旅の道連れ

─── 1 ───

  緑の野に銀の風舞い降りぬ

  紅の森に黒き翼翔け巡りたり


 温かい湯の中で微睡まどろむような優しい眠りの狭間で、低く、静かな声が口遊む歌を聞いたような気がする。


  遥かなる山々より銀の風と黒き翼訪れ

  風の統べる処コ・ルース・リィンへ風花と祝福をもたらさん

  三つの湖に抱かれし我らの都


 何故だろう───自分の中のどこにも存在しない筈の光景なのに、澄み渡った蒼穹の彼方に浮かんで見える峰々も、光の加減で蒼や緑に見える湖も、季節によっていろどりを変える深い森や草原を駆け抜ける風さえ、どこかで知っているような気がした。

 懐かしさで胸が焼ける。

 早く帰りたいと、焦がれるように思う誰かが、遠いどこかで泣いていた。




 イムヘルの城壁を越えたところで、シルヴィア・リューインは早くも後悔し始めていた。

 に、が引っかかっている。それがであるのか、であるのかが判らなくて、彼女を苛立たせている。

 本当に、あの父子とあんなにあっさりと別れてしまって良かったのだろうか?

 シルヴィアにとって、初めての出来事だった。閉じられた自分の記憶を刺激する何かを、もしくは自分を知っている誰かを、当てもなく探す旅の中で、こうも抵抗なく親しんでしまった人間は、あの二人が初めてなのである。

 これまでは、海辺で目覚めてからの記憶しか持たない女の一人旅故に、他人は観察と警戒の対象でしかなかった。思い出のようなたぐいの記憶は無かったが、幸い体に刻まれた経験の記憶は残されていたようで、お陰でなんとか無事でいる。自分のことではあるが、以前の自分はどんな女だったのだろうと疑問に思うほどだ。剣技や体技、馬術から野宿まで難なくこなせるのだから、どんな暮らしをしていたのか───想像するのも少し憂鬱だった。少なくとも、良家の子女にこんな事は出来ないだろうと思うからだ。

 それでも、諸々の技術があるお陰で、女性故に遭遇する様々な危険や困難を乗り切って来られた。以前の自分に素直に感謝出来るかどうかは、非常に微妙なのだが……。

 シルヴィアの旅に、揉め事は常に付きまとう。加えて、いつも警戒心と不安を抱えて過ごしている為に、緊張が解ける事がない。そう、どんな時でも、おりのように心の深い場所に降り積もり続けるものがあるのだ。

 自分自身の正体を知らないという不安。

 自分が、今ここにこうして存在している事を、知っている者が居ないという不安。

 慣れてくると、旅はむしろ楽しくさえあったが、独りである淋しさは消えず、溜め込んだ不安に圧し潰されそうになる夜もあった。そんな時は、眠る為の酒を呷ることもある。だが皮肉にも、身の内に抱える不安故に、どれほど呑んでも酔うことがないのだ。

 それなのに、昨夜はあっさりと醜態しゅうたいを曝してしまった。覚えているのは、息子を寝かし付けて戻って来たティルダールと、アルフェスの明るい青の瞳が母親似であること、シルヴィア自身が記憶喪失であることを話していたこと───ぐらいは何とか……。その後、どのくらい話していたのか、どういう状況で眠り込んでしまったのか、全く以って記憶にない。しかも信じられない事に、朝まで一度も目覚めず、悪夢にうなされもせず、しっかり熟睡してしまったのだ。初対面の人間と同室だったにも拘らず。

 更に、眠ってしまったシルヴィアを抱えて運んだのは、ティルダールだというではないか。今まで自分を守ってきたのは、高い警戒心だという自信は総崩れだ。


 ───何故?


