─── 5 ───
結局、一睡も出来ないまま夜を明かしたティルダールは、空が白み始めるとすぐに自室を出た。おそらく、同じように眠れなかった筈のエリア・シルヴィアが、早朝から押しかけて来る可能性を考慮してのことである。
昨夜の今朝では、まだ何も考えられてはいない。眠れないまま、ただ一晩中想いを巡らせていただけだ。もしも彼女が来て、昨夜の件で何らかの意見を求められても、まだ何も答えられない。
(『もしも』ではないな。あいつは必ず来る)
長く・濃い付き合い故に、確信があった。
エリア・シルヴィアは怒るだろうが、せめて自分の考えがまとまるまで、彼女と接触しない方がいいだろう。
政治的背景がある領主一族の案件だけに、この問題は他者の耳に入れるわけにはいかない問題だ。だから、ティルダールは自室を出た後、若手の剣士と剣士候補が集まる詰所に出向き、領地の巡回や当直の当番を交代してでも、今日は一人にならないことにしたのである。
冬が終わったばかりの浅い春───夜明けの訪れはまだ遅く、早朝の澄んだ空気はとても冷たい。朝陽が登り切っていない城の中庭には、淡い水のような静まり切った空気が漂っていて、ティルダールの革靴の音を酷く響かせた。
自分はどうしたいのか───どうするべきなのか……。
堂々巡りの思考は、いつも同じ所で
自分の望みは、エリア・シルヴィアと共に在ること───けれども、それだけではない。
コ・ルース・リィンは、いまやティルダールの大切な故郷だ。生まれが何処であったにしろ、現在のティルダールを育て上げたのは、この国であり、この国の人々である。彼らの役に立ちたい。彼らに恩返しをしたい───それもまた、ティルダールの望みなのだ。
エリア・シルヴィアと共に在り、この故郷を守る。それは、決して向きが違う望みではなかった。だが、昨夜明かされた縁談により事の方向は反転し、二つの望みは見事なまでに対立した。
二つの望みを同時に叶えることは、完全に不可能になったのである。
その日一日、考える時間欲しさでティルダールは、早朝から通常の仕事に係わり続けた。本来であれば、休憩を取るべき時間をも惜しんで。
ティルダールが危惧した通りに、寝起きを襲撃したらしいエリア・シルヴィアが、ティルダールが居そうな各所を巡った後に詰所に顔を出したのは、通常勤務が始まってしばらくしてからだった。彼の意図を察して
勿論、エリア・シルヴィアがその事に気付くのは想定済みだ。それが、彼女の怒りに油を注ぐ結果になることも。
「お前、今日はどうかしてるな」
そう云ったのは、ティルダールの僚友にして、エリア・シルヴィアのまた従兄に当たるノルン・エイジェスだった。
ティルダールは体に付いた埃を叩き落として、たった今落ちたばかりの鞍に再度
言葉数の少ない僚友から返事がないので、ノルンは更に追い打ちをかけた。
「今日は、普段のお前ならしそうにないことを散々見たな。狩りの獲物は撃ち逃す。立ち合い訓練でグズのカイに剣を落とされる。何をぼんやりしているのやら、戸口にぶち当たる。挙句の果てに落馬と来た」
そうまで云われても、ティルダールには返す言葉が無かった。ノルンが一々数え上げる出来事のすべてに、しっかり身に覚えがあるのだ。しかも、その原因を自分でよく解っている。
反論しない友人に聞こえよがしの溜め息を吐いてみせ、ノルンは鞍が擦り合うほど近くに騎馬を寄せた。
「さっさと仲直りしてしまえよ」
「何の話だ?」
「姫君と喧嘩したんだろう? 今日は、お前を絞め殺しそうな目で見ているじゃないか。どうせ勝ち目はないんだ。早く謝ってしまえ」
義父である領主が云ったように、ティルダールとエリア・シルヴィアの睦まじさは、近くに居る者であれば皆が知っている。拮抗しているように見えて、実は拮抗していないその力関係も。
「喧嘩をしたわけじゃない」
仕方なく、ティルダールは溜め息混じりに答えた。
『勝ち目がない』というあまり誇れない言葉を、誰もが否定出来はしない。城中ではむしろ、当たり前の事として受け入れられている。特筆すべきなのは、領主である父親以外に負けずにいられるのが、唯一ティルダールしか居ないということの方だろう。
