─── 3 ───

 あの日を忘れる事は、一生涯無いだろう。

 最愛の者達だけは守れると思い、おごっていた自分。

 その自分が、あまりにも無力だったあの日の事を───。


 灯りを落とした宿の一室で、一人の女の面影を映す大小二つの顔が、青い闇の中で安らかに眠っている。

 我が子が眠る寝台に座り、見下ろす位置にあるいとけない寝顔に、隣の寝台で安心しきったように眠る懐かしい面影に、強く触れたいと思った。

 頬に触れて温もりを確かめ、確かな呼吸を感じたい───けれども、それが出来ない。否応なく過去を思い起こさせる出来事が重なった今日、夜のしじまの中の二人は、触れたら消えてしまう幻のように感じてしまうのだ。

 アルフェスを守りながら過ごす旅の日々の中では、過去に捕らわれ、ゆっくり想いを巡らせることは出来なかった。日々の生活の糧のこと、次の行く先のこと、探し人の情報やアルフェスの安全のこと───優先して考えなくてはならないことは、幾らでもあったからだ。

 だが今夜ばかりは、回想を止めることが出来そうにない。

 二つの寝顔を見守りながら、ティルダールに影のように寄り添ってきた想いは、遠い過去へと馳せて行く。


 エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラルと共に過ごした日々は長く、彼女の思い出は数限りない。その中でも、色褪せることなく、鮮明に焼き付いている幾つかの映像があった。

 濁流に呑まれ、波間に消える白い手。

 低く、重く、垂れこめる雷雲と、頬に叩きつけられる雨。

 渡しの舟を翻弄し、転覆を目論む強風。

 白い牙を剥く、黄色く濁った大河。

 それらもその一つだ。今後何が起こるとしても、一生忘れ得ない記憶。

 六年以上前のあの日、早朝に一夜の宿から出立した時は、これ以上ない程の晴天だったというのに。

 柔らかな春の暖かな陽射しと、乗合馬車の規則正しい蹄の振動と、隣には少女のように笑う赤子を抱いた妻───いや、あいつは妻というより、相棒か親友といった方が近いのかもしれない───と、誰も見ていない青い闇の中で、ティルダールはくすりと笑う。それに、彼女が成熟した女性の年齢ではなかったことも本当だ。


 エリア・シルヴィアは、子供の頃からずっと、ティルダールを含む将来は領地の守り手となる少年達に混ざって、全く同じように鍛錬して来た。その鍛錬を望む彼女も彼女なら、それを一人娘に許す領主も領主───似た者親子とは、こういう事をいうのだろう。

 少女故の体の大きさや腕力の足りなさを鍛錬と技術で補い、剣や弓矢を振るい、馬も自在に乗り熟す。気性は、即断・即決・即実行、猪突猛進・御意見無用の剛の者だった。

 黙って着飾っていれば、ティアラや髪飾りを必要としないほど艶やかに流れる銀髪と、雪解け水の色をした大きな瞳、玻璃細工の如き繊細な容貌で、コ・ルース・リィンの領主の姫として申し分ないにも拘らず───「地母神ユリティスも残念なことをなさる」とか、「いやいや、残念なのは姫をめとるどこぞの領主の息子だろう。可憐な姫を嫁に貰ったと思っていたら、内実は猛虎の類いなのだから、詐欺以外の何でもあるまい」などと、鍛錬の師匠達や仲間達から散々揶揄やゆされたものだ。

 幼馴染でもあり、義兄妹のようなものだったティルダールにもその余波は及び、励ますように背中を叩かれ、「お前も苦労するよなぁ」と気の毒がられることもしばしば。

 その様子を見ているエリア・シルヴィアと視線が合えば、彼女は『文句ある?』と言わんばかりに鼻を鳴らし、ティルダールは『全く以ってございません』と両手を挙げるのがいつもの光景だったのだ。


 それでも、愛していた。

 いや、愛という言葉で足りる想いですらなかった。


 初めて出会った時から、お互いがお互いの傍らに在るべき者だと理解していた。右手と左手が、弓と矢が、剣と鞘が、常に対の存在であるように、二人でいることがあまりにも自然だったのである。

