─── 4 ───

 次にティルダールが目を覚ましたのは、泥のような眠りへの欲求より、空腹と固い寝床への不満が大きくなってからである。

 仕方なく目を開けると、小屋の中が薄明るい。

 時間の感覚が麻痺しているが、いったいどのくらい眠っていたのだろう?

 ゆっくりと視線を巡らせば、粗末な小屋に残っている人影が、数人になっていることが判った。その中の一人が、無造作に赤子をあやしている。

 例え、どんな状況、どんな心身の状態でも、我が子の見分けはつく。だから、あやされている赤子がアルフェスであることは、意識して理解するまでもなかった。だが、もう一人の人間に対しては、そうはいかない。

 最初に認識したのは、黒。

 全身を隠す、フードがついた黒いマント。黒で統一された旅装束。一つに束ねられた腰まで届く長髪も、呆れる程に黒い。ティルダールの巻き毛も黒いのだが、この人物とは比べようもない。まるで夜の闇を塗り込めたような、蒼い艶やかな黒さだった。

(この人は───戦士だ)

 何の感慨もなく、ぼんやりとそう察した。

 逆光の中で大きな荷物に腰掛ける人影は、手の届く所に長剣を置いていた。影になって顔は判らないが、さして戦士向きの大きな体格でもないのに、その剣は不釣り合いなほど長く、大きく、業物わざものと一目で判る代物だった。しかも、飾りではない証拠に、使い込んだ跡がはっきりと判る。

「やっと目が覚めたか?」

 横顔のままの戦士が云う。

 感情が読み取れない淡々とした声は、不思議な響きを持っていた。

 男の声にしてはやや高く、女の声にしては妙に低い。その上、年配の人間の声とも思えないのに、聞く者をはっとさせる重々しい響きが在ったのである。

「さっさと起きたらどうだ。父親が構ってくれないから、息子が拗ねているぞ」

 よく眠ったおかげで随分と疲れは取れていたが、限界以上に酷使された体は、持ち主の意に反して動くのを嫌がった。

 それでも、戦う者として育ったティルダールには、明らかに自分より格が上の見知らぬ相手に対して、示さなければならない意地がある───あると感じた。ぎくしゃくとしか動かない体を、意思の力で動かす。そうしてようやく、自分の体の上下にある薄い毛布の存在に気付いた。

「これは、あなたが?」

「一枚はそうだ。もう一枚は赤ん坊を預かっていた夫婦が置いていった」

 振り向いた戦士を見て、一瞬息が止まる。

 若い───十九歳のティルダールと、さほど変わらないぐらいに若い戦士だ。

 しかし、本当に彼を驚かせたのは、程よく陽に焼けた若者の顔の中心で燃える緑の瞳だった。

 ただ者ではないと、それだけで理解できる緑の双眸。他を威圧する輝きと、歳月を重ねた者だけが宿す知性をはらんだ瞳の中には、陽に透ける若葉の色から深い湖の色までの、ありとあらゆる緑が揺れ動く炎のように踊っている。おそらく、この戦士は見た目通りの年齢ではないのだと、それだけは本能で理解出来た。

 視線と魂を緑の瞳に釘付けにされたまま、ティルダールは戦士の動きにつられて、息子を受け取ろうと両手を差し出した───つもりだった。

「まずは体を洗って来い。子供を病気にする気か」

 いつの間に取り出したのか、息子の代わりに渡されたのは清潔な布である。

 その布と戦士の顔を見比べ、改めて自分の姿を顧みると、全身が乾いた泥と自分の汗にまみれ、髪は指も通らない程固まっていた。更に、服もまた、あちらこちらが裂けたままでぐしゃぐしゃだ。確かに、これでは子供どころか、大人であっても積極的に触って欲しくないと思う状態だった。

 仕方ないので、云われるがまま外へ行き、大河の岸辺で体の汚れを落とすことにする。

 河の流れは、すでに清浄な状態に戻っていた。

 空を見上げると、濃い青の色の中に所々淡い雲が浮かんでいるのが見える。太陽はちょうど中天をやや過ぎたところで、一日で一番強い陽射しの下を渡しの平船がゆるゆると動いていた。