「───これから、するかもしれないがな……」
ノルンには聞こえなかったその予想とすらいえない呟きは、程なく現実のものとなった。
巡回から城塞に戻った二人───正確には一人───を待っていたのは、姫君=エリア・シルヴィア行方不明の報だったのである。
「テュール・シン、姫と御一緒ではないの?」
ヴァイラル家の乳母が、血相を変えて云う。
彼女は、姫君行方不明の報告を聞いても、いつものようにティルダールと行動を共にしているだけだろうと、高を括っていたのである。そのティルダールが単身で戻って来たのだから、動揺はより大きかった。
乳母の話によると、早朝から、エリア・シルヴィアの姿がまるでなかったという(この時点では、ティルダールを探していたのだが)。てっきり、いつもの早駆けに出たのだろうと構えていたら、昼過ぎになっても戻って来ない。けれどもまあ、いつものようにティルダールと同行しているのだろうと思っているうちに夕刻になり、片割れが別の人間と戻って来たのだ。これでは、すわ、誘拐か失踪かと動転したとて無理はなかった。
エリア・シルヴィアを捜索していた数人と乳母君と───
つまり、ティルダールに避けられた事実に本気で怒ったエリア・シルヴィアは、逆襲の一手に出たのだ。『さっさと捜しに来い。でなければ戻らないぞ』というわけだ。この姫君の恐い所は、そういう行動に出た以上、放っておけば本気で何日でも姿を消すという実行力である。最後にそういう喧嘩をした時は、丸五日間も行方不明だったのだから。
自国の姫の自主的な家出を、五日もの間放置出来る胆力の持ち主は、父親である領主と片割れであるティルダールしか居ない。心労でやつれていく周囲の者達の嘆願に折れる形で、領主はティルダールに一人娘の捜索の命を出し、ティルダールは半日で姫君の首根っこを押さえて連れ帰った。行方不明の間の姫君が、森の中の使われなくなった
ティルダールに発見されて(捕まって)帰城したエリア・シルヴィアは、父親にみっちりと絞られた。曰く、自国の姫が自力で生き延びる能力を持っているのは誇らしいことだが、自らの意志を通す為に周囲の者達に要らぬ心労を掛けるのは恥ずべきことだ。以後、周囲に対する配慮に欠ける家出を禁じる───とのことだった。唯一その場に立ち会っていたティルダールは、微妙に論点が違うような気がする叱責に、『この親にしてこの子在り』と密かに思ったものだ。
数呼吸の間、ティルダールは遠い目で過去の出来事に想いを
「エリィの馬はあるのですか?」
「あります。だから、あるいは誰かに……」
「それはないでしょう。あいつは、大人しく誘拐されたりはしません。誰かに連れ去られるようであれば、必ずひと騒ぎを起こしています。馬があるのなら、城塞の中でしょう」
「では、一体どこに? それに、どうしてこんな……」
その質問には答えず、ティルダールは意味深な笑みを浮かべる僚友に手綱を預けた。
「すまんが、こいつを頼む」
「分かった」
「捜索に加わっていた皆を休ませてください。捜して来ます」
簡単な依頼だけを述べて、城塞の中に戻る。
今回のエリア・シルヴィアの目的は、行方を
まず、望楼や湖に出る船着き場などの、誰にでも目撃されそうな場所ではない。完全に誰も見ていないというのであれば、以前のように城塞都市の外───だが、それは領主に禁じられている。故に、城塞内のどこか、ということになる。
外壁の内側にある民間人の住む住宅街であれば、ティルダールが探し出すまでに時間が掛かり過ぎるので、除外して構わないだろう。まず何よりも、三日と限られた期限が別に存在するのだから───であれば、城から出てはいないと考えるべきだ。最も隠れ場所に適している地下倉や屋根裏の隠し部屋は、密閉空間で空気が淀んでいる為、彼女自身が長時間の潜伏に耐えられないだろう。
