虎が雨

紫蘭

「そんなの、男に満たしてもらいたいからに決まってるじゃない」



 あけすけに言う彼女の唇の端が艶めかしく光っていた。

 ちょっとした出来心だった。最後の最後になって、彼女のことが知りたくなった。だからわたしは彼女に、夜の蝶になった理由を訊いた。



 ソファに形の良いお尻を沈ませて、細くしなやかな足を組んだ彼女をわたしは努めて冷ややかな目で見やる。彼女は含みをもった微笑みを絶やさない。



 あたしはあんたに、微塵も興味なんてないのよ、と、そう言われた気分だった。



 わたしは彼女を睨んだ。

 ほどよく引き締まった華奢な体。染みひとつない滑らかな肌。猫のような目。そしてそれらを大胆に晒すワインレッドを基調としたドレス。もちろん、丈はお尻が隠れるくらいしかなかったけど、それらすべてが彼女の美しさを引き立てていた。

 ガソリンに引火した炎のように、膨れ上がった苛立ちが爆発しそうになる。慌ててわたしは彼女の唇に視線を移した。血のように赤く、弾力のある肉厚な唇。丁寧にグロスが塗られている唇は暖色系の淡い照明のもとでさらに妖艶さを増していて、どうしても目が離せなかった。

 喉を唾が伝って、ごくりと上下する。

 気付けば苛立ちは渇望に変化していた。それすらも彼女の計略のように思えて、わたしは怒りのまま溶けてしまいそうだった。



 こんな女にほだされるなんて、ありえないはずだったのに。



 このままではいけない。わたしを挑発するように微笑んでいる彼女に背を向ける。彼女は愉快そうに声を上げて笑った。乾いた声だった。わたしは我慢できずに振り返る。

 だけど、そこにいるはずの彼女は、いつの間にかキッチンの反対側にあるオーディオの前に立っていた。


 それを見たわたしは、カウンターに置いたままだったパスポートを素早く手繰り寄せた。工具を片付ける余裕はなかった。慣れないことをしたから余計な時間がかかってしまった。


 次の瞬間、彼女にはそぐわない爆音のメタルがリビングに響き渡った。メタルの音にかき消されていたけど、わたしは自分の心臓が激しく拍動していることに気付いていた。けれどそれを彼女に悟られてはいけないのだ。今日だけは絶対に。




 五月二十八日。今日、わたしは父親と彼女を殺す。

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