 本人達が知らないと云っているのだから、本当に彼らはシルヴィアを知らないのだろう。

 だとすると、彼らはただのきっかけに過ぎず、『誰かに打ち解ける』という不可能を可能にした原因は、彼女自身の中にあることになる。自覚は全くないが、彼ら父子のどこかに、シルヴィアの失われた記憶を刺激する『何か』があったのかもしれない。

 それが『何か』判るのならば、多少でもこれからの手掛かりになる上、あの父子にもう一度会いに戻る理由にもなるのだが、肝心な部分はさっぱり不明のままで判断のしようがない。

 そんなふうに中途半端なまま考え続けて、シルヴィアは昼時になってもまだ、イムヘルを完全に去る決心がつかずにいた。

 挙句の果て、現在どこに居るかというと、イムヘルの大門を街道側から見晴らす場所にある飯屋兼酒場兼土産物屋で、何杯目かの薄い茶を啜っていたりするのだ。この数年の経験の中で、これ程までに優柔不断に振る舞う自分と会うのも初めての事である。

 イムヘルに入る直前の、あるいは出た直後の客を見込んだその店は、祭りの熱狂と人熱ひといきれを逃れて来た人々で、かなり盛況だ。店に入り切れない客が街道まではみ出し、思い思いに立ったり座ったりして、それぞれの注文の品を口にしている。実際、あれ程の人混みに揉まれた後に、一息つく場所としては最適だった。

 シルヴィアは、栗毛の自分の乗馬を連れて、店の横の草地に直接座り込んでいた。

 彼女の視線は大門の方に向けられていたが、心は自分の内側に向き、自分が今ここにこうしている理由を捜して右往左往している。

 数年前にシルヴィアが現在の自分として目覚めてからというもの、心の奥底に眠っている筈の過去を求める度に見るものは、いつも深いあおの茫漠たる広がりだけだった。

 上も下もない、揺れ動く色彩ばかりの空間に心を向けると、そもそも自分等どこにも居なかったような気がしてくる。気力を削ぐそれに抵抗して思考を続けようとしても、考えることには必ず『何か』・『どこか』・『何故か』という言葉が付いて来て、探求する思考を保つ為の、あるいは始める為の始点が判らないのだ。

 いっそ、失った過去などに拘らずに、このままシルヴィア・リューインとして生きる方がいいのかもしれないとさえ思うことがある。おそらく、自分はどこで何をしてでも、それなりに生きて行く事が出来るだろう。

 それなのに、思い出すことを強制するものがあるのだ。

 何かが、彼女が現在の存在のままである事を許さない。失われた記憶だけではなく、足りないものが確実にあるのだ。渇きや飢えに苛まれるように、翼ある鳥が羽ばたかずにはいられないように、記憶を、過去を求め、彼女を駆り立てて止まないのだ。

(ほら、また『何か』だ。いい加減にしてくれ)

 手の下の青草を引き千切り、苛立ち紛れに前方に放り投げる。

 青草は、この無体な仕打ちを責めるでもなく、わずかな空気の流れに乗って踊りながら大地に接吻をした。

 その短い舞の間に、シルヴィアは乱れ掛けた心を鎮静化し、片膝を抱え込んで、もう一度己の失われた過去への探求を試みた。───どんな映像も、どんな記憶の欠片さえも、海辺で目覚める前の事は見事なまでに空白で、全く何一つ存在していないと判っていても、諦める訳にはいかない。旅に出て初めて、手に入れたかもしれない手掛かりなのだ。

(最初はどうだった?)

 昨日の出来事の最初は、絡んで来るしつこい男どもをようやくいて、しばし身を潜める為に入った宿屋で出会った子供だった。

 いつもであれば、より確実にく為に、機をみてより遠くに移動する。だが、大人ばかりが出入りする酒場兼宿屋にぽつりと座る子供を見た時、自慢の逃げ足は自然と活動を止めたのだ。

「坊や、一人なのか?」

 何故、声をかけたのだろう?

 その時は、特に何かを意識しての行動ではなかった。ただ、どんなやからが徘徊しているかも判らない祭りの最中に、一人で店に居るにはあまりに幼過ぎると感じ、連れに置いて行かれたのではないかと思ったのだ。

 だが思い返せば、あの子供───アルフェスには、迷子や捨て子のような頼りない素振りは無かった。むしろ、子供らしい好奇心に満ちた眼差しで、周囲の大人達を見物している余裕すらあったのだ。

 なのに、何故声を掛けたのだろう?

 それだけならまだしも、追跡者に見つかるまでの時を、どうして話し込んでいたりしたのだろう?

