねぇ、テュール、河の分かれ目に石の像があったけど、あれ海の司神リール・ネ・ネイディスの像だよね?」

 長旅に付き合ってくれている馬達の、体に付いた埃を先に流している父親の足元に来て、アルフェスが訊く。

「あぁ、多分な」

「多分って? コ・ルース・リィンには、海の司神リール・ネ・ネイディスの神殿があるんでしょう?」

「ほとんどの土地で信仰がある神像は、各地方によって姿形が違うことが……」

「へぇ、コ・ルース・リィンの主神は、てっきり風の司神リール・ネ・リュインダだと思っていたがな」

 突然話を遮られて、父子はつい振り返ってしまった。

 いつから覗いていたのか、シルヴィアが大岩の上から、ちょこんと顔を出している。一応、周囲の人間にはばかる個所は見えないようにしているが、剥き出しの肩とうなじはしっかり見えていた。

 澄んだ流れに頭から潜ったのか、長い睫毛の間に小さな水滴が宿り、肩に触れる長さの髪も濡れて、細い首筋に白い軌跡を描いている。

 ティルダールは慌てて視線を逸らしたが、ほんの一瞬だったというのに、に入り細に渡り───そう、天然の天蓋てんがいになっている木々の枝葉が乳白色の肌に落とす淡い陰影まで、くっきり・はっきり網膜の奥に焼き付いてしまった。

 無表情に焦るティルダールの様子に頓着することなく、シルヴィアとアルフェスは無邪気な視線を交わしている。こういう時は、なまじ双方が無邪気なだけに始末に負えない。

「ワイズ卿の話だと、コ・ルース・リィンは内陸部だと思っていたが?」

 再び馬の世話に集中するをしながら、そんなことまで話しただろうかと考える───現状では、他の事に思考を振り分けられるのは、好都合だった。

 とはいっても、些細なことなので、話したことを覚えていなくても仕方がないだろう。

「確かに主神は風の司神リール・ネ・リュインダだが、海の司神リール・ネ・ネイディスの神殿もある」

 いつもにも増して口調が素っ気なくなるのは、先程の動揺が残っているせいだった。

「どうしてなんだ? 湖があるからか?」

「それは……」

「伝説があるんだよね」

 口が重い父親に代わって、アルフェスが答えた。おそらく、幼い息子は父親から長い旅の間に、未だ見ることが叶わない故郷の話を、事細かに聞いているのだろう。

「伝説か……。聞いてみたいな」

 アルフェスはいつものことだったが、シルヴィアもまた、ティルダールから様々な話を聞きたがることが多かった。まるで、自分の記憶の空白を埋めようとするかのように。

「昔───どのくらい昔かは知らない。少なくとも、俺の父の友人である領主殿が、幼い頃に祖父殿から昔話として聞いたというぐらいには昔だ。海まで続く、コ・ルース・リィンの湖から流れ出る大河を辿って、二人の旅人と一人の精霊が訪れたのだそうだ」

 ほとんど子供二人に寝物語をする気分で、ティルダールはゆっくりと話し始めた。

「旅人は彼の“竜の戦士”と、王国の黎明期れいめいきに、百年以上に渡って王の補佐を務めたと伝えられる魔道戦士、精霊は海の娘メロウの一人だったと伝えられている。つまりは、どこにでもある“竜の戦士”にまつわる口伝くでんの一つだな。───コ・ルース・リィンに至って、海の娘は陸に上がることにした。海の娘が、湖にまう水の乙女ウンディーネに気を遣ったとも、慕っていた旅人が水際の道を逸れようとしたからだともいわれている」

 どんな理由だったとしても、精霊は人の娘の姿を取って水辺を離れ、旅人以外の人間の男───当時のコ・ルース・リィン領主に恋をした。組み合わせが人間と精霊であるが故に揉め事もあったが、そこは王である“竜の戦士”の采配で無事に結ばれ、海の娘は領主の妻になった。その後、本来在るべきところに帰らなかったことに対する海の娘の詫びの気持ちと、賢く・美しい妻を得た領主の感謝を籠めて、湖のほとりに海の司神の神殿が建立こんりゅうされた。

