─── 2 ───

 リズミカルな蹄鉄の響きが、長い沈黙が続く時間の中で淡々と刻まれていた。

 騎影は二つ。並ぶでもなく、離れるでもなく、黙々と同じ方向に進んでいる。後方で騎馬を進めるシルヴィア・リューインは、何気ないふうを装いながら遠くの景色を見ていた。

 交易都市にほど近い街道沿いには、収穫を終えた農地が広がり、刈り取りの時に零れた穀物のご相伴しょうばんに与る鳥達が、あちらこちらで飛び跳ねている。雲一つない蒼穹は、この季節独特の深い色合いで高々と澄み渡っていた。

 秋なのだ。

 春とは別の意味で待ち焦がれる人々が多いこの季節は、夏の陽射しに痛めつけられた肌に風が優しく、陽射しも柔らかい。三つの季節をしのいだ人々は、新鮮な食糧に恵まれるこの時期に、歌い、踊り、束の間の至福を思う存分味わう───これから迎える厳しい冬を乗り切る為に、鋭気を養う為に。

 万感に値するこの空の色は、これまでの季節とこれからの季節を生きるもの達への、神々からの祝福とうたわれるのだ。

 だがシルヴィアは、重い溜め息を共に祝福から目を逸らした。正確には、その青さからである。

 彼女だけが知ることではあるが、青という色合いは、胸の内に住まう“無”の記憶を想起させる気が重くなる色なのだ。それに何故目を向けていたのかといえば、理由は逸らした視線が向かった先にあった。

 少し前を進む騎手の広い背中である。

 もう数刻、この背中は振り向いていない。

 イムヘルを出てすぐの頃は会話もあったのだが、シルヴィアが自分達と同行する気があることを知ると、背中の主は断固たる拒否を示して、彼女を振り返らなくなった。

 この状況における救いは、騎手の前に座る子供が、シルヴィアを気にして時折振り返ることだった。逞しい背中の向こうに完全に隠れてしまう利発な顔が、度々背後を振り返り、目が合うごとに微笑んで手を振ってくれる。その子供の気遣いに、一応は手を振って応えてはいたが、それでも果てしなく気が重くなって行くのは仕方がないのかもしれない。

 晩秋の陽は短い。

 ましてや、一行は昼過ぎにイムヘルを後にしたのだ。

 最寄りの村はとうに通り過ぎ、次の宿場町まではまだまだ距離がある。そんな変に中途半端な所で陽は傾き始めていた。

 シルヴィアは再び薄い溜め息を吐いて、視線を巡らせた。今度は上空にではなく、水平に。

 黙々と進む二騎の左手には、常に滔々たる大河が存在している。深さにも幅にも充分な余裕があるこの河は、海上を行く船がかなり内陸まで入り込むことが可能なので、海岸地帯と内陸部を結ぶ重要な交通路になっていた。今も薄暮の中、霞んで見える対岸との間を、海から内陸に向かう船や内陸から海に下る船、渡しや短距離の運送を請け負う水上生活者の船が、各々の速度で悠々と行き来している。そして、それらの多くは、彼らが後にして来たイムヘルを中継して行くのだ。

 シルヴィアは、夕陽を黄金色に反射する水面を、目を細めて眺めた。

 シルヴィア・リューインになってから、幾度この河岸を行き来し、何度この大河を渡っただろう。そして、飢えるほどに心が求めているものを、これから幾度繰り返せば手に入れることが出来るのだろう。

 あてどの無い問いであり、意識せずにはいられない疑問だった。そんなことを考えながら眺めると、いつも悠然としている河の流れさえ憎たらしくなる。

 個人的な感情から、むっとするほど広大で美しい風景から視線を引き剥がし、シルヴィアは決然と頭を上げて、前を進む騎馬と鞍を並べた。もう、この膠着状態こうちゃくじょうたいを続けるつもりが無くなったのだ。それに元々、物事をはっきりさせないのは我慢がならない方である。

「怒っているのか?」

 さっくりと単刀直入に訊く。面倒な前置きは嫌いで、苦手だった。間近に鞍を並べても、日焼けした彫の深い顔は正面を見たままだ。

「何をだ?」

 それでも無視はしないで、問いを返してくれる。

「訊いているのはわたしだ」

「ならば訊こう」

 ようやく馬を止め、微かに緑がかった榛色はしばみいろの瞳が厳しい光を孕んで、真っ向からシルヴィアを見返した。

「何故、付いて来る?」

 腹が立つと思っていた。

 だが、予想していた筈の問いを投げ掛けられて、こみ上げたのは胸を圧迫する孤独感だった。

「わたしが知るもんか」

 吐き捨てた筈の声が震えている。シルヴィアは、声と共に出て来ようとする喉に詰まったものを、必死で押し返さなくてはならなかった。

(くそっ、何だこれは───どうして息が苦しくなるんだ? 何故、両目が熱くなるんだ?)