他の誰かには見咎められない場所で、ティルダールであれば簡単に見付けられる場所。今回の潜伏目的を考慮すれば、おそらく意外そうで少しも意外ではない所に居るに違いない。
ティルダールは、今朝から一度も戻っていない自分の部屋───領主一家の居住区に最も近い自分の部屋へ真っ直ぐ戻った。
果たして、エリア・シルヴィアは居た。
領主一族の側近として恥ずかしくない程度の、それでいて簡素な部屋のティルダールの寝台の上で、この上もなく寛いでいた。
「遅い」
「見回りに出ていた。今、乳母殿に話を聞いたばかりだ」
「ふぅん」
気のなさそうな返事をしながら、弾みをつけて立ち上がり、後ろ手に扉を閉めたティルダールの前につかつかと歩み寄って来る。
次の瞬間、肉と肉を叩き合わせる派手な音が、部屋の中に鳴り響いた。
エリア・シルヴィアが、前振りもなしにティルダールを殴りつけたのである。しかも、平手ではなく、握り拳でだった。
「どういうつもり?」
彼女は、むしろ静かな声で問い掛ける。
「このまま顔も合わせず、言葉も交わさないまま、一生会わないつもりだったの?」
「コ・ルース・リィンの皆の事を考えれば、そうするしかないと思っていた」
「皆のことを訊いているんじゃないわ。テュールのことを訊いているのよ。わたしがヴェラール・ティアに行くとしたら、残された貴重な時間を、口もきかずに過ごすつもりだったの? テュールはそれでも平気なのっ!!」
言葉を重ねているうちに、エリア・シルヴィアの声は段々甲高くなっていく。応じるティルダールの声も、自然に負けじと大きくなった。
「平気な訳がないだろうっ!!」
こうして正面から顔を合わて怒鳴り合っていると、抑えが効かなくなっていく。昨夜からずっと、懸命に保っていた冷静さが簡単に
そもそもこの選択は、十六と十四の子供には残酷過ぎるのだ。例え、領主の身内として統治する者の教育を受けて来た二人だったとしても、である。
「けれど、俺に何が出来る? どうしろと? お前と顔を合わせて話せば、引き留めてしまうに決まっているだろう」
そのことは、自分自身が一番良く判っていた。だからこそ、自らの葛藤を抑え込み、相棒が何らかの答えを導き出すまでは沈黙を守ろうと、そればかりを考えていたのだ───日常的な仕事や毎日の
「わたしだって考えた」
しばしの沈黙の後、エリア・シルヴィアが打って変わった静けさで云う。
「ヴェラール・ティアと争わない為には、わたしが行くのが一番いい。それは解っているの。領主の娘として産まれたからには、知らない男に嫁ぐ覚悟も、二つの領地の架け橋を努める決心もしているわ」
にわかにがっくりと細い肩を落とした彼女は、酷く小さく、頼りなげに見えた。
「だけど、これだけは我慢出来ない。テュールと引き離されることだけは我慢出来ないし、耐える気にもなれないわ」
「エリィ……」
ティルダールは、両腕の中にすっぽりと囲い込めるようになった細い体を抱き寄せ、子供をあやすように優しく揺らす。
「エリィ、解っている。俺は───離れていたとしても、俺の心はお前と共に在ることを判ってくれ。それでも嫌なら、一緒にヴェラール・ティアに行こう。姿や名を変えて行けば何とかなるかもしれない。先方にばれたら、ばれた時の話だ」
しかし、我が身を犠牲にしても構わないというティルダールの説得に、エリア・シルヴィアは小さく首を振る。
「もう決めたの。わたし、コ・ルース・リィンを出て行く」
馴れ親しんだ腕をゆっくりと外しながら、あまりに意外なことを云い出した。
「わたしがここに居なければ、父上は嫁に行くべき娘が死んだとも、
豪胆ともいえる決心を聞いて、返す言葉もなく口をぱくぱくさせている相棒の腕を擦り抜け、話は終わったとばかりに扉に向かう。そして、扉を潜る寸前に、いかにも意味深に振り返り一言付け加えた。
「別に、無理に付いて来いとはいわないけれど?」
ぱたんと扉が閉まり、軽い足音が遠ざかっていく。
片割れの気配が完全に消えてようやくティルダールは驚きから立ち直り、ぎりりと歯を鳴らした。───完全に嵌められたのだ。
「あいつ、俺が絶対に一緒に行くと思っているなっ!」