 余りに長閑のどかで、当たり前に平和な情景である。

 すべてが夢だったと云われたら、あるいは信じたかもしれない。嵐の存在も、血を吐くような捜索の時も、悪い夢だったのだと───もしも、ここにエリア・シルヴィアの姿さえあったならば……。

「あの嵐が嘘のみたいな、いい天気だな」

 背後から、ティルダールの心境そのままの台詞が聞こえた。振り返ると、戦士がアルフェスを抱き上げたまま、小屋から出て来たところだった。

 戦士の言葉に何と応えていいか判らず、黙ったまま水から上がる。その目の前に、戦士は小脇に抱えていた荷物を無造作に置いた。

「着替えだ。私の服だから少し小さいかもしれないが、まあ、着られないことはないだろう」

 確かに、肩を並べてみると長身の戦士は最初に感じたよりも細く、ティルダールの方が幾分体格が大きい。それなのに、どうしてこうもこの見知らぬ相手に圧されてしまうのか?

(多分、この人はとてつもなく強いんだ)

 見た目と違う年齢のこともある。おそらく間違いないだろう。

 十三を越える頃から、ティルダールは剣技でも体技でも、周囲に一目置かれていた。遠くない将来には、一流の剣士になるだろうとも云われた。それだけではなく、領主一族を支える未来の補佐官としても期待されており、領主の子供達と共に高等教育を受け、領地の運営の事、外交の事、いざという時の為の戦略と戦術も学び、実際の年齢より多くの経験を積んでいる。

 結局、故郷を出奔した為にそうはならなかったが、幼い頃から鍛えられていた戦う者の本能と、大局を見定める為に養われた感性が、相手との器の差を知らしめるのかもしれない。

 それに───。

 陽の光の下で見る戦士が身に着けている物が、物語ることもある。

 本来は上質の物だと判るマントは色褪せ、旅装束の布はほつれ、丈の長いブーツは擦り切れている。おそらくこの戦士は、長い、とても長い旅をして来たのだ。

 ティルダールが故郷を出てからして来た旅よりも、もっとずっと永い旅を。

「俺がアルフを───息子を預けた人達はどうしましたか?」

 ティルダールが口にしたのは、とりとめのない物想いとは別のことだった。

「今朝早くに出立した。知り合いが迎えに来たのだそうだ」

「そうですか───お礼をする約束をしていたのに……」

「一応、礼はしておいた。お前の代理でな。それで、剣は使えるか?」

「ええ、はい。でもどうして……」

 戦士は質問には答えず、身なりを整えたティルダールに赤ん坊を手渡し、足元に置いた荷物に一振りの剣を立てかけた。

「予備の剣だ。あまり良いものではないが、当面の役には立つだろう。荷袋の中には、旅に最低限必要な物が入っている。小屋の裏に繋いである馬も使うといい。鹿毛で長白の馬だ。馬具も柵の近くに置いてある」

 知り合いでもなく、こちらから依頼したわけでもない。本当に、つい先程出会ったばかりの相手なのに、何故ここまで?

 この戦士の格からいって、罠や下心は存在しないだろう。更に、淡々と事務的に伝える言葉から、安い同情心や憐れみすら感じ取れないことが、ティルダールを益々混乱させた。

「そこまでしていただくわけにはいきません。第一、理由がない」

「この状況で理由が必要か? お前は手助けが必要で、私にはそれが出来る。加えて、私は子供好きなんだ。───それに、人の好意に頼らなければ、旅をしながら男一人で子育ては出来んぞ。もっとも、手が掛かる赤子を手放すつもりなら別だがな」

 息子のことを指摘されて息を呑み、ティルダールは自分の腕の中の小さな生命を見た。父親の手元に戻ったことが判るのか、今は安らかな寝息を立てている赤ん坊───ティルダールとエリア・シルヴィアのたった一人の息子。自分の生命や矜持きょうじなど、この子の前では全く問題にならないほど大切な天上の至宝。

