旅人はキャンパス

影迷彩

旅人はキャンパス

 山奥にある小汚ない別荘に、ローブを羽織った旅人が訪れて玄関のドアをノックした。

 別荘の主である白髪の老人は、億劫そうにドアを開け、旅人を睨みつけた。

 

 「旅人か。生憎とウチにはもてなしなどする余裕はなくてな。さっさと帰んな」

 

 「いえ、泊まりに来たのではありません。私はアナタが高名な画家であることを知り、ここに訪れたのです」


 旅人の表情は、フードの陰に隠れてよく見えない。


 「ほう、依頼か。ならワシがつい最近キャンパスから離れた生活を送ってるのも知っているだろう。絵の依頼は受け付けないし、ワシの名を辿って遥々(はるばる)来たなどという事情でもワシには関係ない。さっさと帰ってくれ」


 「いえ、私はアナタが世俗を嫌い、この自然に暮らすことを決めたのを知っています。世の評判を捨てたアナタだからこそ、お願いしたいことがあるのです」

 

 旅人はフードを取った。老人はその顔を見て驚いた。旅人には目も鼻も口もなかったのだ。


 「なんてこった、おまえ顔がないぞ! さては、のっぺらぼうという類いか」


 「そうです。私は生まれてからずっと顔というものがないのです。そこで私という人物の顔を描いてもらうべく、旅人になりました」


 「なんとまぁ……立ったままは疲れる。少し椅子に座れ」

 

 老人は驚きながらも、旅人を自宅に招き入れてしまう。世俗を嫌った老人といえど、人生で初めて遭遇する怪異に対して驚きだけでなく好奇心が共に湧き、話だけでも聞くことにした。

 

 「私は生まれてからずっと顔というものがなく、自分の表情を持てないでいました。をのうち私というのはどんな無意識な気分が顔に出てるか考え始め、やがて自分が誰なのか分からなくなったのです」


 二人は椅子に座り、老人は旅人の正面から話を聞く。


 「なるほど、それで自分の顔を描いてもらうべく旅を始めたと。しかし分からんな、それならワシでなくても、より気前よく引き受けてくれる画家など大勢いるだろう。他に依頼などしなかったのかい」


 「先生以外にも多くの画家に依頼しましたが、ある画家はインスピレーションがどうしても湧かないといい、ある画家は私がその絵で一生生きていくという責任に耐えきれず、依頼を断ったのです」


 老人は目を細め、のっぺらぼうの旅人を見続けた。確かにどんな表情か、目鼻立ちがないので全然分からない。今、彼がどんな気持ちで老人と対面してるのか、ちっとも掴めない。


 「するとなんだ、ワシならおまえがこの先どう生きようが知ったこっちゃないというのでここに来たと」


 旅人は頷いた。老人はアゴヒゲを擦りながら考える。画家というのは自分の解釈で作品を描くのが仕事だ。それがどんな絵になろうが、依頼から外れない限りそれは解釈なのであって、自由に描いた分には責任というのは生まれない。

 しかし今回は別だ。自分の描いた顔がこれからの旅人の人生を決定付ける。この責任は確かに重大だ。しかし老人は世俗から離れた身。旅人がその顔でどんな人生を送ろうが、関係ないことだった。

 

 「よし、暇潰しな感覚で描くとしよう。だがワシにも画家としての意地がある。まずはおまえがどんな人物か知るところから始めよう。しばらくワシに付き合え」

 

 ──その日から老人の別荘に旅人は暮らし始めた。口がないからか、旅人は食べ物を必要とせず、ローブの洗濯なども自分で行えた。老人の暮らしに影響するようなことなどはなかった。

 泊めてから三日たち、老人は未だ考え続けた。ただ一緒の建物にいるだけでは、旅人の表情が掴めない。

 

