ある雪の日

@Hermitage_ninja

第1話

皆様には想像しにくいお話であるとは思いますが、今回、わたくし初めての会合ですので、一番楽しかった思い出についてお話させていただこうかと思います。えぇ、何卒、拙いお話では御座いますが最後までお聞きいただけますと幸いです。


いきなり私事で恐縮ですがわたくし、生まれも育ちも北海道でございまして、しかも家が転勤族なものですから、都会から田舎から、数年で行ったり来たりする子供時代を送ってまいりました。田舎というのは、皆様分かりにくいとは思いますけども、一番深刻だったのはわたくしが5歳の頃から住んでいた村でしたでしょうか。まず国道に出るまで来るまで30分走らねばならない、国道に出てから更に20分走ってようやく八百屋に着くかどうかという凄まじい場所にございました。ましてや冬の日、雪がたんまり積もった日には車の足が20%ほど遅くなります…とまぁそういう土地におよそ3年ごと、場所を変えながら転々としておりました。


えぇと、本日お話したいのはその6歳の時の冬の日のことでございます。前置きが長くて申し訳ございません、どうにも口が下手で。

えぇ、その日は…いえ、その2週前からでした、雪の降る量が例年よりも多いとは皆思っていたのです。農家でビニールハウスの骨格が背丈の半分ほど埋まるのは、後にも先にもあの年くらいだったと記憶しております。朝目覚めて玄関が埋まったのも初めての体験でございました。もっとも、当時のわたくしは子供ながらに楽しんでおりました…えぇ、雪かきが沢山できたので、ある意味アミューズメント施設というか、雪かき自体を遊びとして楽しんでいた節はございました。

それが、とうとうある日、降った雪の重さに耐えきれず、国道から配線されていた電線が切れてしまったのです。村内に電気を供給する、その唯一の太い線が、内浦湾の湿気を含む泥のように重い雪を背負いきれずブチ切れてしまいました。後々写真を見ましたが、えぇ見事に引きちぎれておりました。


電気がない、と分かったのは朝5時頃でございました。農家は冬の季節でも習い性で早起きですので、4時、5時頃には大概起きていました。そして電気がつかないと気がついたのです。足の早い者は村を車で走り回り、国道の電線が切れていることを6時までに発見しておりました。村の暖房は石油ストーブが大半でございましたが、その点火に必要な電気が、スパークがないので、村の皆寒さで震えておりました。無論当時のストーブは電気を前提にした設計になっており、電気がなければ火が付かないのです。薪ストーブは、薪が雪で湿って火が付きませんでした。


わたくしが起きたのは朝6時でございましたが、両親を含め、村人達は事態の重さを理解しておりました。ライフラインのうち最も重要なものが途絶しているのです。大人たちはみな悄然としておりました。極寒の北海道の冬で、唯一の熱源がいつ復旧するか分からないとなっては、明日を迎えられない可能性がございました。


無論、電気切断が判明してからすぐに他の自治体への救援要請は出しておりました。ただ、周囲の村程度が出せる救援はたかが知れておりますし、そもそもこの村に車で1時間ほどは掛かります。なにより、電気が途絶している現状を回復するには高度な業者を呼んで工事をしなければなりません。それにはきっと数日を要するでしょう。極寒の大気は、それまでに村の住民を凍らせてしまうことが容易に想像できました。


村の若い者達は自前の軽トラを繰り、隣の村々からなにかしらの電源を持ってこようと意気込んでおりました。しかし、村中の需要に叶うほどの予備電源なぞ、当時の自治体は、村どころか町、市でさえ常備していませんでした。彼らはありもしない希望を村の外から持ってこようとしていたのです。しかし、当時の私には彼らの思いこそ同調できるものでした。村の中で黙っていても、あるのは冷たい雪の塊と乾いた風だけだったからです。手袋をしていても、厚い靴下を履いていても、体の末端はすでに耐え難いほど冷え切っていました。


朝9時頃でしたでしょうか、陸上自衛隊から電源車が山沿いに向かっている旨の連絡が村長に届きました。村長は人々に要らぬ失望を与えました。あまりの大雪のため、国道が通行不可になっていたのですが、それをありのまま伝えてしまいました。若人はもう何も言いませんでした。彼らの目論見は隣村に付く前に潰されていたのです。自衛隊の電源車は早くて15時に到着するとの予測でした。6歳のわたくしに言えることは何もありませんでした。


そこから、待ちました。ひたすら、待ちました。しんしんと積もる雪を見ながら、ただ黙ってみていることしかできませんでした。暖を取る手段がない以上、雪かきで体力を消費することは、命を削る行為でしかありませんでした。指先は凍てついていました。家の中なのに息は白く、誰もかも微動だにしませんでした。


このまま雪が積もったら、電源車が来ても家から出られないかもしれません。電源車が来ても気付かないかもしれません。雪かきは絶対にしなければなりません。でも、電源車が来なければそれは自殺行為です。私達は待ちました。15時を過ぎ、振り子時計は16時を示しましたが、外の景色は少しも変わりませんでした。物音一つしませんでした。


振り子時計が17時を過ぎて、いよいよ私は我慢ができなくなりました。きっと電源車は来ていて、雪のせいで物音が聞こえないだけなのだと両親に訴えました。しかし彼らは取り合いませんでした。電源車が来たならば、門戸を叩いてでも我が家に来るはずだからです。実際電源車は来ていませんでした。山道は、まさに非常用の道路として建設されたものの長い間使われておらず、荒れており通行に適さない状態だったのです。予定の3時間以上掛かってなお村に到着していませんでした。


両親に叱られて、やむを得ず私は窓の外を見ながら待つ作業に戻りました。朝に比べて雪は20cm以上も積もっています。玄関は開けられないかもしれません。でも雪かきはできません。この時点ではもう手が凍えて指先が動きませんでした。耳も千切れていたかもしれません。


私は窓の外を見ました。普段あんなに村中を行き来し、挨拶して回った友人が、知り合いが、誰一人として出歩いていませんでした。ただでさえ狭い村から人の気配が一切消えていました。そして、柔らかそうな雪が地面に、屋根に、窓に、あらゆるものを覆い尽くすように積もっていました。自分はこのまま雪に押しつぶされるのだ、と幼心にいよいよ覚悟したのを覚えております。


20時になってようやく、自衛隊の車が村に到着しました。初め、私にも両親にも分かりませんでした。しかし、スコップを持った迷彩服が我が家の玄関を掘り起こし、太い電線を抱えて家に入ってきたときには本当に奇跡を信じました。冷え切った石油ストーブが、唸り声を上げて火を灯しました。14時間振りの暖かさに、家族全員で涙を流しました。電源車はその後村唯一の銭湯に向かい、温かい風呂を村人に提供しました。私達はようやく蘇りました。


その後、千切れた電線が恢復するまで補給は立て続けに来ました。山道を通って電気が、石油が、村に提供されました。あれがなかったら、無慈悲に積もる雪のため私達は氷漬けになっていたでしょう。


これも、たった10年そこそこ前の話でございます。えぇ、わたくしが6歳の頃でございますから、20年は経っておりません。…驚きましたか?ありえない?いいえ、そういう町も村もあるのです。あの村のように、ひとつ道が途切れれば何もかも途絶するような集落はいくらでもあります。

…というお話です。えぇ、お話です。ここはそういう会合でしょう?違うのですか?


本日はわたくしのお話をご清聴いただき感謝申し上げます。ただ、今の私があるのはあの時ただ積もる、積もり続ける雪をただ眺めた経験が故でございます。えぇ、そういうお話ですと申し上げておりますが、何卒よろしくお願いいたします。

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