第1話 蛹・前編

「ねぇ、鈴原さん今日も来てないの?」

 凪紗に話しかけてきたのは、かなえと同じ部活に所属する先輩だった。

 授業の始業時刻が迫っているせいもあり、彼女は少し焦ったようにかなえのことを凪紗に尋ねてきた。

「えっと……かなえ、朝から体調が悪いみたいで」

 そう、今日もいつものようにかなえを迎えに行った凪紗は、かなえの母親に部屋から出てこないのだということを聞いていた。

「そっか……ありがとう。

 もしできたら、鈴原さんに明日ミーティングがあるって伝えといてくれない?」

「はい、わかりました」

 そう言って、教室を出ていくのを見送ってから、凪紗はため息を吐く。

 最近までは元気に登校していたというのに、1週間ほど前から妙によそよそしくなって行き、今では家族以外の誰とも会おうとしないのだ。

 今日はかなえ本人が体調不良を訴えたそうだ。

「……かなえ、どうしちゃったんだろ?」

 窓の外からは、体育の授業に勤しむ生徒達の声が聞こえる。

 いつもと同じ日常がそこにある。

 なのに、たまにその日常が遠いところにあるのでは、と思ってしまうことがある。

「やめやめ。

 よし、帰りにかなえのお見舞いにでも行きますか!」


 机の上に次の授業の教科書を置いていく。

 そうしていると、凪紗の咳の前に男子生徒が立った。

「あ、あの茶野さん……」

「えっと、安田君? 何か用?」

 凪紗の前に現れたのは、同じクラスに所属している安田ヤスダ和真カズマだった。

「えっと……鈴原さん、最近来ないね?」

「……そうなのよ。

 今日は体調不良って言ってたけど……ああ、かなえってかなりのスクープ好きでね? なにか話題になったことがあったら自分で確実な情報を集めようとするのよ。

 最近もそんなこと言ってたから、多分今回も同じパターンだと思うよ?」

 呆れた顔でそう言った凪紗に、安田は顔を赤らめた。

 周囲から見れば、安田が凪紗に好意を寄せていることは明らかであるが当の本人は気が付いていない。

「あの、もし良かったら………放課後、一緒にっ!」

「え、放課後?

 ごめん、帰る途中でかなえの家に行って様子見てくるから……今日じゃダメな用事だった?」

「あ、いや……大丈夫! 鈴原さん、元気になるといいね!」

「うん、安田君も心配してたって伝えておくね」

 会話を終え、安田は肩を落として自分の席へ戻って行く。

 安田の友人達はそんな彼の肩を叩いて励まし、そうでないクラスメイト達も安田に同情していた。


「まあ……そのうちいい事あるって」

「茶野さん、難攻不落すぎだ……」

「ドンマイ安田」






────────────





 放課後まではそんな調子で、凪紗はいつものように振舞っていたが、何か引っ掛かりを今日はよく感じる。その度に別のことに意識を集中させていた。

 それを繰り返し、やっと放課後になりかなえの家に向かうことができた。

「かなえのお母さん、凪紗です」

「あら、凪紗ちゃん。

 かなえのお見舞いに来てくれたの?」

「はい。あと、部活の先輩が明日ミーティングがあるって……」

「そう、ありがとうね」

 かなえの母親は申し訳なさそうに凪紗にお礼を伝える。

「……かなえ、大丈夫ですか?」

「それが、昨日は1度もご飯を食べなかったのよ」

「え」

「今日も朝から何にも食べてなくて。

 早めに夕飯も作ったけど………まだ手もつけてないみたい」

 それを聞いて、凪紗はかなえの部屋の前までやって来る。

 そこには、もうすっかり冷めてしまったかなえの夕飯が置かれていた。

 凪紗は意を決して扉を叩いた。

「か、かなえ? 私、凪紗だけど……」

 部屋の中からは何も聞こえない。

「ねぇ、かなえってば」

 ドアノブを握りしめる。

「お母さん、夕飯置いてくれてるよ?」

 心臓の音がうるさい。

 いったい何に緊張しているというのだろう?

 私は今、友人の家で体調の悪い友人の心配をしているだけだ。

 なにもやましい事なんてしていない。

 だというのに、この扉を開けてはいけないような気がする。ここから先に足を踏み入れればもういつもの日常に帰って来れないような気がする。

 それでも凪紗はドアノブを捻る。

 鈍い音を立てながら部屋の扉は開く。

「か、かなえ……?」

 廊下の明かりが部屋を僅かに照らしていたが、それでも全てを見ることはかなわない。

 凪紗は部屋の電気を点けた。

 荒れた部屋がそこにあった。壁紙もカーテンも本も破け、タンスの中をひっくり返したような形跡がある。

 何があったかはわからない。しかし、ハッキリとわかることは確かにある。


 そこにかなえはいなかった。


「かなえのお母さん! かなえがいない!! 部屋が荒らされてるの!!」

「え!?」

 かなえの母親は腰から力が抜けたのか、ペタンと座り込んで放心しているようだ。

「とりあえず、警察に連絡しないと!」

「わ、私がするわ。凪紗ちゃん、電話の子機とってちょうだい」

 凪紗はかなえの母親に子機電話を手渡し、その間にかなえの父親にスマホで連絡をする。

 電話に出た父親も焦ったように返事をしてすぐに帰ってくるそうだ。

 その間に警察との電話を終えたかなえの母親は赤くなった目を凪紗に向けた。

「ごめんなさい。せっかく来てくれたのに……」

「ううん……朝は、いたんだよね?」

「ええ、いたわ。ちゃんと返事したもの、お昼もそうよ」

「お昼からは?」

 凪紗が尋ねると、かなえの母親は顔を俯かせ首を振った。

「お昼ご飯を部屋の前に置いたのが、12:30頃。

 それからは、1度も」

 それだけ何とか凪紗に伝えると、かなえの母親はうずくまって泣き始める。

 かなえが大変な事件に巻き込まれてしまったのなら。そのもしもが良くない方向に向かうものだとすれば……。

 凪紗は手をにぎりしめる。

「かなえの部屋、警察が来た後私も調べてもいい?」

「凪紗ちゃん?」

「私もかなえを探すよ!