 「旅人、暇なら少し、この家を綺麗にするのを手伝え」


 老人は旅人に別荘の掃除を一切任せ、そのうち食事なども頼むようになった。別荘は小綺麗となり、食事は山で採れるものだけでバラエティー豊かなものが出てくる。

 自分ですることもなくなったので、老人はぼんやり山を眺める日々を送りながら旅人の顔も観察した。テキパキ家事をこなす様は几帳面な性格のようだが、実は不機嫌になってるのではなかろうか。旅人がどう思いながら家事をこなしているのか、口調だけでは全く分からない。

 

 「旅人、その具材はどこで見つけた? 初めて見るものだ」


 「それでしたら、あちらの方角の山の頂上に実っていました」


 「ほう、今度連れていってくれ。この味付けはワシの好みだ」


 老人は自分から積極的に旅人に付き合うようになり、会話や行動を共にするなかで彼の感情を知ろうとした。

 料理や掃除、散歩などを通じて旅人との交流は深まったが、以前その性格は掴めない。単なる作業としてワシと付き合ってるのか、さて……

 老人はそのうち、旅人と隣り合って寝ながら天井を見上げ、いつしか自分の半生の苦労、画家としての挫折を通じての成功、そして成金趣味に振り回される依頼に嫌気が差してキャンパスから離れたことを告白した。それは愚痴であり、自慢のようであった。普通の人に話すなら、共感や面倒臭さが伝わって話を変えるものだが、表情の分からない旅人だからこそ、老人は人生で最も自然体になれたような感覚で半生を語ることができた。

 老人は天井から旅人の顔へと視線を動かした。最初に出会った頃は不気味であったが、慣れてしまえばそうでもない。しかし相槌を打つだけの反応には、まるで布を押すような感覚で手応えは以前なかった。

 「話が長くなったな。旅人、おまえにも語りたい思い出とかはないのか?」

 

 「旅をして以降でしたら少し」


 旅人の語る内容は、絵本の読み聞かせのような口調で、抑揚は大きくなかった。話す内容も在り来たりであったが、老人は旅人の話を聞き入っていた。正確には、話でなく旅人そのものを気に入っていた。


 旅人が別荘に暮らしてから長い月日が経った。

 しばらく前から、老人は布団の上から起き上がれなくなっていた。世俗を絶った老人には別荘を訪れる知り合いなどいなく、連絡先もなく民家からも遠いため旅人では医者を探すことが出来なかった。出来ることといえば、老人の体調が悪化しないよう、民間療法で彼を安静にさせることぐらいであった。


 「ワシもそろそろ限界だ……後悔はない。後悔はないのだが……おまえの顔を描くのがまだであったな」


 起き上がろうとする老人を旅人は制止した。しかし老人はその手を優しく払いのけた。


 「画家として、仕事のやり残しは後悔になる。パレットを持ってこい。今ならおまえの顔が分かりそうだ」


 旅人は老人にパレットを渡し、自分の顔を前に出した。老人は弱々しくなった腕を奮い立たせ、一日をかけてゆっくりと旅人の顔を描いた。

 「ワシからおまえにすることは大体一方的だったのう……こんな老人の余生を、共に過ごしてくれてありがとう」


 旅人は老人に顔を描かれながら微動だにしなかった。


 「いえ、私こそ、アナタと共に暮らす日々は楽しかったです」


 「フンッ……ワシはおまえのことを、理解出来てるかのう」


 「私は、アナタのことを理解しています」


 最後の一筆を終え、老人は疲れたように布団に倒れ、眠りについた。そして二度と、目を覚まさなかった。

 旅人が老人の顔を撫で、彼に布団をかけた。別荘にある鏡を探す。手鏡を覗きこむと、旅人の顔は老人そっくりとなっていた。

 老人を埋葬し、旅人は別荘に帰る。これから何をしようか。とりあえずここに暮らしてみよう。絵心なら老人から教わっている。ここでのんびり絵を描きながら、誰かが訪れることを待ってみよう。

 


 

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