 覚悟を決め、居住まいを正して、ティルダールは心の底から深く頭を下げる。

「ありがとうございます。お力添えに感謝します」

 実際、現時点で最も必要な手助けだった。

 戦士は軽く頷いただけで、『気にするな』と云わんばかりだ。

「それで、これからどうする?」

 問われても、これからのことなどまだ考えていない。今の今までそんな余裕はなかった。

 しかし、不思議と淀みなく答えが出る。

「妻を捜します。───どうしても、死んだとは思えないのです」

 真実を認めたくないが故の嘘ではない。動転していた時には判らなかったが、本当にエリア・シルヴィアがどこかで自分を呼んでいるように感じる。そう……疲れ果てて泥のように眠っていた時も、その呼び声を聞いていた気がするのだ。

 きっぱりと言い切ったティルダールに、戦士は百歳も年上の人間のように鷹揚おうように頷いた。

「あの嵐は、あまりにも急過ぎた」

「聞いた話ですが、あのような急な嵐を、『ゲイリーが通る』もしくは『ゲイリー雨』というようです。地域的な気候なのでは?」

「ゲイリー?───ああ、ゲリラ豪雨のことか……今はそういうのだな」

「ゲリラ?」

「昔な、徒党を組んで突然襲い掛かってくる戦闘集団がいたんだ。彼らのことをゲリラと言っていた。それに例えられた突発性豪雨をそう呼んだ頃があった。まあ、本当に昔のことだ。だが───今回に関してはおそらく違うだろう」

 誰も知らなかった『ゲイリー』のいわれを、戦士はさらりと説明する。昔とは、どれほど昔の話なのが……。

 けれども、ティルダールにはもっと聞き逃せない個所があった。

「違うと……? あなたは何か知っているのですか?」

 話の途中で、突然思い出したことがある。

 必要にして充分なほど泳げるエリア・シルヴィアが、足を引かれたと云った。増水したばかりでさして流れて来る物も無かったにも拘らず、平船はに衝突されて転覆した。溺れたエリア・シルヴィアを助けに行こうとしたティルダール自身も、に足を払われたのだ。───あれは一体だったのか……。

「確かに、お前達のいうゲイリー雨でも急に天候は荒れるし、河の氾濫も起こる。だが、これ程の短時間で起こることではない。通常であれば、もう少し時間が掛かるものだ。水が引くのも早過ぎる。だとすると、何者かの介入があったのだろう。それが可能なのは、人間ならかなり強力な魔法を使える者───だが、魔法の気配も痕跡も残っていない。だとすると、精霊か人間以外の何かでしかない」

 天候を操る力すら持つ人間以外のもの。

 その言葉は、ティルダールの胸に重く伸し掛かって来た。この世には、人間以外のものは当たり前に存在する。精霊・幻獣・エルフ族を筆頭にする亜人種───そして、ほとんど人界に係わりを持たないとされる神々。

 そうなのだろうか?

 エリア・シルヴィアを連れ去ったのは、人ではないものなのだろうか?

 だとすると、ティルダールに成すすべはあるのだろうか?

 ただの災害ではなかった可能性を示されて、ティルダールは途方に暮れた。人間相手であれば打つ手もある。だが、人外のものだというのであれば───。

「名前は何というんだ?」

 途方に暮れかけたティルダールに、戦士が唐突に尋ねる。

「え……あ、ティルダール・シン・ワイズです」

 何の疑問も持たない応えに、くすくすと戦士が柔らかく笑う。

鷲の魂ティエルダ・シンか───良い名だ。だが、私が訊いたのは、小さい方の名前だがな」

「あ───ああ、アルフェス・キル・ワイズです」

 赤面しながら答えると、戦士は不意に真顔になって、ティルダールの目を緑の双眸で真っ直ぐに覗き込んだ。

最愛なる者アルフェス・キュール───その名をつけた時の気持ちを忘れないことだ。そうすれば、どこで何をしていても、生きていけるだろう」

 話の飛躍に付いて行けず、茫然とするティルダールに、戦士はあっさりと背を向けた。最早、用は済んだと云わんばかりに。

「本当に、色々とありがとうございます。あの……貴方のお名前は?」

 慌ててティルダールが問うた時には、戦士はもう小屋の角を回りかけていた。

 だが若者の問いに立ち止まり、ほんの一呼吸の間、逡巡する気配を見せた後、少しだけ振り返って答えた。

「リーヴァ」

 不思議な響きを持つ声の余韻だけを残して、戦士は角を曲がって消えた。───文字通り消えたのだ。すぐに後を追ったティルダールが見たのは、草を食む鹿毛で長白の空馬と無人の街道だけだったのだから。