 一生に唯一人、誰もが出会えるとは限らない最高の伴侶。

 だからこそ、親兄弟も友人も多くの親しい人々も、義務や責任や信頼も捨てて、二人だけで故郷を出奔したのだ。そのまま留まれば、二人が二人でいられなくなるから。

 そうやって守ったものが、一瞬で奪われたのである。

 あの日、あの午後、乗合馬車から降りて、街道を遮る大河の渡し船に乗り換えたとたんに、突然の嵐が襲い掛かって来たのである。

 桟橋を離れる時には晴れていた空が、岸が遠退くのを待っていたかのように突然掻き曇り、真上で雷が踊り出すと同時に叩きつける豪雨が襲って来た。二人の近くにいた誰かが、「空の底が抜けたのか?!」と怒鳴ったのが微かに耳に届く。緩やかだった大河の流れが牙を剥く濁流に変わるのにも、さして時を必要としなかった。

「ゲイリーが通ったんだ」

 船頭が忌々し気に云う。

 こんな現象に初めて遭遇した若い二人だったが、耳にしたことだけはあった。こんなふうに前触れもなく激変する嵐を、旅人は『ゲイリー雨』、もしくは『ゲイリーが通る』と云うのである。それが、どのようないわれで言い習わされているのか、誰に訊いても確たる返事は戻って来ない。ただ、「昔からそういうんだ」と───。

 水嵩みずかさを増やし勢いを強めた濁流は、漕ぎ手から船の制御を奪い、渡しの為だけの屋根もない無防備な平船は、上下左右に成すがまま翻弄された。乗り合わせた客も、船頭さえも、波間に放り出されないように、船縁にしがみ付いているだけで精一杯だ。

「ゲイリーが通るって、いつもこんな感じなのかしら? 訊いていたのより急すぎるし、強過ぎない? 何か───上手くいえないけど、変よね」

 他の者には聞こえない低い声で、冷静にエリア・シルヴィアが云う。統治者としての教育を受け、剣士として鍛錬して来た少女は、恐れてはいても怯えてはいなかった。

「心配だわ。わたし達は泳げるけれど、アルフは───」

 この時、二人の間に産まれた息子・アルフェスは、まだ一歳にもなっていない。乳飲み子に泳げという方が、無理な注文である。

「俺が抱いていた方がいいな」

「わたしでは不安だっていうのか?」

 光の加減では銀色に見える色の薄い双眸が、本気の怒りを籠めてティルダールをめ付けた。

「莫迦、俺の方が泳げるといっているんだ」

「それはまあ、そうだな」

 エリア・シルヴィアの感情の沸点は低いが、納得出来ると鎮火するのも早い。そして、幼い頃から少年達と過ごすことが多かった為に、故郷を出奔してからは保身の為に少年剣士を装っていたが為に、油断しているとすぐに男言葉になってしまう。今は、初めての子供を出産した影響で、徐々に女性らしさを取り戻しつつある所だが、長年の習慣はそうそう抜けるものではない。

 見ように依っては、二人の少年にしか見えない若い夫婦は、間に乳飲み子を挟んで寄り添い、より舳先に近い場所に陣取って成り行きを見守った。事の次第では、そこから真っ先に陸地に降り立つつもりなのだ。

 船の中では、大勢の人々が怯えながら、近くの者と身を寄せ合っている。

 ティルダールもエリア・シルヴィアも、決して他人の運命に無関心なわけではない。統治する側の教育を受けた者として、極当たり前のこととして周囲の人々の救命を考えている。

 しかし、それもこれも、自分自身の身を守れて初めて可能になるものなのだと、経験の足りない未熟者なりに理解していた。そして、なによりも今、最初に守らなければならないのは、産まれたばかりの息子と隣に寄り添う半身なのだ。

 突然の嵐は勢いを緩める事はなく、土砂で黄色くなった波頭は生き物のように無作為にうねりを増している。それでも、渡し守もこの仕事の職人だけあって、翻弄されながらではあったが、船はじりじりと対岸に近づきつつあった。無駄に長い間、ここで渡し守をしているわけではないということだろう。

「テュール、愛している」

 対岸を見詰めていた視線を傍らの夫へと移し、エリア・シルヴィアが唐突に囁いた。

「何だ、こんな時に?」

「こんな時だからこそ、ちゃんといっておくんだ。そうしたら、もしもここでテュールが死んでも、きちんと伝えなかったことを後で後悔しなくていいだろう?」

 少年にも少女にも見える可愛らしい顔で、とんでもない事をさらりと云ってのける。しかも、冗談ではなく本気の表情だ。今までの経験からいって、どんなに突拍子がなくとも、いつもエリア・シルヴィアは本気で大真面目なのだ。

 だが、ティルダールは長年の付き合いから、言葉の中に別の意味が含まれていることをよく知っている。だからこそ、こみ上げる笑みを抑えきれないまま、揶揄からかうように訊いた。