 確かに、声を掛けられて振り返ったアルフェスは、とても可愛かった。子供らしいふっくらした顔立ちも、驚くほど澄んだ青い大きな目も、黒いくるくるの巻き毛も、抱きしめてもみくちゃにしたい程に可愛かった。けれども、理由はそれだけだろうか?

 そしてまた、諍いの最中に駆けつけた子供の父親と初めてまともに視線を交わした時に、鼓動がひとつだけ大きく跳ねたその訳は?

 男らしく、粗削りながらも整った精悍な顔と、静謐せいひつさと猛々しさが同居した双眸が、昨夜から脳裏に住み着いている。

 記憶の探求に没頭するあまり、リアルに再現されたあの父子の映像に、どこかがきりきりと痛んだ。精神の内側に存在している膿んだ傷口が、じくじくと痛みを訴える。

 今の今まで、気配すら感じたことがない傷───在り得ない痛み……。


 やはり戻ろう。


 シルヴィアは、ようやくそう決心して腰を上げた。

 これから戻って、この大きな都市の喧騒の中から、たった二人を見付けられるかどうかは判らない───いや、普通に考えれば、どうあっても無理だろう。けれども、動かずにはいられない。出発は午後だと云っていたから、少なくともまだイムヘルを出立してはいない筈だ。それを確認する為に、大門が見える場所に居たといってもいい。

 もう一度会って、それでどうするかなど考えていないが、会わなければこの正体不明の痛みは消えそうになかった。

「今から祭り見物か?」

 背後から、わざと低められた声を掛けられたのは、その時である。

 シルヴィアは小さく舌打ちをして、声の主を無視して手綱を取った。威圧するような、それでいて妙に湿度を感じさせる声を掛けてくるやからには、うんざりする程覚えがある。実をいえば、これまでに起こした・巻き込まれた揉め事の相手は、ほとんどが女と見れば絡んでくる部類の連中だったのだから。

「無視するこたぁねぇだろう?」

 完全なる拒否に怯むことなく、声の主が視界に割り込んで来る。最も、この程度のことで退くぐらいの相手であれば、剣士の旅装で長剣を携えている彼女に、最初からよからぬ目的で声を掛けたりはしない。

 故に、シルヴィアに絡んで来る者達は、その辺のチンピラより余程たちが悪く、例外なく腕に自信があり、武器を持っている者ばかりだった。わざわざ見て確かめる必要も無かったが、視界に入って来たこの男もやはりそうだ。帯剣している上、わざとらしく筋肉が盛り上がった体を強調する服まで着ている。

(見た目で威嚇しようとするところが、馬鹿だな。頭が悪い上に、趣味も悪い)

 と、思いはしたが、それをわざわざ声に出して聞かせてやる労力すらもったいない。これから、シルヴィアには大事な用があるのだ。

 シルヴィアが、愛想の欠片もない視線を巡らすと、彼女の正面に陣取った男とは別に、二人の仲間らしき男がいた。よからぬ思惑で近付いた証拠に、彼らは前と左右という退路を断つ形で立っている。シルヴィアの背後には、彼女自身の乗馬が壁となっていた。

「急いでいる。通してくれ」

 自身の容姿と同様に、見事なまでに無彩色の声で言う。一応、最後通告のつもりだ。正直なところ、この手のやからの相手にはうんざりしていて、可能であれば構いたくはない。どこからともなく建物の中に入って来る黒い虫のように、次から次へと現れ、個性も品性もない行動を揃って披露するのだから、はっきり言ってしまえば───飽きた。

「どこへ行くんだ? 俺達はこの近辺には詳しいんだぜ。案内しようか」

「そうとも、旅は道連れっていうだろう? ねんごろにしようや」

 目の前に美女が、容姿に見合わぬ酷い事を考えているとは知りもせず、『ねんごろ』の内容まで判る口調で距離を詰めてくる。

 シルヴィアは小さく溜め息を吐き、無言で彼らに背を向けて鞍に手を置いた。

「つれなくするなよ」

 最初に正面に立った筋肉男が、背後から彼女の肩を掴む。女を怯えさせ、嫌と云わせない為の力が充分に籠っている。それが男の不幸を生んだ。つまり、手加減しようという気が、シルヴィアから綺麗さっぱり無くなる切っ掛けになったのだ。元々、無理強いも強制も真っ平御免という性格。ましてや、女性を力で従わせようとする不埒者ふらちものに、加える手心の持ち合わせなど一片たりともない。

