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 ティルダールが見つけて来た宿は、ごく普通の旅人向けの宿の多くがそうであるように、一階が食事や酒を提供する店になっていた。

 街の住人が酒場や食堂として使うこともできるし、泊りの客の食堂も兼ねている。商業都市であるが故に、そうそう旅人が訪れない時期はないだろうが、それでも閑散期はあるものだ。そんな時期は、主に酒場として営まれているということである。

 このような宿屋の場合、泊り客の部屋は階上にあり、店の主人一家は一階を住まいとしていることがほとんどだ。この店もまた、そのような作りになっていた。

 予期せぬ連れが増えたティルダール一行が宿に着いたのは、すっかり陽が落ちてからだ。一連のごたごたで宿とは反対方向に走ってしまった事と、諍いがあった場所の近くの馬房に置き去りにした連れの馬を、再度揉め事に巻き込まれないよう回収するのに手間取った事が原因である。

 到着してみると、一階の酒場は異常なまでに混み合っていた。祭りの期間だけに仕方がない事だ。けれどもその状況だからこそ、酒場&宿屋の主人が忙殺されているどさくさに、連れが一人と一頭増えたが、連れは同じ部屋、馬はティルダールの馬と同じ房でいいから受け入れて欲しいという要望をあっさり承諾して貰えたのだから、結果として良かったのだろう。

 互いに多くはない旅の荷物を部屋に放り込み、三人はすぐに酒場兼食堂に降りて行った。人が多い事は重々承知していたが、すでにぐったりしているアルフェスだけではなく、大人の二人の空腹も限界に来ていたのだ。

 そして、彼らが改めて食堂に現れた時、さざなみが広がるように周囲の喧騒が不思議なほど静まった。

 単に、宿の食堂に入っただけのつもりだった大人二人の歩みが、自然に止まる。前金で押さえていた部屋に向かう時にも食堂を横切ったが、誰も彼らの事など気にも留めていなかったのに、この反応は妙だ───何かがあったのか。それとも、昼間の無頼漢がここを嗅ぎつけたのだろうか?

 物騒な何かがあったにしては、緊迫感がない。けれども、何もなかったとはいえない緊張感が漂っている。そして、動きを止めた客達は、一様に三人の方を見ていた。糸に引かれるように自然に振り向き、そのまま呆気に取られたようにぽかんと見ているのだ。

「あんたら、壁際の席が空いてるから、そっちに行きな」

「わかった」

 何とも表現のし難い微妙な空気を、料理を両手に持って厨房から出て来た宿の主人が遮った。ひたすら忙しそうな主人は、店の中の変化に全く気付く様子がない。

 新顔の客に対して、主人が当たり前に声を掛けたことで、微妙過ぎる空気は霧散した。ひしめき合う客達も、夢から覚めたような表情で元の喧騒の中に戻って行く。

 どんな時であろうと、剣を携える二人が異変に敏感であり、相応の警戒心を持つのは仕方がないことだ。けれども、その警戒心が全くの見当違いであることと、周囲の人々の反応の本当の意味を、アルフェスだけが正確に理解していた。大人二人に庇われる位置で移動しながら、ついくすくす笑いが零れる。それを察したティルダールが、視線だけで『何だ?』と問い掛けたが、アルフェスは笑って首を振るだけだった。

 それも仕方がない。正確に理解しているからといって、正確に説明出来るわけではない。ましてや、アルフェスからすれば物凄く判り易い事なのに、大の大人二人が二人とも察することすら出来ていないのならば、どこから説明するべきなのか、僅か七歳の子供に判る筈もないのだ。


 宿にようやく到着した時、彼らは長旅に必要な最低限の荷物をそれぞれに抱え、雨風を凌ぐ為の肩布や外套を着込んでいた為に、容貌どころか性別も判らない外見だった筈だ。食堂兼酒場にたむろしていた人々にしてみれば、『また泊り客が来た』という程度の認識だっただろう。

