2
都心の高層マンションの最上階。名の通った俳優の一人娘として生まれたわたしは、この家で父親と二人暮らしをしている。もっとも、父親はほとんど帰宅しないし、現れるときは大抵彼女と一緒だ。それは暗に彼女への寵愛を物語っていた。
これまで彼女は自らこの家に来たことはなかった。いつも必ず父親と一緒だった。当然だと思う。彼女を満たしているのはわたしではなく父親であり、彼女が求めているのは力と金を持ったより強い男なのだから。彼女はわたししか居ないこの家に何の用もない。
それなのに、深夜二時を回った頃、彼女はわたししかいないこの家にひとりでやってきた。誕生日パーティー真っ只中の父親と一緒にいるはずの彼女が現れて、わたしはとても動揺した。もう二度と会うことはないと思っていた。
もう一度彼女の方を確認する。彼女はオーディオの前に立ち尽くしていた。耳をつんざくような歪んだ音が部屋中にこだましている。それを彼女は浴びるように聴いていた。気付けばわたしはまた彼女を見つめていた。彼女から漂う哀愁がひどく甘美なものに感じられて、わたしは耳を塞いでキッチンへと逃げた。ダークブラウンの特注キッチンは長く使っていないので、コンロに薄く埃がかぶっていた。
耳がおかしくなりそうで、不意にお酒が飲みたくなった。食器棚を漁ると最初に開けた扉の奥にシャンパンがあった。わたしはそれを迷わず開ける。どうせ父親のコレクションだ。咎める人などいない。わたしはグラスをひとつだけ用意して、透明な金色の液体を注ぐ。味は嫌いだったけど、昔からこの色だけは好きだった。華やかさの奥にちらつく脆さがわたしの心を捉えたのだと思う。
わたしはシャンパンを一口だけ口に含んだ。お酒の味がした。
視線を上げて彼女を探す。二十畳はゆうにあるリビングの大きな窓から彼女は都会の夜景を見下ろしていた。その姿が遠い記憶の中の母親と重なる。きっと彼女はこの程度の夜景など見飽きているだろうけど、いつも彼女は街を見たがった。理由なんてないのかもしれない。でもそれが気になってしまうくらいには、わたしは彼女の虜だった。
彼女の後ろ姿には、見た人を惑わせるような何かがあるようにわたしは思う。逆光でシルエットしか分からないことも相まって、彼女の周りだけがどこか神秘的な空気感を纏っていた。
わたしは気付かれないように、彼女を隅々まで舐めるように見た。
わたしは彼女が意図的に曲線がはっきりと出るような服を好んで着ていることを知っていた。彼女は他人が自分に何を求めているのかを見抜くことが得意だったし、そのことに対して敏感でもあった。
ふと思う。
彼女の目には、わたしは彼女に何を求めているように映っているんだろう。
内心、なんて惨めで愚かな子だと思っているのかもしれない。両親が離婚し、母親に見捨てられた可哀想な女の子。唯一の家族である父親は、毎晩遊び歩いて、挙句の果てには家に女を連れ込む。どこにも愛はない。
あるいは、彼女にとってわたしは、居ないも同然なのかもしれない。哀れみの感情を抱くことすらないような、空気みたいな存在なのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。少しでもいい。彼女の視界に入りたかった。
彼女がわたしを見ていなくても、それでもわたしは幾度となく彼女の背中にひどい眩暈を覚える。気が狂うくらい胸がざわついて、喉が渇いて、居ても立っても居られなくなる。
音が邪魔だった。
キッチンにシャンパンを残して、わたしは乱暴にオーディオのスイッチを切った。
部屋は静寂を取り戻して、微かに彼女の香水の匂いがした。
音が途切れて、彼女は気怠そうに振り返る。あでやかな黒髪が揺れて、彼女の妖しい視線がわたしの瞳を射抜く。もう我慢できなかった。
潤んだ唇を食らう。抱き寄せられた彼女は驚いた様子もなく、わたしの接吻を受け入れていた。不意に彼女の手が伸びてきたかと思うと、わたしの髪を耳にかけて、そのままわたしの耳をなまぬるい掌で覆い隠す。何度も何度も角度を変えて、彼女のべたつくグロスがわたしの唇に残る。それがさらにわたしの興奮を煽って、わたしは貪るように彼女の唇を味わった。僅かなに唇を離して、おもむろに自分の唇を舐める。彼女と同じ味がして、自然と笑みがこぼれる。