 理由が判らない心身の内で発生した嵐に戸惑い、翻弄されながらも、視線だけは逸らすまいと眉間に力を籠める。

 ギリギリと睨み合う大人二人に助け舟を出したのは、他ならぬ幼いアルフェスだった。

「テュールゥ……」

 鞍の前方に座っているアルフェスは、深く項垂れたまま、抗議を込めて両足をパタパタと動かした。馬を驚かせてはいけないと常々教わっている子供が、今まで一度もしたことがない行動である。

 ティルダールはふっと感情を静め、シルヴィアから視線を切ると、息子の巻き毛をくしゃくしゃと撫でた。

「そろそろ野営の支度をするか」

 半分は独り言のように、残りの半分は息子に聞かせるように呟く。

 話も中途半端、睨み合いも中途半端に打ち切られ、自分はこのまま街道に取り残されるのか───と、シルヴィアが思った時、ティルダールが顎の動きだけで彼女を招いた。けれども、向けられた視線は厳しいまま───それだけで、ある事を物語っている。

 幼い息子の前で、子供が傷つくような喧嘩をする気はない───と。

 シルヴィアは小さく頷くことで了解を伝え、街道を逸れて行く騎馬に大人しく続いた。

 二人の大人が一人の子供を気遣っているとはいえ、その後の作業が楽しく賑やかに行われたとは言い難い。けれども、それぞれに旅慣れた一行だけあって、野営の準備は滞りなく進んだ。

 ティルダールが野営場所を決め、付近に転がっている石を集めて小さな炉の準備をする。その間に、アルフェスは父親の目が届く範囲で枯葉や枯れ枝を集め、せっせと父親の元に運んで行く。シルヴィアは、差し障りのない仕事を選んで、二頭の馬から鞍と荷を降ろして一夜のよすがとなる炉の近くへ持って行き、三人を運んでくれた馬達に水を与え、冷えないように体を拭いた。この時期はまだ飼葉の必要はなく、近くの草や木の実を好きに食べてくれるので、あとは放っておいていい。野の獣などの危険があれば、彼らが真っ先に報せてくれる。

 やるべき事が無くなると、それぞれに火の側に集まり、大都市を出立したばかりで豊富にある食料を、ティルダールが簡単に調理してくれた物で早い夕食を済ませた。食べられる時に食べるのも、長旅をする者の心得の一つである。

 ただ、それら一連の行動の間、誰も無駄な言葉は発しなかった。

 そして、周囲がすっかり夜のとばりに覆われる頃には、成すべき事もなくなり、薄い香草茶を啜りながら、気まずい沈黙と共に顔を突き合わせる事になってしまったのである。

「僕、こんなのやだ」

 最初に耐えられなくなったのは、アルフェスだった。

 しかし、この子もまた、昼過ぎからの無言の重圧に耐えてきたのだから、子供にしては大した忍耐力といえるだろう。

「喧嘩しちゃいやだよ。どうして喧嘩しているの? 仲良くしてよ」

 涙が零れる寸前の潤んだ大きな瞳で訴えられ、大人達は大いに怯んだ。

 吸い込まれそうなほど青く澄んだ双眸で涙ぐまれると、それぞれに太い神経を持つ二人の良心でもずきずきと痛む。誰がどう考えても、今日の彼らの言動は、分別ある大人の行動とは言い難い。少年とすら呼べない年齢の子供に対して、立場が無くて当然だった。

 それからしばしの沈黙は、愛しい・可愛いと思っている子供から受けた深刻な痛手から立ち直るのに、少し時間を必要としたからである。

「まあ、確かに、このままでいても仕方があるまい。とにかく、理由があるなら聞かせて欲しい」

 先に口を開いたのは、ティルダールだった。

 話す必要があることは、シルヴィアとて理解している。だが、それでも未だに、何から話せばいいのかよく判ってはいなかった。そもそも確たる理由など、自分でも把握していないのだから。

「つまり───何かが違う気がするんだ」

 彼らの中心にある小さな炎に視線を据えたまま、相も変らぬ男言葉で、自分の事情の説明を試みる。どれだけ説明できるのか、どのくらい理解を得られるのか判らないが、それでもかつてない程よくしてくれた父子に、嘘や誤魔化しの言葉を紡ぎたくはなかったのだ。