 小屋の中にも外にも、見晴らしがよい筈の風景の中にも、たった今まで話していた戦士の姿はない。

 何処にどうやって消えたのか不思議ではあったが、何故か薄ら寒いものは感じなかった。多少ぶっきらぼうな所もあったが、彼の戦士はティルダール父子を細々と気遣い、先を踏まえた手助けをしてくれた。それらの根底に、深い労りが感じられたからかもしれない。

 幸運だったと思うことにしよう───あの旅の戦士に会えて幸運だったと。

 戦士は去り、エリア・シルヴィアを見失ったが、ティルダールの元には旅に必要な物資と馬、それにアルフェスが残されていたのだから。




 あの日から、六年余りの歳月が流れた。

 もう赤子ではなくなった息子が眠る寝台に腰掛け、ふっくらとした幼い顔にかかる髪を指先で掃う。

 アルフェスを育てながら、大河沿いに延々と捜索の旅をした。

 時には路銀を得る為に、一つ所にしばらく留まることもあった。秋ならば農家の収穫を手伝い、冬には狩人になり、時には荷車の護衛や雇われ戦士の真似事をしたことも一度や二度ではない。決して楽な旅ではなかった。

 それでも、エリア・シルヴィアは見つからない。それどころか、手掛かりの一つもないのだ。いっそ不思議なほどに。

 いつか───以前から考えてはいたが、そう遠からぬ『いつか』のうちに、一つの決断をしなければならないだろう。

 当てすら見つからない旅に、いつまでもアルフェスを連れ回すわけにはいかない。アルフェスは、正しくコ・ルース・リィンの領主一族の血を引く子供だ。そして、子供には安定した生活の場と教育が必要なのだ。

 だから───。


  緑の野に銀の風舞い降りぬ

  紅の森に黒き翼翔け巡りたり

  其は風の司神リール・ネ・リュインダの恵み深き者

  其は地の司神リール・ネ・ユリティスよりの使者


 あらゆる土地で、大小を問わず必ず行われる収穫の祭り。

 商業都市イムヘルで催される祭りは、大陸では有数の煌びやかな物だが、ティルダールの胸に去来するのは、故郷の収穫祭の思い出ばかりだ。

 決して聞こえる筈のない、故郷の祭りで必ず歌われる歌が、幾度も繰り返し鼓膜を震わせる。


   豊かなる深き秋

   湖の色いと澄み渡りし時来たれば

   遥かなる山々より銀の風と黒き翼訪れ

   風の統べる処コ・ルース・リィンへ風花と祝福をもたらさん

   三つの湖に抱かれし我らの都


 かの地を離れて、もう何年になるのか……。

 領地を出奔して以来、まだ一度も戻ったことはない。そして、今更里心がついたわけでもない。

 何故なら、元々から離れたくはなかったのだから。領地を出るその瞬間から、ずっと───ずっと帰りたかった。

 そもそも、故郷が嫌で出て来たわけではない。ただ、そのまま留まれば、それ以上に大切なものを失う結果になるが故に、止むを得ず出奔したに過ぎないのだ。そして今は、別の理由から帰郷することが出来ずにいる。

 コ・ルース・リィン───愛しく、懐かしく、美しい故郷。

 己を知る多くの人々が住む土地。

 縁者を持たないティルダールを、当たり前のように受け入れてくれた優しい人々が住む領地。


  昔語りに云う

  彼方より海の娘メロウ至り海の司神リール・ネ・ネイディスの祝福を与えん


 あるいは、少し疲れているのかもしれない。当ても、見通しもない旅に。

 青い闇の中で静かに眠る彼女が、ティルダールの探す『彼女』であったならばどれほど良かっただろう。ただ眠る姿を遠目に見ていると、あれから六年後のエリア・シルヴィアが眠っているようにしか見えない。