 だが、部屋に荷物を放り込み、重い外套を脱ぎ捨て、自らの本来の姿を曝して現れた彼らは、衆目を集めるに値するだけの存在感があったのである。

 人混みにあってなお、頭一つ抜ける長身のティルダール・シン・ワイズは、青年らしく硬い線で構成されたはっきりとした顔立ちと、猛禽類を思わせる鋭い榛色はしばみいろの双眸で、否応なく周囲を威圧する。しかも、随分草臥くたびれているとはいえ、剣士の旅装で腰に帯刀しているのなら尚更だ。

 ましてや、新しい旅の連れときたら───身長こそティルダールより頭一つ低いが、女性としては充分過ぎる程に長身で、しかも滅多に拝めない部類の美女である。男にしては長く、女にしては短い、無造作に肩に流した髪は白銀。漆黒の瞳は信じられないほど神秘的で、白皙のいろどりである紅い唇がすべての色彩のコントラストを際立たせていた。その美女が、やはり剣士の旅装をまとっていて、更に帯刀しているのだから、周囲の困惑は如何ばかりか───というところである。

 そしてまた、その二人が間にアルフェスを挟み、店の中を見回すようい視線を放っていたとなると、何かを推し量られているようで、無言のまま威圧されているようで、存在感の大きさ故に衆目を集めるのは仕方がなかった。それが、単に空腹に耐えかねて、空いている席を探していただけだということを、アルフェスだけが判っている。

 この当人と周囲の認識の違いを、笑わずにいるのは不可能だった。


 どうにかこうにか、人混みを掻き分けて宿屋の主人に示された壁際の片隅の卓に落ち着くと、間を置かずエールが並々と注がれた大きな杯が二つ回って来る。幼過ぎるアルフェスの前には、新鮮な果汁の飲み物が置かれた。

 店の従業員とおぼしき青年は、「収穫祭だからな。一杯目な親父の奢りだ」と陽気に告げた。

「そうか、ありがとう」

 一行は素直に受け取り、『店主の見繕いで構わないから』と、三人分の料理を注文した。

 今度こそ本当に、ようやく腰を落ち着けたあと、最初に口を開いたのは、新しく連れになった女だった。

「やけに人が多いな」

「かの有名な黄金の花の都ギュール・レイテの収穫祭だからな」

 堂に行った男言葉が、記憶の深い所に居る誰かを思い出させて、自然と笑みが零れる。

 彼女は、食堂に入ったその瞬間から、男達の熱い視線を浴びているのだが、それに全く気付いていないようだ。その無頓着さがこの男装の麗人に似合い過ぎていて、何だか可笑しい。