 語り部によって、多少の枝葉の違いはあれ、口伝の論旨はそんなところだった。

「よくある話だな」

「よくある話だ。ただ、それが幾分なりとも事実であった証拠に、海の司神の神殿が現在もある。それに、領主の血筋に、銀髪や薄い色の瞳の子供が産まれるようになったのも、それからだと聞いた」

「それじゃあ、ワイズ卿の奥方やアルフは、精霊の血を引いているということだな」

「随分と血は薄くなっただろうが、そういうことになるな」

 淡々と言葉を紡ぎながら、清らかとは一線を画する抗い難い誘惑に負けて、ちらりと振り返った視界の中で、シルヴィアがあっけらかんと肩を揺らして笑っていた。

 今更だが、改めて、行く先々で彼女に絡んだという男達の気持ちが解る。白と黒という味気ない筈の色合いが、シルヴィアという存在の上では鮮やかな彩りとなり、紅を引いていなくても健康的に紅い唇と、白い額の上で踊る不揃いの赤い石を連ねたサークレットが魅力的な華となって揺れていた。

 例え、心の奥底に直接焼き付くようなその笑みがなかったとしても、シルヴィアが纏う輝きは、男達の視覚を通して深い場所に鮮やかに残るだろう。

 その辺は、妻子持ちのティルダールとはいえ、ただの若い男の一人には違いなかった。父親を盲目的に信頼しているアルフェスが聞けば、泣かれることは間違いなかったが。

 しかし、どんなにシルヴィアの在り様に心動かされたとしても、彼女の親しげな笑みに同じものを返すことは難しい。

 ティルダールにとって、それは一人の女だけが持つ権利なのだ。

 もう随分昔から───出会ったその時から、ただ一人のものなのだから。

 なまじ重なるものがあるだけに、そのことを度々思い出さずにはいられない。そして思い出す度に、シルヴィアに対するティルダールの態度は、どこか一線を引いたものになってしまうのである。

 ついっと逸らした視線の意味に気付いているのかいないのか、シルヴィアはやや声を低めて、話題を別の方向に振った。

「前から……考えていたのだがな」

「何だ?」

 再び馬の世話に戻ったをしながら、ティルダールの口調は素っ気ないものに戻っていた。

「ワイズ卿の奥方だが、貴殿達とはぐれたあと、取り敢えずコ・ルース・リィンに戻っているということはないのか?」

「それはない」

「はっきりいうな……。何故だ? 一番落ち合い易い場所だろう?」

 確かに、示し合わせずに落ち合うとすれば、これ以上最適な場所はないだろう。例え、事情があって出奔した故郷でも、よく知っている土地だけに潜伏することも出来る。しかしティルダールは、その可能性を考えたことすらなかった。

「性分の問題だな。コ・ルース・リィンに戻って領主の身内としての権限を利用すれば、捜索活動も情報を集めるのもずっと楽になるだろう。だが、故郷の一大事を放り出し、義父上と義弟にすべてを押し付けて出て来た俺達が、どの面を下げて足りない顔ぶれで戻れる?───現に、俺はそうしてはいない。だから、あいつもそんなことはしない」

「けれど、何年も掛かって捜すより……」

「俺もあいつも、コ・ルース・リィンの使者が捜しに来たら、まず逃げ出すことを考える。それにあいつには、どこか判らない所でになった時は、身の安全を図った上で下手な移動はしないようにと、最初の迷子騒動以後、左耳から右耳に零れ落ちるほど言い聞かせてある」

 敵国や賊による誘拐・暗殺・拉致、それに本人の暴走による所在不明と、エリア・シルヴィアの場合は行方不明の前科が腐るほどに存在する。その度ごとに、苦労して捜し当てて来たのはティルダールなのだ。特に、本人の意志による失踪は、彼にしか見つけることは出来ないのだから。