 それでも、シルヴィアは『彼女』ではないのだ。

 だからこそ、『いつか』の決断をする日まで、そう時間はないだろう。

 薄闇の中で、ティルダールは長い間、眠る二人を見詰めていた。




「昨夜は、その……迷惑を掛けたのではないか?」

 シルヴィア・リューインが気まずそうにそう云い出したのは、宿の支払いを済ませ、建物の裏でそれぞれの馬の準備をしている時だった。

 今朝目覚めてからというもの、彼女は一人で赤くなったり青くなったりを繰り返しながら、何かが釈然としないように考えに耽っていた。それでも答えを導き出すことが出来ずに、思い切って訊いてみたという印象だ。

「ああ、すこぉしばかり絡まれたり、迫られた程度のことだ。気にする程ではない」

 本当の事を唯一知っているティルダールが、何気なく答える。アルフェス一人が、大人の話を理解出来ずに、大きな目を見開いてきょとんとしていた。

「………冗談だろう?」

 やや蒼褪めて、シルヴィアが云う。

「勿論、冗談だ。本当に覚えていないんだな」

 ティルダールは、呆れた振りをしながら云ってみた。当然のことながら、揶揄からかっているのだ。そして何故か、この後の彼女がどんな反応をするのか判る気がして、無表情ながら面白がっていた。

「質の悪い冗談だ。本当に迷惑を掛けたかと本気にしたじゃないかっ!」

 朝日の中で、シルヴィアは黒い瞳を羞恥と怒りに輝かせ、腰に手を当てて白い髪を振りさばいた。さらさらと流れる髪が、陽の光を受けて煌めく。そんなふうに光ると、やはり銀髪のように見えた。

 男装の麗人───いや、確かに麗人ではあるのだが、彼女の輝きは別の所にある。はっきりした感情や、怒りでさえ生き生きとしている表情、輝く漆黒の瞳から発散される生気が、人に彼女を美しいと感じさせるのだ。

 その彼女には、絹やレースの煌びやかな衣装よりも、今着ている何の変哲もない旅装束───生成りの襟なし上着と特に染めているでもなさそうな革のベスト、丈夫な布地の下穿きと膝の上まで覆う長靴、左半身を覆うマント代わりの肩布と腰に下げた細い剣が、とてもよく似合っている。

 ティルダールは、太陽を直接見た時のような表情で、真っ直ぐに見詰めるシルヴィアから顔を逸らした。このまま彼女を見続けていると、そこに別の人間の面影を重ねることを止められなくなりそうだったのだ。

 歯に衣を着せぬ口調と、きびきびと切れのよい動作の上に、一日たりとも忘れたことがない面影が重なってしまう。

「単に、眠ってしまったのを運んだだけだ。心配するようなことは、何も無かった。───そろそろ別れの時間だな」

「もう?」

 驚いた表情で云ったのは、ティルダールの上着の裾を握るアルフェスだった。

 息子の落胆した顔に、若い父親は痛みを覚えた。

 この子は母親を知らない。知らないままに、見知らぬ人を捜す旅を続けて来た。その旅の間にも、母親を慕う気持ちを募らせて来たのだろう。当然だ。知らぬとはいえ、自分の母親なのだから。

 そして、父親の話でしか知らない母親を、この思わぬ同行者に見出していたとしても無理はない。ましてや、当の父親が似ていると云ったのである。別れ難く思ったとしても、誰にそれを咎めることが出来るだろうか。

「アルフ、彼女には彼女の、我々には我々の旅の目的がある。無理を云ってはいけない」

「……うん……」

 こういうことは、残酷なようでもはっきり告げておくしかなかった。伴に過ごす時間が長くなれば、それだけ深く情が移り、尚更別れが辛くなるだけなのだ。

「そうだな、元々成り行きの縁だったわけだし───昨夜は助かったし、久々に楽しかった。ありがとう」

 アルフェスに対するティルダールの気遣いを察したのか、シルヴィアは殊更に明るく云った。

「これからすぐに出立するのか?」

「いや、イムヘルの収穫祭は一見に値するからな、アルフに見せておこうと思う。ここを離れるのは、午後になるだろう」

「そうか、では、ここでお別れだ。二人とも元気で───奥方が無事に見つかることを、心から祈っている」

「そして、貴殿の無事と目的が果たされることを」

「僕……また会いたいな」

「縁があれば、きっと」

 そうして、ただ一夜の連れは人混みに紛れ、それぞれの方向に別れて行った。

 互いに、相手が何かを心に残して振り返ったのを知らぬままに。

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