「その……あなた達を見ていると、これまで出会った人間を見ている時とは、全く違う気持ちになるんだ」

 これほど曖昧な説明でいいのか判らず、ちらりと視線を上げて父子の様子を窺う。苛立たせていたり、呆れられていたら、話し続けるのを躊躇ためらったかもしれない。だが、良く似た父子は、真剣な面持ちでシルヴィアの話の続きを待っていてくれた。

 だからシルヴィアは少しほっとして、立てた片方の膝に細い顎を乗せ、改めて腰を据えて話を続ける。

「何か・どこか・何故かと問われても、わたしには答えられない。答えたくないのではなく、答えることができない。答えを出すだけの材料が、わたしの中には何一つないからだ」

 シルヴィアが記憶の多くを失っている事を、昨夜ティルダールには話した。アルフェスが驚いていないところをみると、大方の事情は聞いているのだろう。

「ただ、思い出しそうだという程はっきりしたものではないが、二人を見ていると何かを感じる。今までは、誰に会っても、何処に行っても、そんなことは無かった。だから、わたしはそれが何であるかを確かめたい。確かめる為に、しばらく行動を共にさせて貰いたいと思っている。───迷惑なら……やめる」

 最後の一言は、とても一人で生き抜いて来た女剣士の言葉とは思えなかった。抱えた込んだ膝も、上目遣いで見詰めながら恐る恐るという風情で訊く様子も、叱られることに怯える子供のようだ。尋ねられた方がちらりと視線を流すと、そこにも同じような視線で、無言で訴えている息子がいた。

(これは脅しに近いな)

 胸の内だけで、ティルダールが苦々しく呟く。

 昔から、エリア・シルヴィアの頼みには弱かった。不条理だと思い、無謀だと考え、反対の上断ろうとして、その意思を貫けた事はほとんどない。それが今回は、妻に似た女と、妻と同じ瞳を持つ最愛の一人息子との二重攻勢である。こうなると、後はだくと答えるしか選択肢はない。

 ティルダールは小さく溜め息を吐くことによって、二人に了承の意を伝えた。




「リューイン───リューイン、起きろ」

 シルヴィアが辺りを憚る低い声に起こされたのは、寝入ってから随分経ってからだった。

 浮上しかけた意識の中で、ぼんやりと考える。昨夜は、ティルダールに何とか同行の承諾を貰い、その後アルフェスと少し他愛無い話をしてから休んだ筈だ。丸一日、あれこれと慣れない類いの緊張感で疲れたのと、当面の安堵感から、滑り落ちるように眠った。それから……。

「リューインっ!」

 もう一度、低く、鋭く呼ばれ、嫌々重い目蓋を開く。すると、焦点が合わないほど間近に、精悍な若い男の顔があった。何かを考えるより早く、眠る時には常に胸元に抱えている短剣を抜き放ち、確実に急所を狙って突き出す───長く、危険な女の一人旅故の、刷り込まれた防御行動である。半瞬の差で眠る前の諸々の出来事が甦り、『しまった』と思ったのは行動に出た後だった。

 しかし、その若い男=ティルダールは、驚くでも慌てるでもなく、軽々と攻撃を放った白い手を制し、何事も無かったように静かに訊いた。

「どうした?」

「どうした? それはこっちの台詞だ。こんな夜中に何なんだ?」

 逆光になったティルダールの向こうには、小さく保たれた熾火おきびが見える。その更に向こうには、毛布に包まれた子供が眠っていた。シルヴィアは、彼の囁くように低い声が子供の眠りを妨げない為のものだと気付いて、ようやくどうにか高ぶった神経を抑えた。

 まだ出会ったばかりの男は、シルヴィアが落ち着いたと判断したのか制していた手をそうっと放し、心配そうな表情の上に訝し気な色を乗せ、眉根を寄せて更に声を低める。

うなされていた。覚えていないのか?」

「わたしが?」

 確かに、少し鼓動が弾んでいるし、呼吸も乱れている。だがそれは、就寝中に起こされるという慣れない事があったからだと思っていた。しかし云われてみると、背中や首筋が冷たい汗に覆われていて、手足が冷たい。ただの警戒心が発動する起床だったとしたら、こんなふうにはならないだろう。

 ティルダールは、自分の状況を注意深く確認するシルヴィアからさり気なく距離を取り、小さく保っていた火をもう一度おこす。

 怯えた小動物を気遣うような、彼の緩やかな動作を目で追いながら、シルヴィアは体内に残る夢の残滓ざんしを捜した。は、意識を向けるとすぐ近くに存在しており、慣れたくもないのに慣れてしまった覚えのある不快感を伴っていた。