 アルフェスに言わせれば、数少ない女性客の注目を浴びて気付いていないのだから、ティルダールも五十歩百歩───似た者同士ということだ。

 取り敢えず手元の飲み物で喉を潤し、『疑問に思ったから口にしてみた』という他意の無さで、彼女が言った。

「奥方は、御一緒ではないのか?」

 とたんに、ティルダールの表情が僅かに曇り、蜂蜜入りの果汁を飲んでいたアルフェスの手が止まる。

 問われて当然の質問であり、問われ慣れた問いではあったが、どれだけ時が過ぎても無反応ではいられない。

「一緒ではない。長い事───行方不明でな」

「それは……すまない、悪い事を訊いた」

「構わんさ。アルフなど母親の顔も知らん」

「そんなに時が経っているのか?」

「もう、六年以上になる」

 彼女が気まずそうに目を伏せた時、流行っている旅籠兼酒場の店主らしく、恰幅のいい主人が、注文の料理を持ってやって来た。

 いったいどうやって持っていたのか、両手一杯に乗せた数ある皿を次々と並べ、手が空くと厚い皮に覆われた掌で、アルフェスの黒い巻き毛をクシャクシャと撫でる。

「美人で格好いいとーちゃんとかーちゃんだな。店中の男と女が見てるじゃないか」

 下手なウィンクと共に、豪快な明るい口調で言った。

「うんっ!」

 子供の明るい返事を聞いたとたん、大きな杯を口元に持って行っていた男女は、同時にむせ込んだ。

「照れるこたぁないって。美男美女の組み合わせは、華が合っていいじゃねぇか。お互い、浮気する気にもならんだろうしな」

 地鳴りのような笑い声を残して、主人は反論する間もなく去って行った。

「お……大きな誤解だ」

「まったく……」

 咳き込みながら、小さな声で言い交わす。ティルダールはついでに、隣の息子を突っついて、『おまえも乗っかるな』と視線で訴えた。

 声に出さない父親の主張を正確に読んで、『だって、面白かったから』とちらりと舌を出して見せる。

 まあ、誤解されても仕方がないか───と、諦め気味に思う。

 二人揃って似たような旅装束を身にまとい、それぞれに剣を下げていることを隠しもせず、加えて子供まで連れていれば、誤解が生まれない方がどうかしているのだ。

「まだ、互いの名すら知らないのにな」

「そうだったか?」

 男性であれば必ず振り返る程の美女は、思いがけない指摘にきょとんとした。ほんの数時間の間に不思議なほど馴染んでしまっていて、そんなことはすっかり失念していたのである。

「俺は、ティルダール・シン・ワイズ。こいつはアルフェス・キル・ワイズだ」

 今更名乗るのも妙なものだが、互いに名すら知らないのはもっと奇妙なことなので、取り敢えず簡潔に名乗り合った。

「シルヴィア・リューインだ」

 その名に、ティルダールが僅かに反応する。アルフェスはそれを見逃さなかった。

「ほら、やっぱり似ているよね」

 嬉しそうにアルフェスが云う。

 無邪気に喜んでいる息子と違って、父親の心境はもう少し複雑だった。似ているからこそ───。

「似ているって、誰に? 行方不明の奥方か?───そういえば、さっきも誰かの名を呼んでなかったか?」

 子供の言葉を聞いて、シルヴィアと名乗った女は、妙に熱心に身を乗り出して来た。熱心過ぎるほどだ。

 興味津々の二人の注目に、ティルダールは困ってしまう。どうも『似ている』ことを喜んでいるように見えるが、自分はそれに水を差さなければならないのだ。

「確かによく似ている───だが、違う」

「そうなのか……」

 シルヴィアは、奇妙に思える程にがっくりと肩を落とし、半分以上残っていた杯を一気に飲み干した。

 アルフェスが気を落とすのは当然だが、何故シルヴィアまで気を落とさなくてはならないのだろう?

 訳も判らす、何か悪い事をしたような気がして、ティルダールはらしくなく急いで言葉を続けた。

「容姿だけではなく、名前も似ている。妻の名は、エリア・シルヴィア・ネイ・ヴァイラルという」

「それはまた、大仰な名前だな。それのどこが似ているんだ? シルヴィア以外は、全然違うじゃないか」

「シルヴィア・リューイン───銀の風の意だろう? 我々の故郷では、今の季節には銀色に輝く風が吹く。遥かに望む高山から風花を運んで来るからだ。あいつは、それに例えられるような女だった」

「へぇ……」

 急激に興味を失った、気が抜けた返事だった。何に興味が湧き、そして失ったのか、この短いやり取りでは全く判らない。

 そもそもこの話は、他人の興味を引くものではないのだと、父子は長い旅路の間に学んでいる。だから、無理に話を続けることはせずに、目配せを交わして当面の空腹を満たすことに専念することにした。


 所狭しとばかりに並ぶ料理の皿を、無心で次から次へと片付けていくごとに、店にいる客の顔ぶれも変わっていく。

 徐々に夜も更けてきたのか、食事を望む客よりも酒を求める客の方が増えてくる。しかも、店を訪れた時にはすでに出来上がっており、見知った者同士で声を掛け合いながら騒ぎ、一杯引っ掛けただけで次の酒場に向かう者がほとんどだ。