 あの部屋を荒らした犯人がかなえだとしても、何かがあったことに変わりないから。

 かなえは私のだから、絶対に探すよ」

「凪紗ちゃん……ありがとう、ありがとう……」

 顔をゆっくり持ち上げるかなえの母親の肩に手を置いた。

 自分がかなえを見つけられるとは思っていない。しかし、何か手がかりを見つけることが出来て、その情報を警察に伝えるくらいできれば、と凪紗は自身を勇気付ける。

「私が出来ることなんて、こんな事だけだよ。

 それに、かなえ案外ひょっこり帰ってくるかも。ね? それまで一緒に頑張ろう」

 かなえはスクープ好きだった。そんな性格のせいで、中学生の時に無断で遠出して真実を確かめようとすることもあった。

 あの頃は、確か大阪のお店のお好み焼きと東京のお好み焼き、どちらが美味しいかどうかを調べに行っていたんだったか。

 今回はだいぶ状況が違う。そんな冗談ではすまない可能性もある。それでも目の前で悲しみに暮れているかなえの母親を支えたかった。彼女もまた、凪紗の恩人なのだ。

「ありがとう、凪紗ちゃん。

 凪紗ちゃんみたいな子がかなえの友達で、本当にあの子は幸せ者よ。帰ってきたらめいいっぱい叱ってやるんだから……」

 真っ赤にした目をこすりながら、かなえの母親は笑ってみせる。

 その笑顔が無理やりだということには直ぐにわかったが、凪紗は笑顔で応えて気が付かなかったフリをした。


「とりあえず、今日は遅いからもう帰りなさい。何かあれば連絡するから」

「うん。無理しちゃダメだよ、明日も来るからね」

「ありがとうね、凪紗ちゃん」

 かなえの父親が顔色を酷く悪くさせて帰ってくるまで、何度もそんなやり取りをする。

 そうでもしなければ、なにかの拍子でまたかなえの母親がパニックになりそうだったからだ。

 かなえの父親にも何度も礼を言われ、凪紗はかなえの家を後にする。

「ほんと、あの馬鹿どこに行ったのよ……?」


 玄関を出ると、辺りはもうすっかり夕焼け色に染まっていた。

 凪紗は足を踏み出す。

 今日もいつもと変わらない通常どおりの日常が当たり前のようにあると信じて疑わなかった。

 だというのに、こんなにも簡単に全ての歯車が狂っていくとは夢にも思ってみなかった。

「今日はとりあえず帰ろう」

 不安を誤魔化すかのように凪紗はわざとらしく声に出してみる。

 蒸し暑い空気が凪紗の頬を撫でると、じわりじわりと汗が吹き出てくる。

 それでも凪紗は足を止めることなく家まで帰ってきた。


 かなえが居なくなったことを両親に伝えると、自分達のことのように心を痛め顔を顰めた。

「あとでお母さんも鈴原さんの家に電話してみるわ」

「ありがとう。かなえのお母さん、凄く取り乱してたから……」

「部屋が荒れていたとなると……事件の可能性が高いだろうな」

「やっぱり、お父さんもそう思う?」

 父は少し遠慮気味に頷いた。

「かなえちゃん、また何か気になってたことでもあったのか?」

「え?」

 不意に父が尋ねてくる。

 凪紗はしばらく考えて、あることを思い出した。

──もしかして……?

「思い当たる節があったんだな?」

「うん。でもこれが本当にかなえがいなくなった理由なのかはわからないの」

 凪紗は俯きながら父に言う。

「理由がなくたっていい。

 何か違和感に感じたことがあったのなら、その違和感の正体に向き合いなさい」

 父の声は凪紗の心に染みていく。

 少しでもいいから凪紗の背を押そうとしてくれているのがようわかる。

「うん、わかった。ありがとうお父さん」


 その日は慌ただしく終わって行った。

 1度は家に帰った凪紗も、その後第一発見者として警察から根掘り葉掘り当時の状況を尋ねられ、数え切れないくらい当時の話をした。

 絶対にかなえが帰ってきたらまず説教をして、自分がいかに迷惑こうむったかを言ってやらねば気が済まない。

 凪紗はすっかり翌日をまわってしまった時計を睨みつけながら布団に入った。





────────────





その日は本当にいい日だった。

 その日は本当にいい日だった。

  その日は本当にいい日だった。


どんなに声を出してもたたかれなかった。

久しぶりにちゃんとごはんをもらった。

とてもあまいチョコのおかしを買ってもらった。


それを大好きなあの人につたえに行こうとしたら、こわい人達がげんかんから入ってきて、おとうさんがわたしの手を引っ張った。


痛いと言って振りほどこうとしたら、おとうさんは私をたたいた。

おかあさんは離れた所で見ているだけ。


今まで出したこともない大きな声を出した。

「たすけて!」

おとうさんはよけいに怒鳴るし、叩かれた。

痛くて仕方がなくて。


そうしていると、窓を割りながらあの人が家の中に入ってきた。

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赫映事変 千羽太郎 @SenbTaro

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