第八話 緑の園


 結論から言うと「水やり」が何か怪しい隠語だったということはなく、灯里の用事は言葉通り、園芸部としての活動の一環である花の世話には違いなかった。

 ただし、その規模は深夜の予想を大きく上回っていた。


「まさか、校内にこんな建物があったなんて……」

「温室棟は園芸部しか使ってないし、その関係者以外は滅多に来ないから」


 観念した灯里によって深夜達が連れてこられたのは、教室のある本校舎を出て中庭を抜けた先。そこには、コンクリート打ちっぱなしのシンプルな円形の建物が、体育館の裏に隠れるように存在していた。


 重そうな観音開きの扉を押し開き、灯里が『温室棟』と呼ぶその建物の中に入った深夜達を出迎えたのは、空間一面に生い茂る植物達。

 建物内部の広さは、温室どころか小規模の植物園と形容しても差し支えないほどだ。

 足元にはレンガで仕切られた花壇で咲き誇る色とりどりの花。

 壁際には柑橘類らしき青い果実をぶら下げた広葉樹の並木。

 それらはガラス張りの天窓から差し込む太陽の光を全身で浴び、悠々と枝葉を伸ばしている。

 流石にこれだけの広さともなると、ホースで水を撒くだけでも一筋縄ではいかず。三人がかりで手分けしてなお、作業がひと段落つく頃には昼休みの開始から三十分が経過していた。