 傍から見ると、旅の親子連れにしか見えない三人組の両親役の二人も、食事が進むにつれて杯が重なっていく。勿論、酒だ。

 幼い息子を連れた旅なので、普段のティルダールはそれ程には飲まない。けれども、飲めないわけではないし、今夜は妙に飲みたい気分だった。おそらく、久しぶりに杯を交わす相手が居るからだろう。

「アルフを寝かしつけてくる」

 息子がしきりに船を漕いでいることに気付き、席を立つ。もうかなり杯を重ねた自覚はあるが、息子が一緒に居る限り、ティルダールが自失するほど羽目を外すことはない。それを自分に許す気も無かった。

 母親役───もとい、成り行きの急な連れは、やや上気した顔で頷いた。

 半分眠っているアルフェスが自分で歩くのは無理そうだと踏んで、ティルダールは息子の体を軽々と抱き上げ、荷物だけが待っている部屋へと向かった。この世界で最も安心出来る父親の腕に抱かれたとたんに、小さな体からは完全に力が抜け、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 無理もない。いつもの二人旅であれば、もうとうに眠っている時間なのだ。

「今日はいっぱい走ったからな」

 アルフェスとの二人旅は、朝も夜も早い。大立ち回りをして駆け回ることもあるが、今日は別の意味でも疲れただろう。部屋を共にするほどの連れが出来たのは、父子二人の旅で初めてのことなのだ。

 何故だろう?───息子を温かい寝台に託し、部屋を出ながら自らに問う。

 何故、束の間とはいえ、今更連れを作る気になったのだろう?

 何故、今もまた、階下に戻ろうとしているのだろう?

 すっかり眠り込んでいるとはいえ、掛け替えのない我が子を一人にしてまで、何故?

 本当は、問うまでもなく理由は判っている。

 あの顔のせいだ。

 人違いだと確信しているのに、あまりにも重なる面影を持つあの顔が、ティルダールの判断をいつもと違うものにしている。

 宿の急な階段を降りてくると、ずいぶん減った客の中で一際目立つその顔が、上目遣いでティルダールを見ていた。ほんのりと上気した顔を肘を立てた左手で支え、右手は空になったジョッキを未練がましく玩んでいる。その妙に子供染みた仕草が、見失った者の影にぴたりと重なるのだ。

(まずいな……酔ったか?)

 そう思いはしたが、口から出たのは別の言葉だった。

「ご主人、もう一杯くれ」

 改めてシルヴィアの前に座ると、彼女は眼差しをきつくして咎めた。

幼気いたいけな息子を一人にしていいのか?」

「一度ぐらい構わないさ」

「酷い父親だ」

「否定はしないが、そのわりに良い子に育っただろう? だから、俺はこれでいいんだ」

 嫌味と開き直りの応酬だったのに、今日初めて出会った二人は、額を寄せ合ってくすくすと笑う。

 二人のどちらともが人見知りをしない代わりに、特に誰かと馴れ合う方ではないのだが、この夜は酒のせいだけではなく、不思議と寛いでいた。馬が合う人間同士というのは、こんなものなのかもしれない。