そこまで決心していたのなら、ティルダールを殴ったのは、無視されていた事の意趣返しだろう。いや、その後の糾弾ですら、ただの憂さ晴らしなのかもしれない。
そして事は、まんまと彼女の思い通りになったのである。
領主に切られた三日の期限の前夜、ティルダールとエリア・シルヴィアは、旅に必要な最小限の荷物を持って城塞を抜け出した。
幼い頃から、城塞都市の内外を隅々まで走り回っていた二人である。誰にも見つからずに砦を出る方法など、四つや五つは知っている。故に、誰に咎められることもなく街道沿いの森に駆け込み、ようやく一息吐いて、この夜初めての言葉を交わした。
「ああ、暑かった」
春の夜とはいえ、全力で走り回れば汗だくにもなる。夜目にも目立つ銀髪を、旅装のマント代わりの肩布で覆っていたエリア・シルヴィアは、そう云って厚手の布を取り払った。
「おまえ、その髪っ!」
ティルダールが絶句したのも無理はない。
その日の夕方まで、確かに腰まであった豪華な銀髪が、肩の上辺りでぷっつりと切られていたのだ。
「あん? だってさ、若造が二人で旅をするなら、男女の組み合わせよりも男二人の方が、都合がいいだろう」
口調もしっかり男言葉になっている。
少年のような服装と腰に下げた剣は、いつものことだから気にもしていなかったが、髪を切ってしまえば確かに、家柄のいい少年のように見えた。ただし、二・三歳は若く見えて、まるで子供そのものだ。
「……急ごう。追っ手を出されると厄介だ」
感想を差し控え、諦めたように首を振り、小さくそれだけを囁く。二人は、騎馬を連れてはいなかったのだ。
訓練された馬は、どこのどんな領地でも貴重な財産である。コ・ルース・リィンは、王国の中の南方の草原地帯に次ぐ優秀な乗馬の産地だったが、それでも黙って連れ出すことは出来ない。元々、コ・ルース・リィンに不利益を与えたくての逃避行ではないのだ。
それでは改めて───と、街道のコ・ルース・リィンを最も早く抜け出す方角に向き直ってみると、同じ道の上に別の影が現れていた。
でこぼこした妙な形の影が、二人が問い掛けるより早く、自らの正体を明らかにする。
「姉上、
「シェン───?」
「どうして……?」
それは、何も云わずに置いて来た筈のシェイン・フィル・ドリアス・ヴァイラル───エリア・シルヴィアの弟だった。
「やはり、行かれるのですね」
「知っていたのか?」
「父上から伺いました」
まだ成人していない弟の言葉に、二人ははっと顔を見合わせる。
彼が尊敬する年長者達の狼狽を眺めながら、シェイン・フィルはくすくすと笑い、引いていた二頭の騎馬の手綱を差し出した。つまり、小さな一人と大きな二頭の影が重なり合い、奇妙な形の影を作り出していたのだ。
「いや、受け取るわけにはいかない」
慌ててティルダールが、まだ小さな手を押し返す。
シェイン・フィルは、エリア・シルヴィアより濃い青の瞳を真っ直ぐに義兄に向け、淡い金髪の頭を振った。
「父上からの
差し出された革袋は、手にずっしりと重かった。開けて見ずとも、かなりの貨幣が入っているのが判る。
「
胸に込み上げる感情で、声が掠れる。
それでは、何もかも承知の上で、領主は二人を開放してくれたのだ。
「後は上手くやる故、気にせずに行きなさいと。便りを寄越す必要はないが、二人とも体にはくれぐれも気を付けて、孫が産まれた時だけは
『孫が産まれた時』のところで、旅支度の二人はきょとんと顔を見合わせた。
確かに、傍から見れば、これは駆け落ち以外の何物でもない。けれども、当の本人達には全くそのつもりはないのだ。
「皆そう思うでしょうね。でも解っていますよ、僕はね───僕も、ずっと一緒に育ったのだもの」
二人の弟である少年が、さも可笑しそうにくすりと笑う。
しかし───単に誤解だと云い切っていいものだろうか? 人間としても・異性としても、お互い以上の存在が見つからなければ、いつの日かそういうことになったとしても、少しも可笑しな事ではない。
「ごめんなさいね……」