 ふわりと空気が動いた瞬間、筋肉男の脇腹に正体不明の痛みが炸裂した。シルヴィアが体の回転で筋肉男の手を払い、そのままスピードと体重が乗った痛烈な肘鉄を放ったのである。

 シルヴィアを取り囲んだ男達の誰もがまともに聞いていなかったが、彼女は本気で急いでいるのだ。早くしなければ、あの父子はイムヘルを離れ、どこへともなく去ってしまう。そうなれば、再会する事は不可能だといってもいい。

 だからこそシルヴィアは、話して判る連中ではないと判断した瞬間に、無駄な説得よりも叩き伏せる方を選んだのだ。

「このアマっ!」

 呻いてうずくまった筋肉男の脇から、別の男が掴みかかって来る。罵声さえ個性がなくて、力が抜けそうだった。

(無視だ、無視っ!)

 評価に値しない男の戯言は、鼓膜を通さないに限る。

 二人目の男の手を軽く避けたシルヴィアを、三人目が背後から羽交い絞めにした。この後の展開を予想して、周囲に居た人々がいっせいに悲鳴未満の息を呑む。

 だが、シルヴィアはこの展開を予測していた。

 背後の男が、脇の下から肩を固定すると、彼女はここぞとばかりに全体重を預け、前方から突進して来る男の顎下に、綺麗に揃えた両足を振り上げたのだ。

 仲間が吹き飛ぶ様を唖然と見ていた男の視界から、白い頭がするりと消えた。攻撃の役目を果たした両足を振り下ろす反動で、前に深く沈んだのである。

 しかし、それがどういう意味かを考える間もなく、男は純白の頭髪との再会を遂げた。最も、再会と共に、顔面に熱烈な一撃を喰らいはしたが。

 顔面から派手に出血しつつ最後の男が倒れるのと、肘鉄を喰らった最初の男が身を起こすのはほぼ同時だった。これ以上絡まれるのと、時間を無駄にするのは御免なので、復活しかけた筋肉男の鳩尾に容赦のない蹴りを放ち、更にその衝撃で体がくの字に曲がり無防備に晒された野太い首筋に、もう一度容赦のない肘鉄を差し上げる。これほど太い首ならば、この程度で折れるようなことはないと見越してのことだ。

 こうなると、気の毒なのは絡んだ方なのかもしれない。

 すべてが、流麗な動きの舞にも似て、淀みも躊躇いもない麗しい戦闘だった。本来不利である筈のシルヴィアは、長剣に手をかけてすらおらず、相手にも武器を取らせなかった。その見事さに、悲鳴を呑み込んだ人々から感嘆の溜め息が漏れる。

 ようやく誰も動かなくなったことを確認すると、シルヴィアは軽く鼻を鳴らして馬に跨った。こういう時だけは、たゆまぬ努力で数々の戦い方を身につけただろうに、忘れずに感謝をすることにしている。ただし、どんなことがあったにしろ、とはいえ記憶を手放した事実だけは許し難いが。

 いつもの雑魚を片付けて、さて───とばかりに、イムヘルの大門に馬首を巡らすと、街道上に一つの騎馬が佇んでいた。

「大したものだ」

 手綱を握る人影が、感銘を受けたとばかりに呟く。

「すごぉい。強いんだね」

 鞍前に座る小さい方の人影が、惜しみない称賛の声を上げる。

 シルヴィアとしては、褒められても素直に喜べない。

「見ていたのなら、知り合いのよしみで手を貸してくれてもいいのではないか?」

「そうしようと思ってはいた。だが、手を出す暇がなかった」

 騎手の真面目な言い訳を聞きながら、シルヴィアは花が綻びるように笑み崩れた。

「どうやら縁があるようだな、ワイズ卿」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る