「ところで───妙なことを訊くがな」

 不意に真顔になり、シルヴィアが声を低めて云う。

「なんだ?」

「もし、気に障ったのなら、そういってくれ。その……また奥方の話なのだが───そんなに似ているのか?」

「とてもよく似ている」

「本当に変なことを訊くが、それは?」

 意外といえば、これ以上に意外な質問はない。

 ティルダールはどういう反応をしていいのか判らず、呆気に取られてまじまじと漆黒の双眸を覗き込んだ。

「いや、いい。……忘れてくれ」

 どれほど奇妙なことを訊いたか改めて気付いたように、慌てて取り消す。シルヴィアの顔は、酒のせいではない朱に染まっていた。

 彼女の動揺でティルダールは、その奇異な問い掛けをするのにどれほどの勇気が必要だったかに気付いた。理由は判らないが、彼女なりに真剣な問いなのだろう。

「姿形は、本当によく似ている。仕草も、言葉遣いも」

 ゆっくりと深呼吸を一つ───自分の冷静さを保つ為に。

 そして、決して溜め息に聞こえないように慎重に。

 どれほど奇異な問い掛けであっても、真剣な問いには真剣な答えを───ティルダール自身、他人には理解出来ない理由を持つ旅路の中で、真剣に答えて貰えない事の辛さは経験している。だからこそ、他の人間の本気の問い掛けに、いい加減な答えを返す気にはなれなかった。

「あと一つ同じ所があれば、そのままそうだと思ってしまいたくなる程にな」

「どこが違う?」

「あいつは銀髪だった。あんたは白髪だ。だが、これは理由付けが出来る。時と場合に依っては、一夜で髪の色が抜けるという話は聞いたことがある。あの時、それだけの事があった」

 シルヴィアは、ティルダールが淡々と語ることに、真剣な面持ちで耳を傾けていた。

 かつて、どこの誰にだったか───魂が凍るような体験をした者は、一夜にして髪が白く変わると聞いたのだ。シルヴィアも、どこかでそんな経験をしたのだろうか……。この若さで?

「けれど、瞳の色が違う。あいつは、雪解け水のような色の瞳をしていた。アルフの瞳と同じ色だ。あんたは黒。こればかりは変えようがあるまい?」

 そう、アルフは一目で血が繋がっていると分かるほど、ティルダールに似ていた。奔放過ぎる黒い巻き毛も、顔立ちも───唯一、どこまでも透き通る水色の瞳を除いて。ティルダールは、髪と同じに、色濃い榛色はしばみいろの瞳をしていた。

 父親似でなければ、母親似なのは当然である。とうに、気付いていてもよかったことなのだ。

「そう……そうだな。変なことを訊いて悪かった。答えてくれてありがとう」

 目に見えてがっくりと肩を落としながらも、誠実に対応してくれた相手に懸命に謝意を伝える。ただし、その声に張りは無かったが。

 相手の様子を読み取ることは出来ても、細かい心配りが得意ではないティルダールだが、シルヴィアの落胆振りには何かを云わなければならないような気がした。気が楽になるような何か───は、無理だとしても、せめて冗談に聞こえるような何かを。

「本当に変な質問だ。まるであんたは、自分が誰かを知らないように聞こえるぞ」

 出来るだけ軽く云ったつもりだったが、返って来たのは重い沈黙だった。

 気まずい上、これ以上どうしたらよいのか判らなくて視線を泳がすと、店の中には二人の他にもう数人の客しか残っていない。狭い卓の上には、いつの間にか重ねた杯が、空のまま整然と並んでいる始末だ。

 これはそろそろ、いい加減にしなければならないと囁く声がする。それが意識の表面上で聞こえないのだから、とっくに酔っているのかもしれない。

 随分長い間を置いてから、シルヴィアが沈黙を破ってぽつりと云った。彼女の呂律ろれつもかなり怪しい。

「実はそうなんだ」

 二つの台詞にかなり間が空いた為、咄嗟とっさにティルダールは、どの言葉を受けての『実は』なのか判らなかった。

「わたしは、自分が誰なのか知らない」

 シルヴィアの漆黒の瞳は、話し相手を見てはいなかった。流れるように鮮やかに剣を振るうとは思えない細く長い指で、卓に残る水滴を玩びながら見ている。その実、自分の仕草にすら意識に届いていないような虚ろな双眸の上で、純白の髪と不揃いの赤い石がさらさらと動いていた。

 自分が誰なのかを知らない。それはつまり───。

「海辺にな、打ち上げられていたそうだ。気が付くとわたしはで、自分の名前も、生まれ故郷も覚えていなかった。だから、それからずっと───もうずっと、わたしはわたしを知っている人を探しているんだ」