謝る以外に、何が云えるだろう。どんな理由があるとしても、すべての責任を放棄して逃げることに変わりはないのだ。周囲に居たあらゆる人々が寄せてくれた信頼や期待を、愛情を持って接してくれた人々を、裏切って、捨てて行く事に変わりはない。
「謝らないでください。僕も、父上と同じ気持ちなんです」
「二人一組ではない義兄上と姉上なんて、見ていてつまんないですよ。───大丈夫、コ・ルース・リィンは父上と僕とで守ります。僕はまだ子供だけれど、これでも父上の後継ぎだから」
この時、もうすぐ十二歳になる少年は、一度に年齢を重ねたように大人びて見えた。
「どうか、つつがない旅を」
尽きない別れの言葉を断ち切って、二人はひたすらに馬を駆った。
街道の平坦な地面が飛ぶように後方に流れ去り、ただひとり見送る人影が夜の底に消えて行く。
いつしか、早駆けは
馬を止めて振り返ってしまうと、そのまま城塞に駆け戻ってしまいたい衝動を、抑えることが出来ない気がしたのだ。
後悔の念からではない。事ここに至って、改めてはっきりと自覚出来る。二人は───コ・ルース・リィンを離れたいとは、
そう、これからも二人が、今まで通りの二人で居る事が出来るのであれば……。
新しい朝の誕生に夜が退き、大気が水底のような色に澄み始めて、ようやくティルダールとエリア・シルヴィアは今駆けて来た道を振り返った。
そこはまだ見知った場所だったが、かつての生活の場は、とうに見えなくなっている。湖を背に建つ城塞も外壁も、二人で、あるいは仲間と共に駆け回った野や森も、視界の彼方に去ってしまった。
二度と戻れないかもしれない故郷───これからは、天にも地にもただ二人、見知らぬ土地で生きて行かなければならないのだ。
胸中を去来する、多過ぎる想いを語り尽くすことは出来ない。
しかし、先を憂いて嘆くには、二人はまだ若過ぎた。
片割れを振り返ったエリア・シルヴィアの顔には、静かな決意を籠めた微笑みだけが浮かんでいた。判らないことを案じてみても仕方がない。代わりにこれからは、今まで考えてもみなかったことをするのだ。
「どこへ行きたい?」
同じ笑みを返しながら、ティルダールが訊く。
「行ける所はどこへでも。世界中を見て歩こう」
未来だけを見詰める真っ直ぐな瞳で、彼女が云った。
一通りの過去を語り終わったティルダールの横顔は、一見無表情でありながら、よく見ると過去の想いに
そのどこか哀しげな男の顔を見ていると、シルヴィア・リューインもまた、甘哀しいような、いつか何処かで抱いた切ない想いに捕らわれる気がした。
あるいはそれは、まだ少年といえた日の、ティルダールの昔話の影響なのかもしれなかったが。
「ふぅん、駆け落ちじゃなかったんだ。故郷を捨てて来たというから、どんな熱烈な恋かと思っていたんだがな」
甘哀しい想いに捕らわれたくなくて、
ティルダールは、シルヴィアの存在を忘れていたかのようにぼんやりとした表情で顔を巡らせ、曖昧に微笑んだ。
「けれど、結果としては駆け落ちになった訳だ」
「あいつ以上の女が居なかったからな。いつも、誰よりも愛している事は確かだった。文字通り、人生の片棒を担ぐ相手だ」
シルヴィアは、呆れたとばかりに肩を竦めて首を振った。
「ご馳走さま。早く再会出来るといいな───とだけいっておくよ」
それだけを云って、さっさと寝台に潜り込んでしまう。
ティルダールも、それ以上は何を語るでもなく、静かに灯りを吹き消した。
初めて得た旅の連れが、先に眠っている愛息子の隣りに横になる気配を背中で感じながら、シルヴィアの心中は穏やかとはいかなかった。
『誰よりも愛している』と、現在進行形で男が口にした台詞が、何故か胸に重く伸し掛かる。
ではこの男は、六年も経ってなお、消えた女を忘れてはいないのだ。
その時、最初の日から知っていた筈の事実がどうしてこんなにも胸苦しいのか、シルヴィアにはどうしても解らなかった。
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