ぼんやりとした視界のまま、彼女を見つめ返す。ずっと前からわたしの中に根深く巣食っていた憎悪と嫌悪感は消え去っていた。
わたしが完全に唇を離すと、彼女の人差し指がわたしの首筋をなぞった。背中を稲妻が駆け抜ける。彼女の唇がわたしの右耳に触れてしまいそうな距離にあった。
「もっと欲しいでしょう?」
いつもはこんなので終わらないのに、と彼女は続ける。彼女が初めてわたしを食らったのは三年前のことだった。
わたしの体内で、激しい渇望と消え失せたはずの憎悪が同時に鎌首をもたげていた。キスだけで終わりにしようものなら彼女に煽られることは容易に想像できたけれど、我慢できなかった。彼女を拒絶する方法も優位を奪う方法も知っていた。でも知っているだけだった。脳内に鳴り響く警鐘が次第に激しさを増していく。わたしは目を閉じて深呼吸をした。
「女に興味なんかないんでしょ」
冷ややかな声は彼女を喜ばせるだけ。
「そんなことないわ」
「わたしは父親の代わりにはならない」
わたしの強がりも彼女を喜ばせるだけ。
分かっているのに。どうしてわたしはこの人を拒絶できないんだろう。
「強情ねぇ」
彼女の指がうなじをくすぐる。首筋にかかる吐息があの唇から吐き出されたものだと思ったら、頭がくらくらした。
脳が思考を放棄したがっていた。今すぐに考えることも抗うことも辞めて、すべてを彼女に身を委ねたかった。いつものように、彼女の誘惑に屈してしまいたかった。
彼女にとってのわたしが父親の代替品でもよかった。彼女の視界に入っていられるならそれで、よかった。
そうだ。それでよかったはずだ。
一体いつからわたしは復讐心を忘れて、欲望に貪欲になってしまったんだろう。
わたしは彼女の両肩を強く押した。
彼女はわざとらしくよろめいて、フローリングの床に倒れ込んだ。わたしは感情のない瞳で、彼女を見下ろす。もうこれ以上は進んではいけない。わたしは殺さなくてはならないのだ。彼女を、この手で。
覚悟を決めようと思った。
今日この日のために、わたしはずっと前から計画を練ってきたのだ。彼女はわたしの母親の仇で、忌々しい父親の愛人で、本来わたしが受け取るはずだった愛情をすべて彼女が横取りした。彼女が居なかったら、わたしはもっと幸せだったはずだ。
母親も決してよい母親ではなかった。でも完璧ではなくても、家族のカタチはもっと長く保てたはずだ。少なくとも彼女が現れる前まではわたしたちは家族だった。
でも彼女が現れて、全てを粉々に打ち砕かれた。父親は簡単に家族を忘れ、わたしは思い出せなくなった。思い出したくなかった。彼女という存在が心底憎くてたまらなかった。殺してしまいたい。ずっと前からそう思っていた。
でもわたしは、どうしようもなく彼女が好きだった。彼女の身体も匂いも仕草も話し方も全てが愛おしくて仕方なかった。父親に愛された彼女の視界に入って、彼女に気にかけてもらえることが何よりも嬉しかった。わたしにはそれしかなかった。彼女に触られることがこの人生において唯一の幸福だった。
覚悟なんて決まるはずがなかった。彼女を前にすると理性が姿をくらましてしまう。わたしは彼女を殺したくなかった。彼女を殺すくらいなら、彼女に殺されたかった。でもわたしはまだ死にたくなかった。
泣きたかった。彼女はそんな私を見て、悪戯を思い付いた子供のように口角をあげていた。
彼女を殺せないのなら。わたしは、震える声を絞り出す。
「……出てって」
彼女は迷う素振りも見せなかった。ソファからバッグを取って、玄関に消えた。
部屋には彼女の残り香とわたしだけが取り残された。わたしは立ち上がって、シャンパンの入ったグラスを勢いよく床に叩きつけた。ガラスの破片が飛び散って、わたしの頬を掠める。
わたしはひとり静かに泣いた。
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