「ああ……そうか……」

 無意識の吐息と共に、誰にともなく声が漏れ出る。

 心の中でに触れ、思い出すだけで、酷い疲れを感じるのだ。腕も上げられないと思うほどの疲労感───あるいは、倦怠感や徒労感と言い換えてもいいのかもしれない。もう一度立ち上がって、歩き始めることにすら意味がないと思えるほどの無力感。

 押し寄せたそれらのせいで、何かを話さなければという気力すら湧かない。だから、少し離れた所で火の世話を焼くティルダールの背中を、ただぼんやりと見ていた。

 どちらともが口を開かない夜のとばりの中、淡い火の光の輪の外側で、秋の虫がチチチと密やかに鳴いていた。

 シルヴィアの挙動に不審なものを感じただろうに、何も問うことをせず、不思議なほど静かに動く広い背中を見ているうちに、体の中心に凝り固まった緊張が少しずつほどけていく。この言葉少ない連れは、どうしてこんなにも穏やかな空気をまとっているのだろう。そして、目が覚めた時に誰かが居てくれるという、この安心感───彼女は、独りではないということの意味を、初めて知ったような気がした。

「飲め」

 端的過ぎる言葉と共に、小さな木の椀が差し出される。彼は、この為に火の世話をしていたのだ。黙って素直に受け取ると、椀の中身は温められた果実酒に蜂蜜が溶かし込まれたものだった。そしてようやく、シルヴィアは自分が小刻みに震えていたことに気付いたのである。

 感覚がない強張った唇で一口啜ると、アルコールと糖分が体の中心をゆっくりと通り、喉の奥をほんのりと温めてくれた。

 少しずつ温かい飲み物を口にしながら、シルヴィアが幾分落ち着いたことを確認して、ティルダールはさり気ない距離を取って腰を降ろした。当たり前のように長剣を手元に置き、アルフェスとシルヴィアと馬が視界に入るようにしている。

 シルヴィアは、出会ったばかりの彼女にこれほどまで気遣ってくれる相手に対して、誠意を示さなければならないと感じた。いや───誠意を示したかった。今もなお、彼女が自ら話を始めることを、根気強く待っていてくれているティルダールに対して。

「夢を───見たんだ」

 強い意思の力を宿す榛色はしばみいろの双眸を真っ直ぐに見詰め、シルヴィアは出来る限り正直な言葉で話し始めた。

「いつも見る夢だ。海岸でわたしが今のわたしとして目覚めてから、夢は一つしか見なくなった。わたしが知らないそれ以前は、どうだったか判らないが……」

 話そうとして夢の記憶に触れ、シルヴィアは身震いをひとつした。訪れる夢に、恐怖などの明確な感情が伴うわけではない。ただ、曖昧で、不安で、酷く寒いだけなのだ。

「特に内容はない。けれど、いつも同じだ。青い、青い空間が広がっている───空の青や海の碧、水がほんの少し色付いて見えるだけの青、少し緑や紫がかった無数の青が、幾重にも重なってわたしを取り巻いている。どれも同じ青。だが、どれ一つとして同じ色ではない青い───青い世界だ」

 考えながら少しずつ、訥々とつとつと言葉を紡ぐ彼女に対して、ティルダールはただ黙って聞いている。『夢の話か』と侮る様子もなく、ただ真面目に聞いている。その態度に勇気づけられ、シルヴィアはもう一口手の中の物を含んだ。液体は、口の中に新鮮な刺激と甘味を伝え、するりと喉を通って続きを話す気力を与えた。

「その色の中では、体が思うようには動かない。いや、動いているのかもしれないが、色以外の比較するものが何もないから、本当に動いているのかどうかも判らない。───しばらくすると、重なった色が揺れ動いて、形を取ろうとする。似たような色ばかりで輪郭もはっきりしないが、人のようでもあり、獣の形のようでもあり、どこかの風景のようにも見える。いつもそれを見極めようとするんだが、上手くいった例がない。それに向かって呼び掛けてみても、自分にさえ自分の声が聞こえないんだ」

 シルヴィアは、椀の中身の最後の一口を飲み干し、空になった器を両手の中で握り締めた。まるで、自分をこの場に留めるよすがが、その小さな無機物にしかないかのように。

「その夢を見た後は、堪らなく不安になる。自分が───生きた人ではないような、自分自身が夢であるような気がするんだ」

 ようやく語り終える最後の声は、絞り出さなければならなかった。『話す』ということはこんなに困難だっただろうかと感じるほどに、この夢を言葉にするのは難しかった。

「───疲れる夢だな」

「そうなんだ」

 辛うじて笑みに見える微妙な表情を浮かべた彼女は、本当に疲れ果てているようにティルダールには見えた。

 記憶がないというのは、こういうことなのかもしれない。

 自分が生まれてから、長い時間をかけて積み重ねられて来た記憶───家族の顔や友人の顔、自分の家や故郷の風景。笑い、怒り、泣いて来た十数年分の情景───そのすべてを持っていないというのは、一体どういう気持ちなのだろう? そして、それらをすべて失ってしまう経験とは?