「死ぬのは俺だけか?」

「わたしは死なない。あ、でもアルフだけは助けてくれよ。そうしたらおまえ亡き後、母子二人で強く、逞しく生きていくから」

 緊張感がみなぎる状況の中にありながら、ティルダールはついに堪え切れずに吹き出した。こんな時に不謹慎だと思うのだが、肩が激しく震えるのを抑えられない。

「だからテュールも、今のうちにいっておいた方がいいぞ」

 最初から本音を隠す気もないエリア・シルヴィアが、さらりと切り込んでくる。

「死んでも愛しているって?」

「もっと真面目に」

「判っているだろう?」

 息子をかかえている反対側の腕で、細い肩を抱き寄せて囁く。

「おまえ以上はどこに居ない。例え、死んで・生まれ変わって・すべてを忘れたとしても、おまえならまた見つけられる。必ず」

「よろしい」

 いとけないアルフェスに言葉の意味が理解出来るのなら、その場で熱を出して卒倒しそうな台詞だ。

 そして、十九と十七の若い夫婦は、息子の頭越しに小鳥のようなくちづけを交わした。

 正体不明の衝撃が襲って来たのは、その瞬間である。何かあったと思った時には、すでに水面に投げ出されていた。周囲の人々の悲鳴さえ、水に落ちてからそれと理解したほどだ。

 咄嗟とっさにアルフェスの体を頭上に掲げたのは、親としての本能の成せる業だったのだろう。

 濁った流れを頭から被り、束の間、平衡感覚がおかしくなる。水こそ飲まなかったが、急変した状況に飛び跳ねる鼓動や、否応なく目に入って沁みる泥水で思考が寸断された。

 火が点いたような泣き声で息子の無事を知り、呼吸と態勢を整えて、周囲に視線を走らせる。岸辺はもう目の前に迫っていた。

「エリィ!」

 流木が激突したのか、あるいは他の理由なのか、完全に引っくり返った渡し船と大河に投げ出された人々。水深はティルダールの胸の下ほどの深さだが、こうも流れが早ければ充分命取りになりかねない。決して気を緩める事は出来なかった。

 心配するほどの間もなく、銀色の頭部が少し離れた水面に浮かび上がった。

「エリィ、もう少しだ。頑張れ!」

 息子を抱えては助けに行けないティルダールは、大声で妻を励ました。

「テュール、足にが───」

 叫び返す途中で、がぼりと再度頭が沈む。非常事態でも判る不審な沈み方だった。

「エリィっ!」

 ティルダールの悲鳴に近い叫びに応えるように、再び波間に銀髪が現れる。

が足を───テュール、アルフを……」

 云い終わらぬうちに、再び波がその姿を隠した。ほぼ同時に、ティルダールもまたに足元を掬われる。

 ───いや、だ。

(アルフをっ!)

 若過ぎる夫婦とはいえ、こんな危急の際に考えることは同じだった。

 そして、最愛の妻であり最高の相棒でもあるエリア・シルヴィアの安否を確かめることも出来ないまま、ティルダールの意識も暗転していった。



 閉じて鈍化した感覚に最初に触れたのは、水と泥、人間の汗の臭いだった。酷く重く感じる目蓋を押し上げようとしてようやく、ティルダールは自分が気を失っていたことを知った。

 まなこに膜が張ったように見え辛い───いや、暗いのだろうか?

 何度か瞬きを繰り返すと、少しだけ辺りが見えるようになる。そこは、天井が低い粗末な小屋の中だった。その中に、十人ほどの人々が身を寄せ合っている。

 次に感覚に届いたのは、幾つかの人の声───啜り泣いている者、力ない罵倒や嘆きを漏らす者、そして───子供の泣き声。

 近くにいた誰かが、まだ朦朧もうろうとしているものの、ティルダールが意識を取り戻したことに気付いて話し始める。渡し船が何かの衝突によって転覆したこと。対岸が近かった為、幸運にも自力で岸に辿り着いた者が多かったこと。ティルダールもその一人だったが、それ以外の者は濁流に流されたこと。

 泥が詰まったような思考では、告げられたことをすぐに理解することは出来なかったが、いつもの習慣に操られ、子供の泣き声に反応して重い体が起き上がる。すると、ティルダールの足元の方に座っていた女性が、彼の両腕の中に赤子を押し込んだ。疲れた表情の女性は、ティルダールより二十以上は年上に見える。女性が持つ母性本能が赤子の存在を無視出来なかったのか、ティルダールが意識を取り戻すまで面倒を看ていてくれたらしい。腕の中の赤子は、粗末ながらも乾いた布に包まれ、彼の冷えた体より遥かに温かかった。