 片手で髪を掻き揚げながらようやくティルダールを見て、泣き笑いのような表情で云う。

 情けない顔をしているのが判っているだろうに、それを隠そうともしない潔さが、ティルダールは嫌いではなかった。重苦しい過去を盾にびられれば鬱陶うっとうしいばかりだが、シルヴィアの態度には甘えに似たものは微塵も混ざっていない。

 おそらく、酔いに任せて、ほんの少しばかり愚痴を云いたかっただけなのだろう。

「時々、不安で堪らなくなる。どこかでわたしを知っている人と出会っても、相手がわたしのことを判らなかったら───忘れてしまっていたら、どうしたらいいんだろうな……。あれから、もう何年も過ぎてしまった。時が経てば経つほどに、不安が募る。あんたは───そんなことはないか? 奥方があんたの事を忘れているかもしれないとか、自分が相手を判らないかもしれないとか、そんなことを考えないか?」

 質問の形式を取りながらも、最後の方は声も細くなり、独白の感が強い。訊くとはなしに訊いてしまった───というところだろう。

「その心配をしたことはないな。大丈夫、俺は───」

 云いかけて、女の雰囲気が変化したことに気付く。

「おい」

 頬杖をつき、ジョッキを握った状態のままで、シルヴィアは寝落ちしていた。姿勢そのものはびくともしないが、規則正しい寝息が微かに聞こえる。

「やれやれ……」

 この彼女の無防備さはどうだろう? いくら腕が立つからといっても、よくまあ、これで女一人の長旅を無事にしてきたものだ。

 ティルダールは、保護する子供が一気に二人に増えたような重圧感を覚えた。

 絶世といっていいほどの美女が人事不省になっているからといって、別に悪さをする気もないが、一度連れになった以上、このまま放っておくわけにもいかない。

 仕方なく重い腰を上げ、息子の倍は軽くある体をどっこいしょと持ち上げて、店の主人に声を掛ける。

「御店主。勘定は明日まとめて頼む」

「承知しました───旦那も大変ですね」

「全くだ」

 そうは答えたものの、シルヴィアの重みは考えていたよりも苦にはならなかった。剣を振るうだけあってしっかりした身体付きをしてはいるが、そこはやはり女性である。重たいとはいっても、たかがしれている。

 もしかすると、別の理由から苦にならなかったのかもしれないが……。

 あてがわれた部屋の、二つしかない寝台の一つに彼女を降ろし、剣帯と膝上まであるブーツだけを外してやる。

「不安なのは仕方がないさ」

 眠り込んでいるシルヴィアには聞こえないのを承知の上で、ティルダールは囁いた。

 日頃は、感情を露わにすることがほとんどない、日焼けした精悍な男の顔に物憂い色が濃く出る。

 このイムヘルで、見失ってしまった妻に似た女に出会うとは、なんという偶然───どんな運命が用意した皮肉だろう。

 幼馴染だったティルダールとエリア・シルヴィアが夫婦になったのは、この都市に初めて訪れた時だ。たった二人で旅を始めて、一年程が過ぎた頃である。

 ここでこの顔を見ていると、嫌でも遠い過去の思い出が入れ替わり立ち代わり現れる。そして、それに伴う喪失感も……。

 シルヴィアが語った不安は、そのままティルダールの不安でもあった。まさか・まさかと考えてしまう事が、完全に消え去ることなどない。ありとあらゆる想像が脳裏を駆け巡り、眠れなくなる夜など幾らでもあった。不安は、望みに寄り添う影のようなものなのだ。

 しかし……。

 ティルダールは、目の前で眠る女と、生死をも知れぬ彼女の面影に重なるもう一人の女に、そっと低く囁いた。

「だけど、大丈夫だ。どんなに時が過ぎても、どんなに変わってしまったのだとしても、おまえはおまえでしかないのだから」

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