 あるいは、数年分の記憶しか持たないシルヴィアは、十に満たない寄る辺ない子供のようなものなのかもしれない。

「夢なら、俺も見る」

 簡潔過ぎる感想以上のことを、何も云う気がないのではないかと思わせる長い沈黙て、ようやくティルダールはぽつりと呟いた。

「エリィの───妻の夢だ」

 そう大切なことを囁くように云った時、ティルダールの表情は、昼間に見せた厳しさと打って変わって和らいでいた。榛色はしばみいろの双眸も硬質な光を弱め、その視線が向く先の炎の膜を通り越し、淡い記憶の底を───もしくは、時の向こうの面影を追うように遠い。

「あいつが俺を呼ぶ。答える俺の声はあいつに届いていないようだが、あいつが呼ぶ声は俺に届いている。ただ、それだけの夢を繰り返し見る」

 子供のように膝を抱えて耳を傾けるシルヴィアを、ティルダールは慈愛に満ちた、それこそ父親のような眼差しで見た。

「自分の望みが形を取っただけの、ただの夢かもしれない。だが、俺がその夢を見ている限り、どこかであいつが生きていると思える。あいつが生きていて俺を呼んでいるから、夢になって届いているのだと信じている」

「わたしも……そうなのか?」

 ティルダールの云わんとするところを汲んで、シルヴィアが訊く。

「わたしも、誰かが呼んでいるから夢を見るのかな?」

「もしくは、リューインに会いたい誰かが居るからか、どこかに戻りたい場所があるからだろう。その夢を見ている限り、いつかは思い出せると信じていればいい」

 シルヴィアは、ティルダールの言葉を咀嚼そしゃくするように、しばらく俯いていた。そしてふと、焚火を挟んだ反対側で眠る子供に思いを巡らせ、別のことを訊いた。

「そうやって……何処にいるとも知れない連れ合いを、貴殿は捜し続けるのか?───だが、アルフはどうする? このままずっと、貴殿と当てのない旅を続けるのか?」

 本来であれば、部外者であるシルヴィアが口を出すことではない。重々それは判っているのだが、それでもこの利発で優しい子供のことが気になってしまうのだ。

 その問いを受けて、ティルダールは我が子に目を向け、炎の陰影の中で僅かに表情を曇らせた。

「そのつもりはない。もうしばらくしてあいつが見つからなければ、アルフは俺達の故郷に預けるつもりだ。そこにはエリィの父親と実の弟が居る。彼らがアルフを大切に育ててくれる」

「父親の義務を放棄すると?」

「何と云われても否定はしない。事情がどうであれ、半分でしかない人間には、人の子の親は務まらんだろう」

 物憂げに───だが、断固として云う横顔は、その件に関するあらゆる質問を拒否する意思が伺えた。それを見て取ったシルヴィアは、質問の方向を変えた。

「独りになって、また奥方を捜すのか? その旅にアルフは邪魔?」

「まさか!」

 即答だった。声を荒げはしなかったものの、さも意外なことを訊かれたとばかりに振り返る。その視線の先で、らしくなくむきになったティルダールを面白そうに見ている黒い瞳に出会い、揶揄からかわれたことが判って苦笑が漏れた。

「ずっと、アルフが居たから耐えて来られた。いつも護られて、救われていたのは俺の方だ。───だが、子供がいつまでも親の生き方に付き合うことはない。アルフは───きちんとした教育を受け、世界を知り、あの子なりの生き方を見付けなければならないと思っている」

 この男は、失った女を自分の半分だと云った。そして、息子を思えばこそ手放すことを考えていると───誰しも、そんなふうに人を愛するのだろうか?

 もしもそうならば、自分にもそんなふうに待っていてくれる人が居るのだろうか?

 自分自身すら覚えていない、失った記憶の彼方のどこかに……。

「明日も早い。もう少し眠っておこう」

 シルヴィアは、今まで出会ったどんな人間から聞いた言葉よりも、ティルダールの考え方に慰められるような気がしていた。

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