 ティルダールにとってエリア・シルヴィアの行方不明は、すべて範疇はんちゅうに入るものに分類されているのだ。

って───いうのか、この場合も……」

「いうんだ」

「なんだか……ワイズ卿の過去の苦労が滲んでるなぁ……」

「くしゅっ」

 二人の遥か下から聞こえた小さなくしゃみが、幾重にも複雑な二人の会話を途切れさせる。

「長く水に浸かり過ぎたな。早く上がって体を温めないと───リューイン、頼めるか?」

「判った」

 大岩の上から覗いていた顔が、ひょいと消える。どんなに入り組んだ物思いや考えがあるにしても、アルフェスが絡んだ時点でこの男女の思考は親心に転じてしまう。それも、過保護としかいいようのない、かなり甘いものだった。

 ティルダールは、自分は水に浸かったまま、息子の小さな体を抱き上げて大急ぎでやって来たシルヴィアに直接託した。そして彼女は一切の無駄口を叩くことなく、子供を乾かし・温める為に素早く去って行く。

 そして、二人が茂みの向こうに消えるのを見送ってから、ティルダールは二頭の馬の手綱を引いて地面の上に戻り、先に馬達を乾かしてやった後、ひづめの手入れをする筈だった───のだが、陸に上がった時点で取りつくろっていた平静さが崩壊した。取り繕っていた分、反動でその場に屈み込んでしまったのだ。

 全く以って、心臓に悪い。色々な意味で。

 馬達は、突然固まってしまったお世話係の濡れた髪を引っ張り、何とか気を引こうとしたが、どうにもこうにも動きそうにないので、仕方なく近くの草をみ始める。そのくらい、ティルダールのくらった衝撃は大きかった。

 アルフェスを引き受ける為に、大岩の向こうから急いで現れたシルヴィアは───服すらろくに身に付けていないままだったのである。

 美しい女性のあられもない姿に、動揺しない男はいない。勿論、すべて見えてしまったわけではなかった。常の旅装の下だけ身に付けたシルヴィアは、普段遣いの肩布で胸元を隠した姿で現れたのだ。濡れたままの髪も、白い首から肩への柔らかな線も、戦う者ならば守らなければならない筈のなめらかな腹部も、あらわにしたままで……。

 目のやり場に困るほどぎょっとした。

 そしてそれ以上に、巻かれた肩布の形状に衝撃を受けた。

 旅をする上で、マントや肩布は必需品だ。風よけ、雨よけ、陽射しよけ───夜には寒さをしのぎ、時には野営の天蓋代わりにも使う。そんなふうに頻繁ひんぱんに使われる品物は、多くの場合二種類に分けられる。特に個性のない何処のどんな場所でも手に入る物か、もしくはとても特徴的な物かだ。織模様や染模様、裁断の仕方に動く体から落ちないように巻き付ける形など、地方色や個性を現す特徴は多い。それらに詳しい者が見れば、出身地方や身分、場合によっては家系まで判別することができるという。

 ティルダールは、そういう各地方の文化に詳しい方ではない。それでも、判る事柄もある。

 シルヴィアが使っている肩布は、何処ででも手に入る品物だ。だが、さっき衣服の代用品として巻いていたその巻き方は、あまりにも見覚えがある巻き方だった。イムヘルで出会ってからというもの、天候に恵まれた陽気のせいもあって本当に片方の肩に引っ掛けているだけだったから、全く気にも留めていなかったのだ。しかし、これは……。

 すっかり冷え切ってしまった息子を託しながら、彼女の肩布をいで、折り込んだ外からは見えない部分の構造を確かめたい衝動に駆られた。けれどもその心の動きの中に、ほんの一部分だけ、人には云えない不透明な欲求を感じてもいた。

 これは、あまりいい傾向とはいえない。

 自分の心の動きを客観的に追いながら、そう結論付ける。

 エリア・シルヴィアの存在が防波堤になっている上、事あるごとに度肝を抜く行動を起こしていた彼女のお陰で、自制心と忍耐力と表情を読ませないことには自信があるが、それでもシルヴィア・リューインが魅力的な女性であることに違いはなかった。だからといって、エリア・シルヴィアへの想いが薄れるわけではない、彼女はすでに、ティルダールの心の一部なのだ。だからこそ、エリア・シルヴィアに似ている=好みの女性であるということも相俟あいまって、シルヴィアに対する彼の心情をどうにも割り切れないものにしているのだった。

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