「ありがとうございます」

 辛うじて礼を述べた声は、相手が聞き取れたかどうかも判らないほど掠れていた。

 無意識にむずかる赤子───アルフェスをあやしながら、まだ焦点が定まらない視線が狭い小屋の中を彷徨う。

「エリィは───妻は?」

 ティルダールを看ていた男とアルフェスの世話をしてくれていた女は、暗然と顔を見合わせ、黙って首を横に振った。その途端に意識が途切れる直前に見た最後の映像が鮮明に甦る。

 黄色く濁った波間に消える白い手。

 我が子を案じる叫び。

「そんな───筈はない」

 どこか遠い所で、聞き慣れない声の誰かが云った。

「───そんな筈はないんだ」

 ティルダール父子に付き添ってくれていた夫婦と思しき男女は、呆然と呟くティルダールを気の毒そうに見つめている。

(そんな目で見ないでくれ)

 混乱している思考の中で、もう一人の自分が云う。

(信じていない。まだ信じたわけじゃないんだ)

 自分に言い訳をしながら、もう一度、今度は何一つ見落とさないように、小屋の中を子細に観察する。

 さして広くもない小屋の中では、打ち拉がれた人々と怪我人がひしめいており、まだ動く気力のある数人が彼らの面倒を看ていた。

 しかし、その中にあの輝かしい銀色の髪は見えない。

「もうしばらく、ここに留まられますか?」

 瞬時に決断して、夫婦に訊ねる。

「ええ、荷物も無くなりましたから、知り合いが迎えにくるまで、もうしばらくは……」

「では、申し訳ありませんが、少しの間、息子をお願いします。お礼はしますから」

「あなたはどうするのですか?」

「妻を探して来ます」

 女性の腕にアルフェスをゆだね、返事も碌に聞かないままティルダールは外へ飛び出した。

 どのくらい気を失っていたのか判らないが、それ程長い時間ではない筈だ。そう、まだ夜すら訪れていないのだから。

 戸外に出てみると、嵐はすでに去っていた。

 風も弱まり、雨も止んで、青空が見えている。渡しに乗り込む前と少しも変わらないように陽が射す空の下で、幾人もの人々が後始末を始めていた。小舟を出して川底を浚う者、岸辺を捜索する者───あれほど荒れていた河の流れも、もう治まりつつある。

 それらの人々の中に、ティルダールは身を投じた。

 近隣の人々や普段から組合を作っている渡し守達、無事だった乗船客達と力を合わせて、嵐に攫われたもの達を求めて、渡し船が転覆した一帯を捜索する。集団で、あるいは一人で───ティルダールは他の者が休んでいる時も動き続けた。

 日がある間は河の中を、夜には岸辺を、転覆現場の下流は勿論、上流をも調べ、寝る間も惜しみ、食事すら碌に喉を通らないまま、波間に消えたエリア・シルヴィアを探し続けた。

 それが数十時間だったのか、数日だったのか───捜索活動の間に誰と何を話し、どう行動したのか、疲労を蓄積してくばかりのティルダールに明確な記憶はない。残酷な程はっきりしたのは、一生に一度の伴侶である半身が煙のように消えてしまい、見つからなかったことだけだった。

 最早成すべきことも無くなり、疲れ果て、絶望し切って、ティルダールが渡し小屋に戻ったのは、四日目の朝だったと後に聞いた。鉛のように重い足を引き摺りながら粗末な戸を開けると、そこに身を寄せていた人々は、半分以下にまで減っていた。

「ああ、やっと帰って来たね」

 足元も覚束ないティルダールを目敏く見付け、一人の女が歩み寄って来る。

 アルフェスを預けた女性だ。

「あんた、父親だろう、何とかしておくれよ。この子、乳も碌に飲まないんだよ」

 疲労が限界に来ているティルダールは、彼女の言葉がよく理解出来なかった。だがそれでも、数日に渡って寂しい想いをさせた我が子を受け取って座り、彼女が手にしていた母親の乳首を模した入れ物を赤子の小さな唇に含ませる。おそらく、中身は温めた山羊か牛の乳なのだろう。アルフェスは女性の言葉を全面否定するように、夢中でそれに吸い付いた。

「あらあら、なんて子だい。赤ん坊なりに、自分の父親が判っているんだねぇ」

 息子を預かってくれていた女性に、条件反射のように力のない笑みを向け、ティルダールは礼を述べようとして叶わず。息子を抱いたまま、半ば失神に近い眠りに就いた。


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