「ちょっと、疲れた……」


 一仕事を終えた深夜達は、温室のちょうど中心に位置する芝生の敷かれた小さな広場に腰を下ろす。

 慣れない作業だったこともあってか、深夜はへばり切った顔でアンパンにかじりついた。


「大丈夫、神崎くん?」

「神崎はもうちょい体力つけた方がいいんじゃないか」

「運動嫌い……面倒くさい……」


 一方、深夜の近くで同じように座り、持参した弁当を食べている灯里と和道はけろりとした様子で、一人は心配そうにもう一人はからかうように声をかけた。


「でもさ、なんで宮下はこの程度のこと隠そうとしたの?」

「だって……二人に教えると手伝うって言ってくれるから」


 予想外の答えに深夜と和道は互いに顔を合わせる。


「もしかして、迷惑だった?」

「迷惑ではないよ! ただ……ほら、してもらってばっかりって気が引けるっていうか」


 灯里は膝の上に置いた彩り鮮やかなお弁当を箸先で弄びながら、気まずそうに答える。

 ひとまず、嫌がられていないのは安心だが、今度はまた別の疑問が浮上する。


「そんなに言われるほど、宮下に何かやった?」

「やってもらったよ。例えば……受験勉強、一年ずっと根気よく教えてくれたでしょ?」

「あー、あったあった! あの件は俺も神崎に世話になったわ!」


 和道は、灯里のそれの倍はあろうかというサイズの弁当箱を抱え、鮭の切り身を豪快に噛みちぎりながら懐かしむような声を上げる。


「俺と宮下が黒陽に入学できたのは、神崎センセイのおかげといっても過言じゃないな」

「そういえば、去年はほぼ毎日、放課後一緒に勉強してたね」


 二人の発言で深夜も、中学時代の勉強漬けだった一年間を思い出す。

 合格発表の時に灯里と和道が二人揃って半泣きだったのが、今となっては懐かしい。


「なんか、もうずいぶん前みたいな気分だよ」

「神崎くんは……受験の後も色々大変そうだったもんね」

「あ、ところでさ。俺が休んでる間に最初の中間テストあったと思うけど、二人とも結果はどうだったの?」

「うげっ!」

「はぅ……」


 深夜としては本当に何気ない質問のつもりだったのだが、両隣に座る二人は声を詰まらせて箸を止める。

 そのまま二人は、すーっと深夜から逸らすようにそれぞれ顔を横に向けた。

 悲しいかな、深夜は友人達のその態度でおおよその結果が推測できてしまった。


「二人とも赤点何個取ったの?」

「ええと……たぶん四つぐらい」


――和道、どうして自分の成績を答えるのにそんなに曖昧な言葉なの――


「その……和道くんよりは少ないよ?」


――宮下、抽象的な言葉選びをしても現実は変わらないよ――


 深夜はアンパンの最後の一口を押し込み、静かに天を仰ぐ。

 天井にある大きな円形のガラスから差し込む太陽が、目に痛いほど眩しかった。


「普通に授業受けて、宿題やって、予習と復習をしてたら赤点なんて取らないと思うんだけどな」

「いいか神崎、よく聞け。俺達はそういう普通のことが簡単にできないからバカなんだ」

「そうだよ神崎くん! 『言うは安い、行うは高い』っていうでしょう!」

「それを言うなら『言うは易く、行うは難し』だよ…………」


 どうしてここまで、勉強に対して不満と言う名の熱意を込められるのだろうか。

 深夜も特別に勉強熱心な人間ではないが、二人のテンションにはたまについて行けない時がある。


「っていうか、『面倒くさい』が口癖の神崎が、日々の予習復習をちゃんとしてる方が不思議なんだが」

「確かに……神崎くん、休み時間はよく寝てるけど、授業中に寝てるのは見たことないかも」

「だって、あとで再テストや補習を受ける方が面倒くさいじゃん」


 毎日の暇な時間にコツコツと勉強をしておけば、補習や再テストで大切な睡眠時間を削られる心配がない、というのが深夜の持論だった。


「神崎くんの正論が胸に刺さる……」

「面倒くさいの嫌いだからさ。効率主義なんだよ、俺」


 そうこう話していると、密閉された温室棟に昼休み終了五分前の予鈴が届く。


「もう昼休みも終わりか。この三人で飯食うのって久しぶりだったから、なんかあっという間だった気分だぜ」

「本当にゴメンね。手伝わせちゃったせいでせっかくの昼休みなのに慌ただしくて」

「謝らなくていいよ。少なくとも俺はやりたくてやったことだから」


 食べ終えたお弁当を片付けながら肩をしゅんと小さくしている灯里に、深夜は嘘偽りない言葉をかける。


「……ありがとう。今度は純粋にお花を見にきたり、のんびりしにきたりしても大丈夫だから」

「じゃあ、今度はここに昼寝しにきてもいい?」

「この上なく神崎らしい利用方法だな……」

「だって、ここあったかいし、芝生あるし。寝心地よさそうだから」


 そのうえ屋根もあって雨を気にする必要もないとくれば、こんな理想的な昼寝スポットはなかなかない。

 そうして三人とも昼食の後片付けを終え、揃って温室棟から出ると灯里が観音扉の鍵を閉めた。


「それじゃあ、私は職員室に鍵を返しに行ってくる。二人は先に教室に戻ってて」

「ん。了解っと」


 深夜はその後ろ姿を見つめ、手持ち無沙汰になった両手を学ランのポケットに入れる。

 その手に金属質の冷たい感触がし、今更になって自分が灯里を探していた理由を思い出した。


「確認するの忘れてた……」


――でも、昨日のやつは声や服装的にたぶん男だったし、宮下は悪魔とは関係ないよね――


 深夜はそう自分を納得させ、ポケットの中で退魔銀の栞を軽く握る。


「しかし、宮下が校内でナンパされるとは、神崎もうかうかしてられねぇな」

「そうだね。宮下は可愛いけど自覚なさそうだから。悪い男に騙されたりしないように、俺達も気を付けないとね」


 小動物然とした小柄な体躯に加えて、なまじ気弱そうな顔つきなので庇護欲ひごよくをそそるのか、中学時代から灯里はそういう方向性で一部男子からのウケが良かった。

 それでなくとも、高校生にもなれば色恋沙汰も珍しい話ではなくなるだろう。

 今後は灯里が悪い男に騙されないよう、しっかりと目を光らせておく必要があるな、と深夜は気を引き締める。


「何その顔」

「お前はあいつの保護者か……」


 和道は信じられないようなものを見つけたような顔で深夜を見つめる。

 なんとなくだが、バカにされているのだというニュアンスは深夜にも伝わってきた。


 ◇


 午後の授業も滞りなく終わり。三木島の言っていた直帰命令もあってか、教室内の生徒はあっという間に半数以下になっていた。

 和道と灯里も、それぞれ用事があると既に帰宅済み。そんな友人達を見送った深夜は、人もまばらとなった教室で、雪代に渡された退魔銀の栞を眺めながら呟く。


「しかし、悪魔憑きを探すって言っても俺には目星のつけようがないんだよね」


 なにせ深夜がこの学校で知り合いと言える相手は、和道と灯里だけだ。

 クラスメイトすら、顔を合わせて半月経った今でも、顔と名前が一致する生徒がほとんどいない始末。

 これでどうやって、命を狙われるほど恨みを買うような相手を探せというのか。


「お、ラッキー。神崎まだいるじゃねぇか」


 終業後も席に座ったまま考え込んでいた深夜に気さくな声が投げかけられる。

 顔を向けると、皺の残ったワイシャツを着た気だるげな眼鏡の男、担任の三木島大地がそこにいた。


「何の用ですか?」

「ちょっと今から面談がしたいんで、進路指導室まで来てくれ」

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